pinky daydream 1/2



 その日はもう、1日中おかしかった。
 頭の中が桃色の霞がかったようで、ありとあらゆるものがあっちの方へ飛んでいく。

「……重症だ」

 常ならぬ熱さをその身に抱えて、神峰はひとり、誰もいない教室で膝を抱えるのだった。


   ◆


「おはようー」
「おはようございます!」
「オーッス、今日もやるぞオメーら!」

 朝の挨拶があちこちで聞かれる朝練前。文化部とはいえども礼儀に厳しい吹奏楽部ならではの、活気ある声が部員たちを奮い立たせる。
 その中でも、ひときわ爽やかな声で先輩と、後輩と挨拶を交わすひとりのサックスプレイヤーの姿がある。

「刻阪先輩、おはようございます!」
「うん、おはよう」
 神峰がそんな背中に近づいて、声をかけようとすると、その刻阪が振り返る。

「おはよう、神峰」

 思わず、ぎゅっと胸が疼いた。
「…っ、はよ、刻阪」
 ほんのり甘い色が乗った声に、神峰はむやみにドキドキしてしまう。
 だって、知っているのだ。これは、他の誰にも向けられない、自分だけの特別な声だということを。


 ──刻阪の声が、好きだ。
 特別低くていかにもイケメンらしい声、というわけではないけれど、いつでも真っ直ぐによく通る、穏やかな音程が耳に心地いい。
 彼の奏でるサックスの音と同じくらい綺麗だと、神峰は勝手にそう思っている。

 それに、普段は爽やかなテノールは、ある一時だけ特別な響きを持つ。
 神峰と、二人でいる時。二人だけの時間を分かち合う時。
 そう、たとえば、

『好きだよ、神峰』
『……キス、したいの? ふふ、可愛いなぁ』
『いいよ、声出して。……気持ち、いいんだろ』

 ──こんな風に、触れ合うほど近くで囁いてくる時、とか。


「〜〜〜〜っ!!」
 突然フラッシュバックしたあらぬ記憶に、急速に頬に血が上る。
 廊下のど真ん中に突っ立ったまんま、神峰はぶんぶんと頭を振った。
「神峰? どうした?」
「いいいいやなんでもねェ! じゃあなまた後で!!」
 きょとん、と首を傾げた刻阪をうっちゃって、神峰はすぐ近くにあった準備室に飛び込んだ。
 そのままの勢いで、適当に楽典を引っ張りだしたかと思えば、呪文のように音楽記号を読み始める。

(なんで! なんでいきなりあんなコト思い出したのオレ! なんで!?)
(ととととりあえず落ち着かないと指揮振れねェ!!)

 顔を真っ赤にしたまま音読を続けるそんな姿に、ぎょっとした部員が何人もいたとかいないとか。


「はぁぁ……」
 ようやく朝練を終えて、神峰は深く深くため息をついた。
 無理矢理頭を指揮者モードに切り替えたおかげで、なんとか練習は切り抜けたが、どうにも完全に集中しきれたとは言い難い。
 練習中は、とにかく刻阪を見ないようにするので必死だった。見てしまえば、またあらぬ記憶に囚われそうで恐ろしかったからだ。

 実を言えば、こうなってしまった原因は、神峰にはよく分かっていた。
(刻阪が、足りないんだ……)
 ここ数週間、吹奏楽部は最初の予選大会に向けて練習が加速していた。
 神峰はもちろん、コンクール用の選曲から曲解釈から練習計画まで、まだ慣れない頭をひねって東奔西走していたし、刻阪だって自分の練習や、同パートの後輩の面倒を見たりと大忙しだったのだ。
 休日も関係なしに練習に励む毎日であるなら、自然“恋人”としての触れ合いも減るわけで、ここ最近では帰り道にそっと寄り添うのが精一杯だった。

 それが、付き合い始めて──そして、一線を越えてからそう時間の経っていない二人にとって、どれほど辛いことかは、もはや言うまでもないだろう。

(どうしよう、抱きしめて欲しい)
 授業中の教室でも、やっぱり集中できずに神峰は教科書に顔を埋める。
 我ながらやるせなくなるが、そう思ってしまうのは仕方ない。男子の体は正直なのだ。
 そんなモヤモヤする思いを抱えながら、神峰はようやっとお昼を迎えた。


