白い外観に反して、研究所の中は酷く雑多な色で溢れている。
ゆったりとした廊下にはなんに使うのか分からない機械が乱雑に並べられている。折角の広々とした廊下なのに――それでも確かに狭くはないのだが――、これらの機械のせいで全くの開放感も感じない。
そんな廊下を暫く直進し、突き当たり右の扉を押し開けた。
一層濃くなったオキシドールの匂いに若干の頭痛を覚えた。
やはり駄目だ。
この匂いは。
僕は不機嫌で胸がむかつくのを感じつつ、その部屋へ入る。
パタン、と後ろ手で扉を閉める。
「やあ、こんばんは。待ってたよ」
部屋を入ってすぐに、若い男の声が僕を出迎えた。
来訪を喜ぶように弾んだ声。
聞きなれた声だ。僕は一つ息を吐いて、「こんばんは」と返した。
声の主は部屋の奥に置かれたソファに優雅に寛ぐ青年だった。彼はソファより起き上がると、長めの白衣を翻してこちらに向かってくる。
「今日のヒツジくんはなんだかご機嫌斜めだね? 寝不足かい?」
そうして、彼はにっこりと微笑んだ。
『ヒツジ』とは僕の「研究所」内での呼び名だ。なぜ、このような渾名で呼ばれているかは、僕が初めて「研究所」に訪れた時、ひいては初めて、彼――鷺宮さんに会った時、彼が僕に掛けた言葉に所以する。

被験者のプライバシーは研究者であろうと侵すことは出来ない。

『君は私に、なんて呼ばれたいのかい?』
研究所に初めて来たとき、鷺宮さんが言った言葉だ。
プライバシーと言えど、名前くらい別に構わないんじゃないか(僕は彼の名前を知っているのだし)。
いくら何でも過剰すぎやしないか。
当時の僕はあっけに取られた。
真っ正直に本名を名乗っても良かったのだが、僕はふと思いついた言葉を挙げた。言わば、研究所内でのアカウントを設定した。
それが、ヒツジ、だ。
いよいよ中学生も佳境に入ろうとする少年がそんな可愛らしい名前もおかしいかもしれないが、それでも僕は自分が従事している研究内容を考えれば、似つかわしいのではないかと思っている。気に入っているのだ。実際。ヒツジ、かわいいじゃないか。
「寝不足だけはありえないって事はあなたが一番知っているだろ?」
僕よりも高い彼を見上げ、口元だけで笑む。
「それもそうか」
しかし、彼は笑わなかった。
笑えるような立場にないからかもしれない。
彼の研究はなによりも、僕を眠らせることを第一条件としているのだから。
僕はそんな彼の態度に思わず嘆息すると、
「……始めましょうか。ジッケン」
と、なるたけ淡々と言った。彼の脇をすり抜け、部屋の中央に置かれた卵形のカプセルの元へと進む。
そうだね、と僕の背後に彼は静かに答えた。


