【同人誌サンプル】その深淵に手を伸ばす




<サンプル1 − 1.『刻阪響は世界を垣間見た』>

 文字通り、限界を超えた演奏だった。
 最後の最後、楽譜の末尾に並んだ音符まで走りきった後の、残響に至るまですべてを込めた、その一瞬。
「――!」
 閃いた景色に、ここが舞台の上であることを忘れた。
 今のは幻だろうか、それとも白昼夢だろうか。
 翼となっていた自分の腕が、空間の果てに落ちていた「心」の、最後のひと欠片を掴んだところを、見た――

『パチパチパチ……』
 響き渡る拍手の音で刻阪響は我に返った。指揮者が指揮台を降り深く頭を下げる姿が目に入る。彼に、そして演奏を終えた自分たちに惜しみない称賛が送られている。
 二〇一四年度西関東吹奏楽コンクール、高等学校Aの部門。その舞台の上で奏でる十二分間の戦いが、今終わった。
 どしゃ降りの雨にも似た音からして、鳴苑吹奏楽部の演奏は観客たちに少なからぬ感銘を与えることができたようだ。しかし、その余韻に浸る暇はなかった。速やかにステージを降り、次の学校に場所を譲らなければならない。刻阪はすぐに立ち上がり、譜面と楽器を抱えて光の当たる場所を後にした。
 会場スタッフに半ば追い立てられるようにして舞台袖を抜け、慌ただしく楽器をケースにしまう一連の動きの中、興奮したような仲間たちの囁きが聞こえる。無理もない、今あの舞台で成し遂げた演奏は紛れもなくこれまでで最高のものだった。
その場凌ぎの片付けを終え、人々で埋め尽くされたロビーを小走りで進みながらも、刻阪は部員の一人に声を掛けられる。
「すごいソロだったね刻阪君! あれだけでも金賞ものだよ!」
「あ、うん、ありがとう」
 周りにひしめく他校の生徒や一般の観客からも、自分の名前を呼んだり鳴苑の名前を挙げて噂したりする声がちらほら上がっていた。
(見ろよ、鳴苑だ)
(刻阪響がいるトコだ! あたし好きなんだよね……)
(学生指揮なんだよなあそこ。まともに演奏できてたのかな?)
(天籟の弾にも負けない演奏だったな、さすがだ)
 けれど刻阪の心はそんな外からの声よりも、仲間たちの興奮した囁きも、自分の演奏の出来すらも飛び越えて、刹那に見た一つの『景色』に捉われていた。
(……あの光景はなんだったんだろう)
 サックスのキーに触れていたあの瞬間、あの空間に見えるはずのない自分の腕。それから、その腕が掴んだ小さなひと欠片。
 ――まさか、あれは。
 刻阪が思わず見やったのは神峰翔太だ。鳴苑の学生指揮者であるかの少年は、不思議な力を持っていた。
 すなわち、心が見える『目』を。
(さっきのは、「心」が見せたもの……?)
 最初は勘違いだと思った。なぜなら、あの幻が見えたその時、幻の中の自分の拳と重なるように、神峰がぎゅっと拳を握り締めたのを見たからだ。けれど、そうじゃない。あの幻の手は間違いなく『音楽を纏っていた』。
 そう悟った瞬間、刻阪の身体を一種の興奮が貫いた。
 ――ならば、僕は近づくことができたのか。神峰がいつも見ている世界に、僕も。
(そうか。神峰は、いつもあの光景を見ていたんだな)
 刻阪の、鳴苑吹奏楽部の音楽が、人の心を掴み取る瞬間を。
 なんてすごい景色だろうか、なんて幸せな事だろうか。自分たちで創り出した音楽が人の心を動かす瞬間をリアルタイムで見ることができるなんて。けれど何より嬉しいのは、神峰と同じ世界を見ることができたという事実そのものだった。
 神峰翔太は、刻阪にとって誰よりも特別な人だったから。
 神峰の想いを真に理解して、共に神峰の言う『虹の音』を追いかけたかったから――

(中略)