   ◆


「おつかれ。お腹空いたなー」
 神峰がとんだ煩悩を抱えながら午前中を過ごしたことも露知らず、刻阪はあっけらかんと笑いかけてきた。
「お、おお…そうだな」
「よし、それじゃ早くお昼食べて、自主練行こう」
 校舎裏のいつもの位置に腰を下ろして、刻阪はさっさと弁当を広げだす。
 あまりにいつも通りの刻阪に、神峰はへそを曲げたくなるのをぐっと我慢した。

(こいつ、ホントこうしてると、オレがバカみてェだよな……)

 こうして見る普段の刻阪は、本当に煩悩とは無縁そうな、すがすがしいほどの音楽バカでしかない。
 だが、本当に無縁というわけではないことを、最初にそんな行為に及んだ時に、神峰は散々思い知ったのであるが。

(って、ダメだァまた思考がそっちに!)
 小さく頭を振って、神峰はもそもそと自分の分の昼食(例によって甘い菓子パンである)を食べ始める。
 そうしながらも、ついつい刻阪のきれいな箸使いをする手を見つめるのだった。


 ──刻阪の手が、好きだ。
 細いように見えてしっかりとした指は、いかにも奏者にふさわしい。
 いくつも並んだサックスのキーを、踊るように指が走るのを見るたび、神峰は見惚れてしまいそうになる。
 最初に神峰の心を揺さぶったのは、刻阪の心が籠った音の「手」だったけれど、刻阪の温もりが宿る本物の手も、あっという間に神峰の心を掴んでしまった。

 何度、その力強い手に、立ち止まる自分を導いてもらっただろう。
 何度、傷ついて蹲る度に、優しいその手に包んでもらっただろう。
 刻阪の手がくれたたくさんの勇気があるからこそ、神峰はここまでやってこれたのだ。

 そして、神峰は知っている。その手はけして、優しいばかりではないことを。

 刻阪の手は、本当はとても意地悪だ。
 一番触れて欲しいところにはなかなか触れず焦らしてくるくせに、一度捕えれば、神峰が泣いてすべてを曝け出すまで絶対に離してくれない。
 優しいように見せかけて、その実無遠慮に神峰を暴く手のひらと指は、そろりと肌を辿り、弱いところを探り出してはねちっこくなぞり、さらには、自分でも触れないような最奥へと──


「おい、神峰? 大丈夫か?」
「──はっ!?」
 ぼんやりと霞んだ視界の前で突然手を振られ、神峰は我に返った。
 刻阪はとっくに弁当を食べ終わっているらしく、途中で食事が止まってしまった神峰を怪訝そうな顔で覗いている。そばにふわふわと浮く心象のキーガードまで、全力で疑問符を飛ばしまくっている。
「…あっ、悪りィ刻阪!」
「いや、僕はいいけど……顔、真っ赤だよ。熱あるの?」

 そう言うが早いか、刻阪がその手を神峰に向かって伸ばす。
 ひやり、とした手の感触が触れた瞬間、神峰はぴょんと反射的に立ち上がってしまった。

「〜〜〜っ、だいじょうぶ! オレ大丈夫だから、早く行こうぜ!」
 そしてそのまま、逃げるように神峰はその場から走り出した。食べかけのパンを持ったまま、残りの荷物は全部芝の上に投げ出して。
 ──だから、神峰は気づかなかった。

「…神峰…」
 その背中を見送る刻阪の瞳に、焔が揺らぎ始めていたことを。


   ◆


 そうしてやってきた放課後、神峰はもう限界だった。
 これはひどい、そんなスラングが頭に浮かんでは消えるのも一瞬で、頭の中は刻阪と、刻阪とするあらぬ行為のイメージで溢れそうだった。
 授業中だろうがなんだろうが、油断すればすぐ、耳元で囁く甘い声だの、肌をすうっと撫でる手の感触だのが蘇ってしまうのだから。

「……重症だ」

 煩悩にまみれた脳が作る幻の感触に、たまらず机に頭を打ち付けるが、そんなもので煩悩が消えるなら苦労はしない。
 そのうえ、頭の中の煩悩だけならまだしも、その影響が頭だけでなく、体の他の部分まで伝播している始末だ。
 ──体が、熱くて、どうしようもない。

(辛い…刻阪ァ…)
 浅ましさと情けなさに、もう少しで涙が出てしまいそうだ。けれど、それでも練習には行かなければならない。
 神峰は一人の男子ではあるけれど、それでも鳴苑吹奏楽部の、押しも押されぬ学生指揮者なのだから。