「じゃあ、ヒツジくん。リラックスして、ふかあく息をしてね」
卵形カプセルに横になった僕へ、ツバメさんがいつもの言葉とそれから柔らかなタオルケットを掛けた。「ありがとうございます」と軽く会釈すれば、彼女は「いいの」と、目じりを下げて笑んだ。
ツバメさんはこの研究所の、ひいては鷺宮さんの助手に当たる人だ。柔らかそうなふわふわの栗毛を携えて、にこにこ笑う小柄な彼女は人懐っこい小型犬に似ている。……こんなことを本人に言ったら、怒られるかもしれないけれど。
ぱたぱたとカプセルの周りを走り回りながら、実験の準備を整えていく。ふわりと、ツバメさんが動くたびに高い位置でまとめられた栗色のポニーテールが揺れた。
(いつもは下ろしているのに。今日はポニーテールなんだ)
ぼんやりと揺れるそれを眺める。すっきりとした健康的な首周りを無意識に目で追っていた。
「どうしたの?」
僕の視線をなにかの訴えととったのか、心配そうにカプセルの中で横たわる僕を見下ろした。栗毛がさらさらと流れ落ちて顔に掛かる。
「あ、いえ! 別に……」
髪形変えたんですね、とはどうにも言えず、僕は咄嗟に否定していた。
僕の勢いに苦笑しつつ、ツバメさんは「そうですか?」と笑みを漏らした。そろりと僕の額を撫でる。ツバメさんの白くて細い掌は仄冷たくて、柔らかかった。ツバメさんそれが僕をリラックスさせるためだと知っていても、僕はつい目を逸らしていた。ほんの少し、体温が上がったような気さえする。
彼女は首を軽くかしげたが、やがてカプセルの隣に備え付けられた機械に向き直った。かたかたと機械に備え付けられたキーボードで入力をする音が聞こえてくる。丁度、カプセルのせいで死角になり、ツバメさんの動きはほとんど見えない。やおら、両サイドから音も立てずに天板が伸び始めた。カプセルを閉じきるコマンドをツバメさんが入力したのだろう。じわじわと視界へ入り込む特殊素材の天板を見つめながら、僕はゆったりと大きく息を吐き、カプセル内に敷かれた布団に身体を預けきった。
初めてカプセルに入ったときは、このカプセルを閉じるときの閉塞感が堪らなく嫌だった。徐々に伸びる天板は、緩やかな弧を描いて丁度僕の視線の上でぴったりと交わり、僕を閉じ込めた楕円体となるのだ。じわじわ閉じ込められてゆく恐怖が堪らなかった。
……今ではもう、慣れてしまったけれど。
「さてと、ツバメくんはどんな感じだい?」
「はい、実験には問題ないと思います」
天板越しからツバメさんと鷺宮さんの会話がややくぐもって聞こえてくる。ここからの実験内容は鷺宮さんとツバメさんに任せる。僕に求められていることはこのカプセル内で眠り、あわよくば夢を見ること。僕はぼんやりと、この天板は一体なんで出来ているんだとか、ツバメさんは暫くポニーテールでいたらいいのにとか、そんな取り留めのないことを考えながら、眠気を待つ。
「相変わらずの健康体なんだね。身体だけは丈夫なんだから」
「ただ……」
くすくす忍び笑う鷺宮さんに、ツバメさんは不意に不安げな声を出した。その、不安げな声のトーンに僕は思わず聞き耳を立てた。このトーンで話されることは、総じて、良い事じゃあない。……経験的に。
「どうしたんだい」
鷺宮さんはいつもと変わらないのんびりとした調子で聞き返した。
「いえ、先程から少し心拍数が高いな、と思いまして。異常ではないと思うのですが、不自然に上がったものですから……」
尻すぼみになるツバメさんの言葉に僕はぎくりと身体を硬直させた。
かっと、頬に熱が集中するのが分かった。
「ああ、それ? ……ふふっ、そう大した事じゃあないよ」
ツバメさんの真剣な雰囲気に肩透かしを食らったように調子っはずれな声を出した。「そうなんですか?」と、怪訝そうに尋ねる彼女に、彼は、
「今日のツバメちゃんは可愛いからね」
と、揶揄うように笑った。
「えっ!?」
ツバメさんの素っ頓狂な声が聞こえる。
(ばっか、余計なことを!)
天板を叩こうとした瞬間、今度こそ揶揄のためだろう、にやりと意地悪い笑みを鷺宮さんはこちらに向けて来た。顔の近くに持ち上げた右手には小さなスイッチが握られている。
 掌にすっぽり収まるくらいの、赤いボタンのついたスイッチ。そこから伸びる回線は僕の収まるカプセルへと繋がっている。
「じゃあ、ヒツジくん。……良い夢を」
ちょっと待て!
僕が止める間も無く。にやにや笑う鷺宮さんはなんの躊躇いもなくボタンを押し込んだ。
「ちょ、先生! 急に起動しちゃ駄目です!」
ぐらり、と暗転する意識の向こうで、ツバメさんの非難めいた声が薄っすらと聞こえてきた。

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