 誰もいなくなった学校の隅で、肩を並べて寄り添った二人は照れくさそうに笑いあった。
 刻阪と神峰は、音楽の上でも相棒だが、人目を避けた付き合いをしている仲でもあった。刻阪が昂ぶった気持ちそのままに神峰の手を握ると、神峰もきゅっと握り返す。けれど、そんなかわいい反応を見せながらも、どこか神峰の表情には翳りがあった。
「神峰……なんだか元気ないけど、疲れてるのか?」
 思わず心配になって尋ねたが、神峰はいいや、と頭を振る。
「大丈夫だって。疲れてるけど……今日大舞台でメッチャ緊張したからだし」
「そうだよな。……お前が背負ってたこと、いっぱいあったもんな。……良かったよな、結局伊調が帰って来れて」
「おう。竹風の演奏、悔しいけどスゲェ良かった。……そうだ、楓さんにお礼言わねェと」
 群馬の病院でうずくまっていた伊調を、山梨のコンクール会場まで連れてきたのは刻阪の姉、楓だ。鳴苑の演奏で伊調の心を起こすこと自体が上手くいっても、交通手段がなければ結局すべてがダメになるところだったのだ。
 そういえば、と刻阪は思う。――あの後、黒条はどうなったのだろう?
 伊調の心を掻き乱し、ついで神峰の心を折ろうとすらした謎の一年生、黒条善人。竹風高校の吹奏楽部と一緒にいたはずだが、出場校全員が揃う閉会式の時にいたかどうか、記憶がない。
「そういえば神峰、アイツは……」
「アイツ?」
「黒条だよ」
 その名前を出した瞬間、ほんの少しだけ神峰の顔がこわばる。
「僕らの演奏が終わってから姿見てないけど……?」
「オレも見てねェな」
 間髪なく神峰が答える。それは不自然なほどきっぱりとした言い方だった。
「……そうか?」
 違和感を覚えた刻阪が神峰の顔を覗く。けれど神峰は笑顔で首を振って見せた。
「ンな事より、本当に今日の演奏スゴかったよなァ!」
「あ、ああ」
「オレさ、お前の独奏(ソロ)聴いて……ちょっと惚れ直した……かも」
「えっ」
 頬を染めながらの神峰の言葉に、あっさりと刻阪の意識が吸い寄せられる。
「あん時のお前のソロ、なんつーか……変な話だけど、聴いててスゲェ安心できたんだ。みんなの音楽を導くって役目、あん時だけは全部お前に託せたっていうか、さ」
「本当? ……嬉しいな、それは」
 神峰の言葉に、刻阪の心がふわりと舞い上がる。
 がむしゃらに限界を超えようと足掻いていたあの瞬間、刻阪の目指す場所は紛れもなく神峰の立つ場所だった。その想いを神峰も感じ取ってくれていたなんて、こんなに嬉しいことはない。
「僕があそこまで頑張れたのは、神峰のおかげだよ。どうしても弾に負けたくないっていうのもあったけど、何よりお前と対等に立ちたかったからさ」
「対等……って、オレそんな凄くねェよ?」
 当惑する神峰に刻阪は首を振る。
「いいや、本当の事を言うとさ……僕、あの時諦めかけてたんだ。経験の差すらも簡単にひっくり返してくる弾に、僕は負けるのかもしれない……って。こう見えて、結構僕は根性無しだから」
「そ、そうなのか……? 意外だ」
 心底意外そうに目を丸くする神峰に、思わず刻阪から苦笑が漏れてしまう。時々、神峰は自分を買い被りすぎだと刻阪は思う。言い換えれば、神峰は自身がしている事に対して自信がなさすぎるのだ、こちらの方が痛々しくなるくらいに。
「本当だよ、それで姉さんに何回怒られたか分からないくらいだもの。だから、どんな事があっても頑張れるお前が羨ましいって思うこともあったんだよ、実は」
「そう、なんか……」
「だからすごくお前には……あと弾にもだな、感謝してるんだ。あの舞台で初めて僕は自分の限界を超えられたから」
 限界を超えようと、神峰の隣に立とうと決意して、遂に自分の弱みが築いていた壁を破れた瞬間を思うと、刻阪は気持ちが高揚してならないのだ。達成感、という言葉が一番近いようだが、そんな一言では表せないほど、それまでの刻阪の前に立ちはだかっていたものは大きかったのだ。
「どうしたら未来のビジョンに近づけるだろうって、あの時本気で考えたよ。どうしたらお前と同じ場所に立って、みんなの音を導けるかって……」
 サックスが吹けない今、刻阪の心を示す方法は言葉を重ねるより他にはない。どうしても伝えたくて――表現したくて、刻阪は夢中になって神峰に語り続けた。それを聞いて、神峰は感心したように頷く。
「そんなに頑張ってたんだな、お前……突然オレの方見て心で訴えてきた時は何かって思ったけどよ」
「必死だったんだよ。本当にココしかないって思って」
「……うん、マジで凄かったもんな。お前は本当に天才だよ」
「天才っていうのは大げさだと思うけど……でも、神峰からそう言ってもらえるとすごく嬉しいよ」

 ――おそらくこの時、刻阪は気づくべきだった。
 相槌を打ち続ける神峰の笑顔に、いつしか虚ろな色が浮かびあがっていたことに。
 安堵したような、しかしどこか遠くから見つめるような瞳に。

