Twinkle in the Grass



「ではっ、」
 一つ下の後輩が硬い声で口火を切る。相変わらずいつまでも無駄に緊張しいな奴だ。
 ここは夜の、どこにでもあるような居酒屋。茶ぼけた木のテーブルを囲んで、手には三者三様のグラスを持ち。
 
「グラス持って……カンパーイ!」
「お疲れ様でーす!」
「お疲れ」
 三種類の飲み物が満たされたグラスがにぎやかにぶつかり合った。
 そのままの勢いで、オレは一気にグラスの中味を飲み干す。いい温度に冷えた炭酸の刺激がすっと喉を通り、練習後の渇きを潤した。
「あー、美味い」
 はあ、と思わずため息が出る。それが我ながら父さんに似ていて、歳を取ったんだなという気がする。
「お、音羽先輩いい飲みっぷりですね」
 斜め向かいに座った刻阪が言った。表面は笑顔だがやや引き気味らしい、生意気な。ちなみにヤツが持っているのは白ワイン。いいのかこんなありふれた居酒屋で、その飲み物は。
「というか、音羽先輩がビールって何か意外ス、正直」
 と、言うのはぎこちない乾杯の音頭を取った神峰。グラスの中身はカシスオレンジだ。二十歳を過ぎてとうに久しいのに、未だに酒は甘いものしかダメらしい、勿体ない。
「ああ、オレも前は好きじゃなかったが……仕事の付き合いで飲むようになったら意外とイケる事が分かった」
「へえ……お医者さんも飲み会とかするんですか」
「忙しいし不規則だから回数は多くないがな」
「もしかしてココ、行きつけとかそういう?」
 神峰の問いに、オレは頷いた。
 十数人も入ればいっぱいになりそうな小ぢんまりとしたこの店は、確かに知る人ぞ知るという雰囲気があるのは分かる。実際、オレも先輩に連れられるまでは入るなんて考えもしなかったような店だ。
 けれど今では職場の近所ということもあり、結構馴染みの場所になっている。料理の味はいいし酒の種類も少なくないから、久々に会う後輩どもを連れていくにはいい場所だと思った。


 鳴苑高校最後の年、全国で金を獲ったあの時から十年が経った。現在オレは群馬県内の病院に勤めて二年目になる。
 働きながらもトランペットは続けていて、地元の社会人吹奏楽団に所属している。月に二回も通えればいい方だが、トランペットと向き合える時間は得難い貴重な時間だ。どんなに疲れていても、予定が合えば必ず練習場所に行っていた。
 そして、今日は久々に地元へ戻っていた神峰と刻阪を練習に付き合わせ、充実した時間を過ごした、というわけだ。

「にしても、久しぶりに音羽先輩と一緒に音楽できて楽しかったス!」
 目を輝かせて神峰が言う。二十代後半だというのに無邪気さは十年前とまったく変わらないが、これでも国内でいくつかの有名オーケストラとの公演を成功させた新進気鋭の若手指揮者だ。
 隣の席のおばさんなんか、神峰が振った時興奮してピッチが上がりまくっていた。
「ああ、久々に高校の時の感覚を思い出したぞ。相変わらずお前は面白い指揮をする」
「いいなあ、僕もサックス持ってくれば良かった」
 子どもみたいに口を曲げる刻阪も、もう世界に名を轟かすサックスプレイヤーだ。
 この年にしてメインの活動範囲は海外、しかも各メディアからも高評価を得るという天才ぶりを発揮。サックスパートの連中は見学に来たこいつの姿を見ただけでも気もそぞろのようだった。まあ正直無理もない。
「お前ら二人揃ったらウチの吹奏楽団振り回して話にならんだろう、鳴苑とは違うんだぞ」
「それ音羽先輩に言われたくない!」
「オレたちだって昔よりはちょっと大人になってるスよ?」
「そのジュースみたいな酒飲んでおきながら言うか?」
「い、いいじゃねェスか別にっ!?」