「ん、ちょっと金管中心に合わせるか。木管は休んでいいぞー」
 せめてもの救いは、今日の放課後の指揮は、顧問の谺が行うことだろうか。
 しかし、やっぱり逆効果だったのかもしれない。ただ聴いているだけというほど、集中できない時に辛いものはない。

 谺の指示の下、木管楽器を担当する部員が楽器の構えを解く。
 楽譜を覗いて真剣にアンサンブルを始めた金管の音を聴く者もあれば、こっそりチューニングを調整したりする者もある。
 その中にあって、刻阪はポケットからリップクリームを取り出した。

(うわ、ヤベェ)

 奏者たちの様子を指揮台の隣で見ていた神峰は、また頭に血が上るのが分かった。
 唇でマウスピースを咥えて吹くリード楽器の奏者は、唇の状態にも気を遣う。だから、刻阪がリップクリームで唇の手入れをするのは、なんらおかしなことではない。

 問題は、今の神峰の頭の状態だ。
 クリームが塗られるたび、艶やかさを増す刻阪の唇は、もう目の毒でしかない。
 これ以上はダメだと分かっているはずなのに、やっぱり視線は刻阪の、最も柔らかな場所に吸い付いてしまうのだった。


 ──刻阪の唇が、好きだ。
 顔立ちとおなじようにスッとした形のそれが、緩く弧を描いて微笑んだ瞬間が、神峰は大好きなのだ。
 その唇が、自分の名前を象る瞬間もたまらない。はじめて意識して見つけた時は、恥ずかしさのあまりぎゅっと目を瞑ってしまったことをよく覚えている。

 それに、神峰は知っている。手のひらや指と同じくらい、唇も優しく触れてくれることを。

 キスの瞬間は、いつも甘い。ゆっくり、ゆっくりと近づいてから触れるそれは、やわらかくてあたたかくて、そして神峰を高揚させてくれる。
 たまに血の味がする時もあるけれど、そういう時は、神峰からその部分を舌でなぞってみる。積み重ねた練習の証を労わるように。
 すると、刻阪はとても喜んでくれるのだ。

 そうして嬉しそうに微笑んだ刻阪が、すきだよ、と囁いて、そのまま唇で耳の形を辿ると、体にゾクリと甘い刺激が走る。
 神峰がたまらず吐息をこぼせば、今度はちょっぴり意地悪に笑いかけてくる。

『……もっと、良くしてあげようか?』

 そんな幻聴が聞こえて、神峰はびくりと体を震わせた。
 その瞬間。


「──っ!」


 神峰は息を飲んだ。
 サックスパートの前に居並ぶフルートパートの部員を突き抜けて、刻阪の視線が神峰に刺さる。
 射抜くようなまなざしとまともにぶつかった神峰は、逃げるように視線を手元の楽譜に落とした。

(ヤベェ、これは、ヤベェ……!)

 大音響のはずの、金管楽器のアンサンブルを掻き消すほど、心臓がうるさかった。
 だって、刻阪のあの瞳は、紛れもなく、「あの時」にしか見せない色をしていた。
 夏の夜にように甘くて、その実、燃え盛る焔の輝きを秘めた、あの色を。

 こちらが目を反らしても、神峰はまだ、刻阪からじっと見られているような気がしていた。
 まるで「あの時」、組み敷いた自分の身体を見つめる時のように、執拗に。
 そんな風に妄想してしまうほどに、神峰の心は刻阪に侵されていた。

(もうダメだ……、オレ、刻阪が)
 “見られている”──そう思うだけで、我慢できないほど体が熱くなる。
 荒れ狂う情にせめて、最後の理性だけは灼かれまいと、神峰は強く唇を噛んだ。


 そして。


 合奏と最後のミーティングを終え、帰宅し始める部員たちの間を抜けて、刻阪がつかつかと神峰の前に歩み寄る。
 その気配に、部室の隅で膝を抱えていた神峰が、おそるおそる顔を上げた。

「──神峰」
 端的に名前を呼ぶ刻阪は、ほとんど無表情だった。
 しかし、彼の中に渦巻く感情は、その「心」が雄弁に語っている。
 そのあまりの激しさに、神峰はごくりと唾を飲んだ。

「…っ、刻阪、オレ…っ」
 羞恥と淡い期待に、情けないほど、声が震える。
「ん、来てよ」
 頷いた刻阪の声も、熱っぽく掠れていた。




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