Aランチで交差する



「ん……時間ですね。では今回の講義はここまでです」
 教壇の上で初老の教授が頷き、テキストを閉じた。それと同時、講義室がにわかにざわつき始める。
(もうお昼ですか)
 100人近い学生が集う大教室の中、前から2番目の席でノートを取っていた一織は、授業が終わり緩んだ空気にほっと息をついた。あとは出席票にコメントを書けば、今日の一織が受ける講義は終わりだ。午後にはアイドルとして、いつもの冠番組の収録が待っている。
 IDOLiSH7として走り始めた時は高校生だった一織だが、今は大学に進学し、忙しいアイドル業の合間に更なる自己研鑚に努めているのだった。

 出席票の端まで今回の講義に対する所感と質問を書き終えると、一織は携帯を取り出した。講義中に仕事の連絡があればすぐに対応したかったからだ。
 しかし、切ってあった電源を入れ、立ち上がった携帯の画面に現れたメッセージは仕事の連絡ではなかった。
『一織、授業終わった??』
 脳天気な声が聞こえてきそうなメッセージに、一織は思わず体から力が抜けてしまった。七瀬陸、と表示されたラビットチャットの通知はどう見ても緊急性はない。
 この分では、中身を見るのは今すぐでなくともよさそうだ。そう思った一織が携帯をしまいかけたその時、携帯が何かを主張するように震える。
 なんですか、と画面に再び視線を向けた一織は、次の瞬間目を剥いた。

『一織の大学来ちゃった!
 今どこにいる??』

「なっ……!」
 現れたメッセージのとんでもなさに思わず声が漏れる。
 ――いるのか、まさか、今をときめくアイドルグループIDOLiSH7のセンターたる七瀬陸が、こんなところに、無防備に。
 ざっと顔から血の気が引くのが分かった。今すぐ行かなければ!
 一織は即座に荷物をまとめてから教壇へ向かい、片手で握り締めた出席票を驚いて目を丸くした教授の前に叩きつけたかと思うと、そのまま教室を飛び出した。
 その姿を目撃したまわりの学生が、一織くんて走るんだね、いやライブじゃめっちゃ走ってるでしょ、などと噂していた事は、もちろん一織の知るところではない。


 いったいどこにいるのか、ファンに捕まってないといいけれどと心配しつつ、一織は廊下をものすごい勢いの早歩きで進む。
 そうしながら一織は電話をかけ始めた。通話相手はもちろん陸だ。ラビットチャットに既読がついているのは向こうも分かっているはず。
 果たして、3コールもしないうちにいつもの明るい声が聞こえてくる。

『あっ、一織! 授業お疲れさま!』
「お疲れさまじゃないでしょう! 何やってんですかあなたはッ!?」
『え〜、だってちょうど時間空いてたし、一織の大学見てみたかったし』

 陸が放つ言葉のあんまりの無邪気さに、一織は思わず奥歯を噛みしめた。――いったいこの人は何年アイドルやってるのか本当に自覚があるんでしょうか、可愛いけど、可愛いけども!
「〜〜っ、今どこにいますか」
『んー? えっと、校門の近くにベンチあったから、そこで座ってる!』
「分かりました。そこから絶対動かないでくださいよ!」
 ちょうどそこで校舎の出口が見えた。一織は陸の返事も聞かずに電話を切ると、周りの目も気にせず駆け出した。


 キャンパス内を行き交う学生たちの緩やかな波の中を抜け、校門前の広場に設置されたベンチに座っている赤い髪を見つけた時、一織は心底ホッとした。
 しかし周りにいる女子学生は何やらそわそわしている。

 ――ねえ、あれって七瀬陸?
 ――いやいやまさか。一織君がうちの大学にいるからって、そんなこと
 ――でも、よく似てるよね〜。……声、かけてみる?