 ぎゃいぎゃい騒ぐ後輩ふたりをからかいながら飲んでいると、なかなか酒のペースが速くなる。二、三杯ビールを飲んだところでオレは違う酒を頼むことにした。
 おばちゃん、と手を挙げて女将である気のいいおばさんを呼び、いくつかのつまみと一緒にある銘柄を告げる。
「あ、音羽先輩注文あざス」
 塩ダレをかけたキャベツを頬張りながら礼を言った神峰の横で、刺身をつまんだ刻阪が反応した。
「音羽先輩、いまの日本酒ですか?」
「ああ。定番だろコレは」
「うわぁ意外だ、音羽先輩ワイン党だと思ってたのに」
「バカ、こんな場所でワインなんか頼むお前の方が空気読んでないって言うんだ」
 という頃に注文した酒が運ばれてくる。グラスを満たすどころか下の枡にまで零れ落ちた透明な液体はこの上なく清らかで、スッキリした香りと味がいい気持ちに酔わせてくれる。
「んー、美味い」
 万感の思いで頷けば、目の前の二人が感心半分、呆れ半分といった風に目を丸くしていた。
「ほんとスゲェ美味そうに飲むスね……」
「ああ、美味いな。音楽やった後の酒は美味いもんだ」
「なんかおっさんくさいですね音羽先輩──いてっ」
 余計なお世話だ、と刻阪に蹴りをくれてやったちょうどその時、頼んでおいた焼きホッケが回ってきた。これまた脂が乗っていい焼き色になっていた、箸を入れればすぐに身がほぐれる。
「そんなもんスか?」
 聞きながら、神峰がほくほくと湯気を立てるホッケの身に息を吹きかけて冷ます。刻阪は隣でまだ涙目になっていた。
「熱いうちに食べないと損だぞ神峰。……ああそうだな、仕事の後の酒はただのストレス発散にしかならん。……お前らには分からないだろうがな」
 やっぱりピンと来なそうな神峰は素直に頷いた。
 この二人にとっては仕事が音楽、音楽こそが日常だ。楽器を手放して別の職業を選び、仕事の合間に触れられる一時を恋しく思いながら日常をこなしているオレの複雑な、しかし一般的な心境など分かりゃしないだろう。
 そこへ、神峰が不思議そうに訊ねる。
 
「……音羽先輩、なんでプロになろうと思わなかったんスか?」
 ――ああ、その質問は来ると思っていたよ。

「そうですよ、今日の演奏聴いてましたけど、音羽先輩今でも十分プロで通じる上手さでしたし。勿体ないと思いましたもん」
 涙目から復帰した刻阪も続けて訊ねる。
 演奏の腕前に関しちゃ化け物なこいつからの評価は価値あるものだが、オレが音楽の道を選ばなかった理由はあいにく腕前の問題じゃない。
 グラスに残っていた酒を一口含む。だが、ふいに胸中に湧き上がったほろ苦いものまでを飲み込むことはできなかった。
 ……これは、言ってしまえということなのか。初めて神峰に孤独を見抜かれてしまった、十年前のあの時のように。

「……オレは、お前らほど勇気がなかった。それだけのことだ」
 そう、これが真実。オレはその道を選ぶ前から諦めた。自分自身で、音楽を人生の道の選択肢から外したんだ。
「勇気、って……」
「確かに、音楽でメシが食えれば幸せだったろうな。だが、好きなことがそのまま仕事にできる奴はそういない現実もある。それでも音楽の道を目指そうとは、どうしてもオレには思えなかったのさ」
「……」

