あっと、思う間もなく、僕の身体は宙に投げ出されていた。
背中を強く押され、突き落とされたのだ。
そう咄嗟に判断できたのは背中に残る、痛みのためだ。誰が、と背後を確認しようと上体をねじったものの、後方を確認する間もなく、そのまま僕の身体は緩やかに重力に惹かれ……。
――ああ、墜ちる。
無感動にそう思い、僕はゆるりと目を閉じた。せめて、受身ぐらいはと限りなく本能に近い理性が頭の隅で囁いたのだが、いかんせん、僕の運動能力では咄嗟に受身なんて無理だ。だったら、いっそあれやこれやと暴れないほうが怪我をしないのではないか。
しかし、いっそ床に叩きつけられてしまおうという覚悟は、見事に裏切られる事になる。確かに身体は無防備に叩きつけられた。衝撃で息が詰まる。しかし、僕を受け止めたのはただ硬い床ではなかった。衝撃とともに、音を立てて僕の身体を受けとめ、包み、エネルギーを殺す。それは、水だった。
――炭酸の海だ。
見開かれた瞳の前に広がっていたのはしゅわしゅわと音を立ててはじけるいくつもの水沫と、碧く澄み切った海だった。思わず、「わあっ」と、感嘆の声を上げかける。瞬間、狙っていたように水が口に浸入し、僕は瞬間パニックに陥る。やばい、死ぬ――!
慌てた僕は、思い切り良く、ごくん、とその水を飲み込んでしまった。あれ、海水って飲み込んだらまずいんだっけ。ふと、そんなことが頭をよぎる。
しかし、その懸案は、まず意味がなかったと言っていい。
なぜなら、その水は海水、ひいては塩水ではなかったのだから。
水が口に入ってきた瞬間、真っ先に僕の味蕾が捉えたのはスイーツのような甘さだった。それから、とろりとした感触。一度も海に行ったことがないけれど、さすがに海の水がしょっぱいことくらいは知っている。僕はおずおずと再び口を小さく開いて、辺りの水を一飲みした。
……やっぱり甘い。
こんなこともあるのだろうか、と、首をひねったが、如何せん僕は自他共に認める世間知らずなわけで。後で誰かに聞いてみよう。
ともかく、身体に絡みつくような水を掻き分け、前へ進む。上からの陽光を受けて輝く水を様々な紋様を作り出し、ゆらゆらと揺れる。
(綺麗なところだな……)
 ほう、と胸中で溜息を吐く。こんなところ、来たことないや。
 きょろきょろと御のぼりさんのように辺りを見渡しながら、泳いでいると、 僕のすぐ横をぬらぬらぬめる生物が身をくねらせて去っていた。咄嗟に水をかく手を止める。あの恒星の輝きを従えた、あの魚を僕は知っていた。あれは、

――シュトラルカ。

頭の中でけざやかに一冊の絵本が思い出される。天の川に焦がれた魚が流れ星を食べて、天の川の星になろうとする、そんな絵本のことを。
彼が尾鰭をひらかすたびに、きらきらと星が生まれる。まるで足跡のよう。
シュトラルカ。
僕はもう一度、彼の名前を反芻した。
それは、昔、好きだった絵本に出てくる生物の名だ。絵本にしては随分ととげとげしい極彩で描かれた天の川と、それに反して消え入りそうなくらい暗い魚のコントラストは今でも強烈に頭に残っている。しかし、何より僕の心を奪ったのはそのストーリー、天の川に比べてあんまりにもちっぽけな魚、彼のその身体から溢れんほどの憧れだった。
彼の夢は彼の小さな世界から抜け出し、天の川を泳ぐことだった。
彼は作中で幾度も笑われ、嘲られ、呆れられていた。
それでも。
……!
僕は無意識に水を思い切り蹴っていた。
彼に追いつかなきゃ。
僕も。
僕も、ただただ反復するばかり不変の日々から抜け出したい。
いつか、あの極彩の世界へ――!

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