 これはまずい、と一織がまた奥歯を噛んだ時、陸がこちらに気づいてぱっと表情を変えた。
「あっ、いお――むがっ!?」
「声出さないでください、バレるでしょう! とりあえずこの場を離れます」
「え? あ、ちょっ、なんだよ一織!」
「だから声出すなって言ってるでしょ!」
 一織は腕を掴んで陸を立ち上がらせると、有無を言わさずベンチから引きずっていく。
 キャンパスの外れまで来ると、一織はそこでようやく腕を離して陸を叱りつけた。
「あなたは馬鹿ですか! あんな人が集まるところにのこのこ来て、本当にアイドルの自覚まったくないですね!? 何年IDOLiSH7やってると思ってんですか!」
「い、一織の方がよっぽど声大きいけどっ!?」
「今はあなたの話をしてるんです!」
「〜〜っ、だ、だって、午後は一緒の仕事だから、一織と一緒に行こうと思って……それに、一織の大学見たかったのも、ホントだし」
 唇を曲げて陸がしょげた。犬のしっぽがぺったり垂れ下がるのが見えるような姿を見て、一織の怒りもいくらか収まってくる。
 仕方のない人だ、とため息をついて額に手を当てた。

 まったく、事前に何か言ってくれればこちらも何がしかの対策を立てられたものを。
 別に一織も、陸の望んでいる事をなんでも邪魔したいわけではないのだ――陸と過ごすちょっとした時間が大事なのは、一織だって変わりはないのだし。

「だからって、いきなり来られては困ります。ファンに捕まって収録に遅刻したらどうしますか。それに、大学に来たことでこちらの意図しない噂だって立てられかねないんですよ」
 声のトーンを落として言い聞かせると、陸は素直に俯くように頭を下げた。
「……むー……ごめんなさい」
「はぁ……それじゃ、そろそろ行きますよ。なるべく目立たないように」
 その時だった。

 ――ぐぅ。

「……?」
 何か場にそぐわない音が聞こえた気がして、一織は歩きかけた足を止めた。と、軽く服の裾を引かれる。
「……一織、その……お腹空いた」
 照れたように笑ってそう言った陸に、一織はぐっ、と喉を鳴らした。
 一瞬考え、腕時計を見て、またしばし考えること実に3秒。――ああもう、多分大丈夫だ。そういうことにしよう。
「……仕方ない。では、ここで昼食にしましょう」
「え?」

   +

「わぁ……!」
 一織にしっかり帽子を被らされた陸が、目の前の建物に小さく歓声を上げる。
 彼が連れてこられたのは、いわゆる学生食堂だった。建物の中にも外にもいくつもテーブルが設置されていて、トレーを抱えた学生たちがそこらじゅうを行き交っている。
「オレ、ここで食べていいのっ?」
「一応、誰でも入ってこられる場所ですよ」
「そうなんだ……! すごい、一織ありがとう!」
「だからあんまり大声出さないでください!?」

 もともと、陸が来なければ一織もここで昼食を取る予定だったのだ。
 大学を見たがっている陸にとってもちょうどいい場所だろうし、人が多くみんなが目の前のことに夢中になるこの場所なら、おそらく陸が見つかって騒ぎになる可能性も低いだろう――代わりに、見つかったその時は大変なことになりそうだが。

 初めての場所に興奮する陸を宥めながら、一織は食堂の建物内に席を探す。
 さすが、昼休みだけあって食堂は大盛況だったが、出足が遅かったおかげで先に食事が終わっていた早食いの学生のあとを確保できた。
 それから、二人並んで配膳先へ向かう。食堂の入り口に設置されたショーケースに今日のメニューが示されていて、陸はそれを眺めながらうーん、と唸る。
「すごいね、美味しそうだし、安いし」
「学生向けですからね。七瀬さんはどれにしますか、ちゃんと栄養も考えてくださいね」
「うーん……じゃあ、一織と同じのにする! それなら間違いないよね」

 振り向いた陸がにっこりと笑ったのに、一織はぐらりと膝が折れそうになった。――まったく、この人は!
 まあ、食事は調理スタッフから自分で受け取る形式だし、同じところにいさせた方が何かと都合がいいだろう。と一織は無理に自分を納得させる。
 そうでもしなければ、とてもじゃないが冷静を保てそうにない。

「分かりました。じゃあ、ちゃんとついてきてくださいよ」
「はーい!」
 積んであるトレーから1枚ずつ取って、まずは主菜を受け取る前に副菜を選ぶ。
 ケースの中に何種類か小鉢が並んでいて、隣にはサラダバーも設置されている。想像していたよりも種類豊富なメニューの数々に、陸はトレーを抱えながらずっと目を輝かせていた。