 目の前の後輩二人は、それでも納得がいかないようだった。
 ……ああ、いっちょ前に気を遣いやがって。この二人はオレが音楽を続けることを父親に反対されてたことを知ってるからな。だがそれは、まったくオレの意志とは関係ないことだ。
「勘違いするなよ? オレは望んでこの道を選んだんだ。医大入った後も、こうしてる今も、後悔したことは一度もないぞ」
 父さんの言う通り、音楽だけでは自分は生きていけない。鳴苑吹奏楽部員としての最後の一年を好きにやらせてもらえたからこそ、素直にそう思えた。
 おそらく強固に主張すれば、音楽でメシを食うことを父さんも許してくれただろうが、うまくいかなかった時のリスクを考えるような自分には、やはり無理だと悟ったのだ。
「……音羽先輩、本当に後悔してないんスか」
 真剣な瞳で神峰が聞く。十年前、震えながらオレと初めて言葉を交わしたあの時と同じ顔で。
 だから、オレも真面目に答えた。素直な気持ちを。
「ああ、してない。今の仕事もやりがいがあるし、こうして音楽を楽しむこともできるからな。幸せだぞ?」
 たっぷり十秒、神峰はオレを見つめた。そして。
「……そうスか。なら良かったス!」
 そう言って、安心したかのように笑った。その隣で、刻阪が頷きはしたものの名残惜しそうにこんな事を言う。
「それでも僕は勿体ないって思っちゃいますけどねぇ……聴いてみたかったな、世界に羽ばたく音羽先輩のトランペット」
「フン、まあ褒め言葉として受け取っておこう」
 音楽を愛する者、みんながみんなその道を目指せるほど世界は甘くはない。バカみたいに真っ直ぐ未来を信じられる刻阪の方が稀有だということを、刻阪が知るべきかどうか。
 そこへ、思わぬ同意が神峰から飛んできた。
「でもオレは分かる気がするス、音羽先輩の気持ち。……オレも音大目指すって決めるの怖かったし」
「ほう?」
「えっ、そうなのか!?」
 そんな! と刻阪がテーブルを叩く。さては酔ってんなコイツ。
「神峰は僕と上を目指すって、そう言ったじゃないか!」
「バカ、オレはお前みてェなサラブレッドじゃねェの、普通の人間だよ! 音楽で生きるって決めるなんて怖ェに決まってんだろ!」
 いや神峰も大概普通じゃない、と突っ込むのは野暮だろうか。……のはともかくとして、怖いと思うのが普通だ。高校から音楽を始めた神峰なら尚更そうだろう。
「だが、それでもお前は指揮者になると決め、今ここにいるんだろ?」
「……そうです。色々考えて、やっぱオレにはこれしかないって思ったから」
 この神峰の言葉が、神峰をここまで押し上げた原動力に違いない。それだけでも、オレからしたら大したものだ。
 困難と分かっていてもなお、その道へ突き進もうとできる意志の強さ。オレがとうとう自分のものにしなかったもの。
 ――だから。

「……羨ましいな」
 ぽつり、と、つい本音が零れた。

「え?」
「……音羽先輩、」
 やっぱり、と言いかけた刻阪を片手で制す。ああ刻阪、そういうことじゃないんだ。
「オレはお前たちが羨ましいよ。自分の心が思うままの道を選んで、それを突き進めること、そのものがな」
 現実と向き合い、考えた上で音楽を諦めたことは後悔していない。それどころか、様々な場面で選ばなくて良かったと思うことの方が多いくらいだ。
 それでも、お前らのように好きなことの為に敢えて困難な道を歩んでいる姿を見ていると、もう届くはずのない光に手を伸ばしたくなる時があるんだよ。

 グラスを掴み、ほとんど残っていない酒を口に流し込む。
 分かっている、今の感情が殆ど嫉妬に近いことは。それをこの二人にぶつけていいほどオレが子どもではないことも。
「だからよく覚えておけよ。お前らは幸せなんだ」
 実力と、環境と、運、そして上を目指す強い意志。人生の何においても大事なことだが、音楽家という職業はことさらそれらが重要視される。そのすべてを持ち合わせているからこそ、目の前の後輩二人はまがりなりにも音楽家としてここにいる。
「自分の好きな道を選べること、そのものが幸せなんだぞ。分かってるんだろうな?」
「は、はい」
「……はい、えと」
「なんだ刻阪。反対意見があるなら聞くぞ」
「い、いや、……音羽先輩、目が据わってますけど酔ってません?」
「酔ってない」
 どん、とテーブルをグラスで叩いた。今この時に何言ってんだコイツは、オレは大真面目だぞ。
 分かってないなら、もう一度繰り返すまでだ。
「いいか、お前らは幸せなんだ」
「は、はいさっきも聞いたス!」
「……そうですね」
 なんだか顔が引きつってるように見えるのが気にかかるが、今大事なのはそこじゃないか。ので、構わず続ける。
「――だから、いつまでも幸せで在り続けろ」