 神峰は半ば興奮した刻阪の背中を押すように、拳で軽く小突きながら言った。
「次やる時も頼むぜ、刻阪」
「もちろんだよ。今の僕にならなんでもできる気がするくらいだ……だって、最後に僕は『見えた』くらいだから」
「……『見えた』?」
 神峰の目が見開く。
「そうなんだよ。神峰いつも言ってるだろ、僕の音は『手』みたいだって。その手がさ、演奏の最後に、観客の心を掴んだように見えたんだよ」
 スゴくないか、と興奮する刻阪の横で、神峰はそっと刻阪と繋いでいない方の手を強く握り締めた。爪が食い込む程強く。
「正直言って、感動したね。神峰はいつもあんな風に見えてるのかなって思うと。僕も神峰の見てる世界に近づけたのかなって」
「――違う」
 低い声が、刻阪の言葉を遮る。
「え?」
「それは……きっと、お前の感覚だ。オレの『目』とは違う」
 違うんだ、と神峰が繰り返す。何かを圧し殺すような平板な声音だった。刻阪は否定されたことよりもそれが引っかかる。
「神峰? お前やっぱりどうかしたんじゃ」
「……ゴメン、オレ疲れたから先に帰るな」
 不意に神峰が繋いでいた手を振り解いた。刻阪が引き留めようと手を伸ばす間もなく、神峰は刻阪に背を向けて走り出す。
「……神峰っ」
 呼びかけた声にも振り向くことなく、刻阪を置いて神峰はその場を去ってしまった。

 
+ + + + +


<サンプル2 − 2.『神峰翔太は扉を閉ざす』>

 迎えた練習後。刻阪はいつにない手早さで楽器を片付け、他の先輩たちが話しかける前に神峰の腕を捕まえた。
「神峰、一緒に帰ろう」
「ん? お、おう」
 神峰の目が一瞬大きく開く。その瞳に怯えのような色が浮かんだのは、おそらく気のせいではないだろう。だがそれにひるんではいられない。神峰の背を押して、二人で音楽室から出て行く。
 出がけに、同じく何か言いかけようとしたらしい邑楽と木戸を音羽が止めているのが見えた。
(すみません、先輩)
 先輩たちが神峰に何かを言いたい気持ちは分かる。だがこの役目だけは譲るわけにはいかなかった。
 みんなが求めている、神峰が音楽を語る本来の言葉、神峰の指揮に宿る『神峰らしさ』。それらの源となる神峰の秘密を知っているのは刻阪だけなのだから。
「刻阪? どこ行くんだ?」
 出口とは反対の方へ向かう刻阪に、神峰が訝しげに聞いた。だが答える余裕もなく刻阪はひたすら人気のない廊下を歩き続けた。腕はまだ強く掴んだままだ。
「刻阪っ、オレ逃げたりしねェから離してくれ、痛ェって」
「あっ、……悪い」
 神峰の訴えに、ようやく気がついて刻阪は掴んでいた腕を離す。そこは誰もいない教室だった。夕闇が空間を染める中、沈みかけた太陽が最後の残光を投げかけている。
「それで、帰るんじゃねェのか」
「……そうじゃないって、分かってるくせに」
 言った後で、刻阪は我ながら子どもみたいだと内心でため息をつく。もっとちゃんと、言葉にしなければ。
「先輩たちが今朝言ったのと大体同じことだよ。……お前、なんでわざわざ指揮のやり方変えたんだ?」
 だが神峰は首を横に振る。
「……そんな変えてねェよ、言葉選んだだけだ」
 ――だから、それが問題なのに。
 刻阪は喉元をせり上がってきた苛立ちを隠しもせずに、神峰を真っ直ぐ見据え言葉を続ける。
「じゃあ、言い方を変える。……どうしてお前、お前の『見たもの』を、指揮で言わなくなったんだ?」
「……」
 図星を突かれたのだろう、神峰はあからさまに視線をそらした。ほらやっぱりだ、神峰は本当に分かり易い。
 今日の練習の中で、神峰の指揮と言葉に刻阪はじめパートリーダーたちが感じていた物足りなさ、それは神峰がいつも言ってきた独特の比喩表現――つまり、神峰の『目』で見た心象風景から来る、目指すべき音楽のビジョンだ。

『次は火を起こせ! 氷を溶かせー!』
『トランペットまとまって前進! 奏馬先輩が手綱を引い(コントロールし)≠トくれる!』
『空まで目の覚めるような音を!』
『ヘアピンカーブ、上手く曲がり切れ!』