「ねえねえ、すごい! ケーキもあるよここ!」
「食べられるならどうぞ。今後の予定も考えてくださいね」
「……ううっ、体重管理かぁ……」
「はい、後がつかえてますからあまり悩まない」
「一織のいじわる……」

 そんなこんなしつつも、二人で調理スタッフのおばさんから主菜と主食を受け取り、いっぱいになったトレーを抱えながら1人ずつ会計を済ませつつ箸などの食器を取って、最後に設置されたサーバーからお茶を注ぐ。
 一連の作業をなんとか終えてやっと席に戻ってきた時、一織は思わず大きくため息をついてしまった。
「一織、なんでそんなに疲れてるの?」
「誰のせいだと思ってるんですか……」
「ん、オレ?」
「自覚あるならもう少ししっかりして頂けると助かるんですがね?」
「努力する!」
 一織必殺のじと目もどこ吹く風、陸は笑顔でいただきます、と手を合わせた。


 二人が選んだのは白飯が主食のAランチセットだった。
 主菜はおろしだれのかかった鳥の唐揚げとたっぷりのキャベツの千切りで、豆腐としいたけとわかめの味噌汁もついている。プラスアルファで、一織が選んだ煮物の小鉢とヨーグルトもトレーに乗っていた。
 陸は唐揚げをひと口食べて、家庭的な味に舌鼓を打つ。

「美味しいね〜、一織毎日こんなの食べてるんだ」
「毎日じゃないですよ、午後しか授業ない時もありますから」
「あっ、そうか!」
「それに、料理なら兄さんが作るものの方が余程美味しいです」
「あはは、そりゃ三月だもん。でも、ロケ弁より全然美味しいよ」

 にこにこ笑ってどんどん食べ進める陸の姿に、一織の心がほっと和む。
 我ながら七瀬さんに甘いなと胸の内でため息をつくものの、可愛いものは可愛いのだから仕方ない。
 陸の姿を眺めながら時折周りの様子を伺ってみる。が、幸いにもこちらを注視する学生はいなさそうだ。――あるいは遠慮しているのかもしれない、一織は大学にいる間、最低限を除いてなるべく他人を寄せ付けないようにしていたからだ。
 連れてきてしまったことに未だ不安は残るものの、やはりこの選択は間違っていなかった、と一織は思うのだった。
 そこへ、味噌汁を一口飲んでほうっと息をついた陸が言う。

「それにさ、オレなんか嬉しいよ」
「何がです?」
「こうやって学生食堂で一織と食べてると、なんか一織と同級生になったみたいで!」

 ふにゃ、という音が聞こえそうなほど緩んだ笑顔。
 うっかり正面からそれを見てしまった一織は、飲み込みかけた白飯をあやうく喉に詰まらせるところだった。
(もう、本当にこの人は……!)
 普段は事あるごとに年上ぶるくせに、どうしてそういうことを言うのだろう。

「か、かわ――じゃない、馬鹿なこと言わないでください」
「え〜。なんかこういうの楽しいじゃん」
 無邪気に笑って陸が言うのに、一織は頭を抱えた。――そうだ、この人は何も考えないでそういうことを言う人だ。
 どうにも消化できない悶えを抑え込もうと、一織は半分近く残っていたお茶を一気に飲み込んだ。そこへ、陸がさらに追い打ちをかける。
「もしかして、一織照れてる?」
 言われた瞬間、むせこまなかったのが奇跡だった。
「っ、ち、違います」
「でも顔赤いよ?」
 からかってくる陸は至極楽しそうだ。
 こういう場面で誤魔化されなくなってきたのが、自分が高校生だったころとは違うな、と一織は変な感慨を覚えるのだった。

 そんな一織の心境など露知らず、陸はあっさり話題を変えてきた。
「一織ってさ、普段は誰かとご飯食べたりする?」
 その問いに、一織ははっきり首を振る。
「いえ。普段は一人です」
「そうなの?」
「たいていは早く済ませて、図書館に行ったり仕事に行ったりしますから」
「えー、つまんないの」
 陸は不満そうだった。一織には意味が分からない、何が不満なのか。
「一織の友達ってどんな人なのか知りたかったんだけどなー」
「……別に、私は友人を作る為に大学に通っているわけではありませんし」