 この先どんな困難に出会おうが、けして倦まず弛まず歩みを止めるな。
 どうせ音楽の道を進むならば、その果てにある栄光を掴み、自分たちのものにするまで。
 それが、実力も運も意思も持ち合わせたお前らの務めだろう。半端なところで投げ出したらただじゃおかない。
 そして何よりも、だ。――いいか、一度しか言わないからな。

「それが……こうして別の道を選んだオレにとっても、人生を歩む力になるんだ」
「……!」

 お前たちが、腐りかけていた十年前のオレに、音楽を捨てさせなかったことを感謝している。今でも音楽を楽しんで、愛していられるのはお前らがいたからだ。
 だから、いつまでもお前らには音楽を、愛するもので人生を歩むことを続けていて欲しいんだ。
 誰にでもできることではない幸せな生き方を、いつまでも。

「……音羽先輩、ありがとうございます。オレ、この先も頑張りますから」
 震え声がした。……ああ、ようやく通じたか。
「音羽先輩に言われずとも、続けますよ僕は。……手放せるものですか」 
 お前は本当に傲慢だな、刻阪。でも、それでいい。
 グラスを呷る。最後の一滴はこの上なく美味かった。――喉が熱い、胸が熱い。ふわふわと心が宙に浮かんでいく。
 なあ。オレが見なかった夢の先は、お前らが見届けるんだぞ、二人共。
「え、音羽先輩? ちょっ!?」
「だ、大丈夫ですか!?」
 にわかに神峰と刻阪が慌て出す。何してんだ、お前ら。
 ……ああ、オレは、酔ってないぞ。ただ、お前らが眩しすぎて目を開けられないだけだ、心配するな。

 視界がぼやける。夢のように霞んで、煌めく。
 お前らは、オレが選ばなかった未来の、その先にある光だ。いつまでも見ていたい、綺麗な光なんだよ。
 ――だから、オレは。


「……お、音羽先輩?」
「ん……大丈夫だ神峰、寝てるだけだよ」
「マジか……びっくりした」
 ほう、と神峰は安堵の息をついた。
 酔い潰れてしまう音羽悟偉など、珍し過ぎる現象だ。頭も腕もいいこの先輩はなんでも完璧だと思っていたのに。
「疲れてんのかな……」
「そうだろうな。お医者さんの仕事は大変だろうし、今日だって全力で吹いてたし。……にしても、後半言ってることスゴかったよな? 綺麗な光、とか……」
 刻阪が首を傾げる。
 神峰も、あんな風に支離滅裂に、自分の内側のことを話す音羽は初めて見た。音羽は行動こそムチャクチャなことはあっても、言うことはいつだって理路整然としていたから。
「でも、音羽先輩……スゲェ真剣だった」
 けれど、神峰には『見』えていた。酔いで露わになった、音羽の心の内側が。
「え、あんなに酔ってたのに?」
「ああ……逆に、酔ってたからこそ、繕わねェ言葉で本当の事言ってくれたんだと思う」

 憧憬と、親心ならぬ先輩心と、ほんの少しの嫉妬と、音楽を愛する気持ちと。
 神峰の目で見て取れた複雑な色合いの心は、音羽がくだを巻いた言葉そのままだった。

「だから、オレは嬉しかったし……もっと頑張らねェとって思ったよ」
 隠さず心のうちを語り、そうすることで自分たちの背中を押してくれた音羽のためにも。
 自分は音楽を続け、多くの人々の心を掴み、幸せにしたい。神峰は強くそう思った。
 そんな相棒の様子に、刻阪はふっと笑みを浮かべる。
「ああ、そうだな。音羽先輩にあそこまで言われたら、半端なところじゃ終われないよな」
「おう! ……で、どうしよう、音羽先輩……」
「あはは。そうだな、タクシー呼んで家まで送ろうか」

 おばさん、お会計! と神峰が片手を挙げて女将を呼ぶ。
 眠ったままの音羽の前で静かに佇むグラスの中では、光だけが小さく煌めいていた。





end.


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趣味を爆発させた後のお酒とごはんってなんであんなに美味しいんでしょうね。
今年も1年、お付き合いありがとうございました!

Up Date→'16/12/30

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