透明のあいことば


 それは、最初はほんとうに些細なことだった。だけどお互い譲らないから、収拾がつかなくなって、勝手に膨れ上がって、終いには2人まとめて押しつぶされてしまう。恋人同士の喧嘩なんてのは、いつだってそういうものだ。少なくともオレたちの間では。



「これお願いします」
「……うん、ありがと」


 渡された書類を受け取りながら、ため息をなんとか飲み下す。今朝、いま目の前にいる瑠璃ちゃんと喧嘩をした。激しい言い合いなんかはしないものの、微妙な意見のすれ違いが膨らんで行くことがたまにあって。今日はその“たまに”で、収拾がつかないままに出勤することになってしまったのだった。
 けれどオレは立派な大人であるわけで、私情を仕事に持ち込むべきではない。もちろん秘書をつとめる彼女、瑠璃ちゃんだってそれはわかっているらしくて、最低限の業務連絡は交わしながら過ごしていた。

 いつものように柔らかくはない受け答えだとか、どこか冷たい視線だとか。じわじわと刺さってくる。
 たぶんいつもより長い喧嘩、居心地は決して良くなくて。寂しさすら感じ始めてしまったけれど、なかなか自分から謝る気にはなれなかった。


 思えばいつもきっかけをくれるのは、瑠璃ちゃんのほうだった。張られた意地とかつまらないプライド、それから足りない勇気。そんなものたちがせめぎ合ってなにも言えないオレと、どこか哀しそうに背中を向ける瑠璃ちゃんとのあいだの、淀んだ重たい空気を取り払うのは。いつも、瑠璃ちゃんの紡ぎ出す「ねえ」だった。
 遠慮がちで、でもそれでいてしっかり通って、オレの心に目掛けて飛んでくるその声。呼ばれると、ぴんと張っていた意地がなぜだか少し緩んで、ほっと胸を撫で下ろしてしまうオレがいたりなんかして。

 けれど今日、なかなかそのきっかけが訪れない原因は、なんとなく自分でもわかっていた。
 ……たぶん、今回は、圧倒的にオレが悪い。オレのほうから謝ってほしいと、瑠璃ちゃんが暗に言っているんだろうなとは思う。だからこそ気まずくて、切り出すことは一等難しかった。

 執務室にはふたりきり。紙を捲る音や空調の唸る音、それらがせっせと隙間を埋めようとしているような気がして、なんとなく手を止めた。つられたみたいに、彼女が立てる音もゆるりと収まる。誂えられたような、重い沈黙。破らなきゃと焦りのままに息を吸い込んで、それから。言葉になり損ねたそれを吐き出した。
 いや、だって。難しいよ。こんな沈黙を自分の声で裂くのも、その先にことばを整理してきちんと謝るのだって。まとまらない考えだとか、言い訳、気まずさが心臓を嫌なふうに脈打たせて、重たい塊が胸の奥へと落ち込んでいく。
 沈み込んだ心を引き上げる方法を探して、その途中で。はたと気付いた。いつも瑠璃ちゃんがしてくれていたことの、ありがたさ、凄さ、その重さに。いつもいつも受け取る側で、「オレもごめんね」なんて後出しジャンケンしていた自分の不甲斐なさに。

 勢いのままに思わず立ち上がると、びくりと肩を震わせる瑠璃ちゃんと視線がかち合った。見開かれたまるい瞳が、ぱちぱちと瞬きを繰りかえす。
 いつもこんな風に緊張してたんだろうな。仲直り、きっとできるってわかっていても。竦んでしまうような、立ち止まってしまうような気持ちをいつも抱えて、オレにきっかけをくれてたんだよね。
 遠慮がちにオレをとらえる目線が逸らされてしまう前にと、慌てながら、でも確かに。思いきり息を吸い込んで、それは今度は言葉に生まれ変わった。


「ねえ、」



20201109
#復活夢版深夜の真剣創作60分一本勝負
お題「ねえ」(加筆修正済)


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