 はあ、と呆れのため息をついて一織は最後の唐揚げを口に入れる。
 大学へ行くことを選択したのは、アイドル兼マネージメント補佐を務めている身として、もっと仕事に役立つ知識を深めるためなのだ。
 他のことには、極端なことを言えば用がないのである。

「私は、IDLiSH7をもっと上で輝かせる、そのための知識を得るためにために大学へ行ってるんです。他のことをする余裕なんてないですよ」
「……そっか」
 と、頷いたものの、陸は一織の答えがまだ納得いっていないようだ。
「でも、やっぱり勿体ないよ。せっかく大学行ってるんだし、……一織が頑張ってるのもわかるけど、もうちょっと楽しい思い出作ったらいいのに」
 そう言った陸の表情は、どことなく寂しそうで。
 その表情と、陸の言葉とそれまでの行動から、一織の頭にひとつの結論が頭に浮かぶ。
「……七瀬さんは、大学行きたかったんですか?」
 言ってみると、陸は決まりが悪そうに眉を下げた。
「あ、うん……本当のこと言うと、ちょっとうらやましいんだ。……オレ、アイドルになってなかったら多分大学行ってただろうし」
「……そうですか」
「あっ、いや、この道を選んだことを後悔してるわけじゃないよ!? アイドルになって良かったと思ってるし、それ以外の未来なんて今じゃ考えられないし。……でも、ちょっと、いいなって思って」

 自分と同じくらいの年の若者たちが集まって、その中でみんながそれぞれの道を目指して切磋琢磨し合って。
 結局自分自身で過ごせなかった青春の輝きというものが、学生食堂という場には確かに満ちている。それらが、陸にはとても綺麗なものに見えていたのだった。
「オレがなんかここでしたいとかじゃないけど、大学って場所がいいなぁって思うんだ」
「……」

 一織は味噌汁を飲み干して考えた。
 陸の言いたい事は分からなくもない。彼は病弱故にほとんど学生らしいことができなかったから、こうして大学に通う自分が羨ましいだろう。一織の目的がなんであれ、ここは確かに、陸が憧れても届かない場所なのだ。

 顎に手を当てた一織に、陸は小さい声で言った。
「……なんかごめんな。一織は真面目に大学行ってるのに、変なこと言って」
「いえ、……七瀬さんの言いたいことは分かりますから」
「……はは、ありがと。一織は優しいな」
 陸は気まずい雰囲気を誤魔化すように、残り少なくなったご飯をかき込む。
 それを見て、一織は心を決めた。おもむろに携帯を取り出して、ひとつの画面を呼び出す。ほどなくして、陸の携帯からラビットチャットの通知が小さく鳴った。
「ラビチャ? なんだろ」
「私からです」
「え、一織から? なんで?」

 目を丸くしながら、陸は一織に言われるまま携帯を取り出してラビットチャットを確認する。
 そこへ送られていたのは、1枚のスクリーンショットだった。

「なにこれ。……時間割?」
「私の講義日程です。とりあえず、8月までですけど。……時間が合う時にまた学食で食事するくらいなら、いいですよ」
「えっ」
 一織の表情と画面を見比べて、陸は今言われた言葉を飲み込もうとして――理解した瞬間、ぱぁっと表情を輝かせる。
「い、いいの!? またここに来ても!?」
「代わりにちゃんと連絡してくださいよ! ダメな時は断りますからねっ!」
「わ〜、すごい嬉しい! 一織ありがとう!!」
「ちょっと聞いてます!?」

 けれど案の定、陸は一織の言葉を聞いてなんかなさそうだ。おそらく陸が笑顔のきなこスタンプでも送りまくっているのだろう、鞄にしまった一織の携帯の振動する音がうるさい。
 そんな陸の様子に一織は頭が痛くなったものの、不思議と後悔する気持ちは微塵も湧いてこない。
 ――やっぱり私は七瀬さんに甘い、と、ひそかにため息をついた一織なのだった。




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