 一見音楽と関係のないような表現だが、そのイメージを音に込めれば目指すべき音楽の姿がハッキリとする。それこそが神峰の指揮の最大の武器なのに、今日の練習ではまったく発揮されていない。
 ――神峰が、そのビジョンを言おうとしないからだ。
「だって……その方が分かり易いだろ? いつもオレが言うわけわかんない事、刻阪が上手く言い換えてくれてたんだから、もとからオレがそう言った方が」
「それは違う! 僕が今まで言ってきたのはあくまで『手段』の話だ、表現したいこととは全然別だよ」
 楽譜に散りばめられた音楽記号は、言ってしまえば目安に過ぎない。実際の音量はどれほどか、なぜその場でその音楽記号が必要なのか。そして、その記号で以て何を表現したいのか。
 それらを最終的に決定づけるのは、指揮者の作るイメージだ。
「お前が初めから手段の話をしたら、演奏者はどこを目指したらいいか分からないだろう? ……お前の『見たもの』は、鳴苑の音楽に必要なものだ。分かってるから今まで言ってきたんだろ」
「……」
「なのに、どうして言おうとしなくなったんだ……?」
 言葉を重ねるごとに、神峰の表情が色をなくしていく。俯いたまま顔を上げない神峰が痛ましくて、刻阪は思わず神峰に一歩近づく。
 見て欲しい、分かって欲しい。
 怒っているんじゃない、心配しているんだと。
 微かに震えた肩に手をかけようとした時、神峰が小さくかぶりを振った。
「……言わなくてもいいって、思ったからさ」
 返ってきた声は、やはり平板なもので。
「西関東大会で、分かったんだ。オレが見たものはオレだけのもので……それでも、孤独(ひとり)じゃないって。オレが見たものを誰にも共有できなくたって、オレは誰かと一緒に何かをすることができる。それだけでイイって思ったから」
「だから、言わないのか?」
「……」
 こくりと神峰は頷く。そして、微かに口の端を上げてみせた。何も心配することはないのだと言いたげに。
(でも、本当にそうなのか?)
 神峰の意思でそう決めたにしては、ずいぶん神峰の言い方には力がないように見える。刻阪にはそれが引っかかって仕方ない。
 ――まるで、無理に思い込もうとしているみたいではないか。
 もしそうならば、きっと原因があるに違いない。
「神峰……本当は西関東大会で何かあったんじゃないのか?」
 核心をついたつもりだった。けれど神峰は口を笑みの形にしたままこう言ったのだ。
「……別に、何もねェよ。……そうだとしても、オレが見たものを話しても笑うだけだろ?」
「――っ!!」
 その言葉にかっと頭に血が上る。あまりにも悲しくて、腹立たしくて。どうしてそうなるんだ!
「笑うわけがないよ、お前の事だろう!」
「でも、あんまりありえねェよ。曲とは全然関係ねェし」
「そういう問題じゃない!」
 どうして神峰は言ってくれないのだろう、どうして僕を信じてくれないのだろう。刻阪は歯がゆさに神峰の腕を掴む。
「いいか、僕とお前は演奏者と指揮者だけど……その前に、友達で、恋人だ。そんな大切な人のこと心配するのは当たり前だ!」
「……」
「それに、お前さっき誰とも共有できないって言ったけど……あの時心を掴む場面を『見』た僕なら、できるんじゃないのか?」
 そうならどんなにいいだろうと刻阪は思う。最初に神峰にその事実を伝えた時は違うと言われてしまったけれど、やはりあの感覚は神峰の『目』と近いもののはずだ。
 しかし。
「やっぱり、お前は分かってねェ」
 聞いたことのないような低い声に突き放される。
「……何?」
 掴んでいた腕を、振り払われる。
「何も分かってねェよ! お前が弾と戦ってた時、打樋先輩が叉山兄弟とどう戦ってたか――オレが黒条とどんな戦いしてたか、分かるはずがねェ!」
「っ……!」
 刻阪は息を飲む。
 自分が見ていたものの埒外にあった戦い。それらの存在を指摘されても、刻阪は答える言葉を持てない。
 神峰の言う通り『見て』いない以上、理解できないのだから。
「オレの見たモンは誰とも共有なんかできねェし、すべきじゃない。この『目』はそんな綺麗なモンじゃねェ」
 ――だから、もうこの話はするな。
 最後にそう言って、神峰は教室を出て行った。
「…………」
 言葉を失ったまま、刻阪はその場に立ち竦んでいた。神峰を追いかけることすら忘れて。
 すっかり夕陽の光も消えた教室は真っ暗で、何も見えない。
「……ショック、だな」
 崩れるように、刻阪は机に座りこんだ。とっくに下校時刻は過ぎていて、帰らなければならないことは分かっていた。
 だが今は、しばらく立ち上がれそうにない。
 扉が閉ざされた音を、刻阪は聞いたような気がした。あの時垣間見た、神峰の立つ世界へ続くと思われたその扉が。

 それは刻阪が初めて受ける、神峰からの完膚なきまでの拒絶だった。





+ + + + +

サンプルは以上です。
お手に取って下さると嬉しいです(*^^*)

Up Date→'16/12/3

[ 47/53 ]

[*prev] [next#]
[もどる]
[しおりを挟む]



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -