世の中にたえて桜のなかりせば



「……桜だ」


 驚いたような、けれどどこか暖かみを帯びた瑠璃ちゃんの声が、じんわりとオレの中に広がっていく。顔を上げた先、ひらひらくるくると風に散らされる花びらを目で追いながら、「うん、綺麗だね」と出来る限りに優しく返した。


「イタリアで見られるなんて」
「日本みたいには咲いてないもんね」


 パッセジャータ・デル・ジャポネーゼ──日本の散歩道、なんて名付けられているローマの一角。湖のまわりに植えられた桜並木は、何十年か前に日本から贈られたものたちらしい。聞きかじっただけだから、そこまで詳しいことは知らないけど。

 オレも瑠璃ちゃんも日本出身で、つい数年前までは当たり前に桜を眺めていた身だった。春になればあちらこちらで花びらが飛び違い、何の変哲もないアスファルトが桜色に染まっていく。ぼうっと踏み締めていたあの頃をもったいないと思えるくらいには、オレはイタリアに染まりかけた自分が寂しくて、日本、ひいてはあの日々が恋しくて、それからきっと少し大人になっていた。
 それはきっと、いま隣に立つ瑠璃ちゃんも同じだった。イタリアで過ごして何年目かの春、昨年は「桜、咲いてるかなぁ」くらいの気楽さだった言葉は、「桜、見たいな」なんて、ほんの少し具体的な願いに姿を変えていたから。


「ありがとう、綱吉さん。忙しいのに連れてきてくれて」
「ううん。こういう場所がある、って話聞いた時から、オレも来たいと思ってたからさ」


 そっか、なんて嬉しそうな声の後に、舗装された道路をヒールが叩いていって、瑠璃ちゃんはオレの数歩前に立って桜を見上げている。冬を忘れたような風があたたかくスカートを揺らして、舞い散る花びらが柔らかく彼女を包むようなその光景に、つい頬が緩んだりなんかして。「よかったよ、君が喜んでくれて」そう瑠璃ちゃんの背中にかけた言葉にも、なんだかだらしない甘ったるさが滲んでしまったような気がする。

 くるくる回るみたいにしながら、あたり一面の桜を余すことなく見回す瑠璃ちゃんにそっと近付いて。オレも同じように見上げると、せり上がってくる懐かしさに少しだけ息苦しくなった。
 底の抜けた空、そよ風に合わせてちらつく桜色。ここだけ切り取ってしまえば、まるで自分が並盛に立っているかのような心地がして、その色が少しだけ目に染みる。


「綱吉さん」
「ん?」
「本当はね、最近ちょっと寂しかったの」


 つい視線を向けた瑠璃ちゃんの横顔は、相変わらず桜を見上げているけれど──やっぱりそうだよな、なんて。彼女にそんな思いをさせていた自分が不甲斐ない気持ちと、僅かでもそれを見抜けていたことに安堵するような妙な気持ちが綯交ぜになって、うまく返事が見つからない。
 そんなオレに気付いているのかいないのか、「でも、」と彼女は言葉を継いでくれるから、そっと寄り添って続きを待った。


「ここに来て、すっごく元気貰えたよ」
「そっか、よかった。……でも、そんなに見たかったの?」


 ふわりと髪が揺れて、瑠璃ちゃんの瞳がまっすぐにオレに向けられて。「もちろん、それもあるよ」と優しく目を細めてくれるから、「じゃあ、ほかには?」と続きを促してみる。瑠璃ちゃんの話がもっと聞きたかった。


「憧れのすがただなぁ、とか思ったりして」
「……うん?」
「この桜たちも、日本からはるばるイタリアにやってきて、きっとすごく大変なはずなのに。とっても頑張ってこの場所で咲いて、力強く立ち続けてて……この桜みたいになりたいな、なんて思ったの。目標を貰えた、っていうか」


 大袈裟だけどね、と少しだけ恥ずかしそうに話が結ばれる。……すぐに理解できない察しの良くないオレにも、何にも言わずに優しく語りかけてくれるところが、好きだなと思った。小さなことだけど。そう思いつつも素直に感嘆の息をつくと、瑠璃ちゃんはちょっぴり嬉しそうに微笑んでくれた。


「……すごいね。オレ、だいぶボケーっと見てたよ」
「ふふ。純粋に楽しむのだって素敵なことだよ、綱吉さん」

 ……あぁ、愛おしいなぁ。思わず手を取ると、わ、なんて上擦った声をあげる瑠璃ちゃんは、何度手を繋いだってまだ少し恥ずかしそうにしてくれる。「繋ぎたいなら言ってからにしてって、いつもお願いしてるでしょ」と尖らされた唇も、春の陽光に透かされるようなその頬も、とびきり綺麗な桜色をしていた。


「この桜みたいになれるといいね、オレたちも」
「……うん。そうだね」


 きゅ、と控えめに手を握り返してくれる瑠璃ちゃんは、いつからこの桜たちがここに立っているのか知っているのだろうか。もう六十年近く根を張り続けているのだという桜並木を見回して、それから瑠璃ちゃんの瞬きを幾度かながめてみる。

 この桜たちみたいに、ふるさととは違う地でもしっかり立ち続けて、それから。六十年、いやもっと、この先ずっと寄り添っていけたらな、なんて。そんな密やかな願いを、光る春風にこっそりと乗せた。ちょっと恥ずかしいから、これはまだ気付かれなくってもいいや。



20210408
#復活夢版深夜の真剣創作60分一本勝負
お題「桜」


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