蒼いしるべを噛む
いつだって、「弱者から狙うべき」というのが定石らしい。ドン・ボンゴレの婚約者としての生活がはじまってから、私はそれを嫌というほど実感させられてきた。
「瑠璃ちゃん、おまたせ」
そう声をかけられて、まずその声色に口元が引きつった。何か違う。考えるよりも先に心臓が脈打って、危機を知らせてくる。
仕事の合間、久しぶりに綱吉さんとふたりで街に出た。休憩がてらお散歩して、顔見知りのお店に立ち寄ったりと穏やかな時間を過ごして。そんな中で「ちょっとトイレ行ってくるね」と綱吉さんが席を外したのが、ついさっきのことだった。
その綱吉さんが、戻ってきた。何らおかしいことはない。ないはずなのに、違和感が拭えない。恐る恐る、俯きがちに振り返ると、確かにさっき着ていたスーツが目に入る。ゆっくり目線をあげていく。今朝、一緒に選んだネクタイ。私が作った結び目。胸騒ぎを抑え込みながら、そこから一気に目線をあげた。
「どうしたの? 瑠璃ちゃん」
違う。違うよ、綱吉さんはそんな笑い方しない。そう思うと同時にすぐに状況を理解した。目の前の綱吉さんは、綱吉さんじゃない。私は実際に目にしたことはないけれど、きっと話に聞く幻術の類だと直感した。
おそらく。今この瞬間、幻術を使う誰かに私は狙われている。
「……ううん。おかえりなさい」
平静を装って、できるだけいつもみたいに笑顔を作る。にこりと笑ったその人は、やっぱり綱吉さんじゃない。それでも、「じゃあ行こっか」と踵を返したその誰かに、私は着いていくことに決めて。ゆっくりと一歩、踏み出した。
弱者から狙う。卑怯ではあるけれど確実な戦法で、ボンゴレに牙を剥くとなれば慎重な手段を選ばなくてはならないのはわかる。戦えないボスの婚約者、そんなのは格好の餌食で、自分の立場だって痛いほどわかっているつもりだった。
それでも、このやりかたが許せなかった。綱吉さんに化けて私に笑いかけてくることも、私が愛する人の偽者を見破ることすらできない、その程度の人間だと思われていることも。
鞄にはいつも、小型拳銃とリングと匣を忍ばせている。綱吉さんは「瑠璃ちゃんは戦わなくていい」の一点張りで、護身用のものすら渡してはくれなかったから、思い切って雲雀さんに頼んで頂いたものだった。「正しく使いなよ」なんて、ぶっきらぼうだけど優しい言葉を添えられながら、もちろん綱吉さんには内緒で。
とはいえ、綱吉さんと殆ど一緒にいるために訓練する時間もなく、隙を見て射撃室で1〜2度撃ったくらいしか経験はない。リングと匣に至っては、中身の説明こそしてもらったが開けたこともなかった。
――自分の火事場の馬鹿力を信じるしかない。我ながら無謀でしかないと思うけれど、綱吉さんと私への明らかな侮辱に、どうにか自分の手で鼻を明かしてやりたくなってしまっていた。
「瑠璃ちゃん、買いたいものは買えた?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
他愛ない会話を振られながらも、気味悪さがぞくぞくと背筋を駆け抜けていく。名前、だ。名前を呼ばれるたびに、神経が逆撫でされる。
綱吉さんがいつも、大切に大切に呼んでくれる私の名前。綱吉さんの声で紡ぎ出される「瑠璃ちゃん」が私は大好きだったから。得体の知れない何かが綱吉さんの真似をして呼んでくること、それが気持ち悪くてしかたがなかった。
あと少し。あと少しの辛抱。敵は必ず、人気のない裏路地なんかに私を連れ込む。丸腰だと思われている可能性は高いから、きっと割かれた人員もそう多くはない。武器はあるんだから、隙をつけば私でも一泡吹かせられるはず。
――けれど。マフィアの世界がそう甘くはないことを、とっくに知っているはずだったそんなことを、痛いほどに思い知らされるだけの結果に終わった。
足元に転がる拳銃と、取り出すことすら叶わなかったリングと匣。自分を過信していた私は、何もできないうちに軽々と拘束されてしまった。
「……噂通りの非戦闘員か。手の込んだことをする必要もなかったな」
目の前で綱吉さんの幻覚を解きながら、見知らぬ男が笑う。後ろから取り押さえられている私は、なす術なく唇を噛んだ。
案の定、人気のない通りに連れ込まれて、そこで数人の加勢を察して拳銃を取り出したところまではよかった。けれど実戦の経験なんてない私に、素早く動くことは到底できなくて。拳銃をはたき落とされて、二人がかりで押さえられてしまえば、もうそこから一歩も動けなかった。
「はじめは、気付いていないのかと思ったが」
質のいい靴音が近付いてくる。今さら襲ってきた危機感に身体が震えて、けれどここで屈するなんて絶対に嫌で、目を逸らさないで睨みつける。
「騙されたフリをしてくれるなんて、随分と無茶なことをする女だ」
おかげで簡単に人質が手に入ったが、なんて付け足してから、あっさり私から目を逸らして、彼は近くにいた部下になにやら指示を出し始めた。
……どう、しよう。何もできなかった上に、綱吉さんに、ボンゴレの皆さんに迷惑をかけてしまう。口ぶりからしてすぐに殺されることはないだろうけど、私のせいで……
そのとき。ふわり、身体が浮いた。それからすぐ「瑠璃」と私の名前を呼ぶ声は、いくらか低かったけれど、そう。本物だった。そう何度も見たことはない、けれど確かによくよく知っている、あたたかいオレンジ色が視界に飛び込む。
「……つなよし、さん」
視線が交わる。すぐにほどけてしまったけれど、その瞳は優しい炎の色でひかめいていた。いつもとは違う、でもたしかに綱吉さんだ。私の大好きな、綱吉さん。強張っていた身体の力が抜けてしまって、長く長く重たい息を吐き出した。
気付いた時には、私は地面に下ろされていて。情けなくへたり込みながら、薄暗い中でオレンジの炎が明滅するのを呆然と眺めるしかなかった。
「す、ごい」
ついこぼれ落ちた声は弱々しくて、握った拳は力も入らないままに震えてしまって。心を握って押しつぶすのは、自分の無力さ。
綱吉さんは強い。武装したマフィアの集団を、いとも簡単になぎ倒していく。彼のことだからきっと気絶させているだけなんだろうけど、そうして加減して戦えるのだって、本当に強いからこそなんだ。
そんな姿を見ていると、抑えていた感情があふれ出してくる。悔しさも安心も、今更やってきた恐怖も綯交ぜになって、じわりと目が熱くなるのは止められなくて、視界がぐらぐら滲んでいく。
途端、視界が真っ暗に覆われた。一拍遅れて、綱吉さんの香り。数えきれないくらいに感じてきた体温に包まれて、留まっていたしずくが一筋こぼれ落ちていった。
「ごめん……瑠璃、ひとりにしてごめん」
怖かったよね。そう絞り出すように呟いて、強く抱きしめて。それからとびきり優しく髪を撫でつけてくれるから、一筋じゃ済まない涙が後から後からあふれてくる。熱い、喉が焼けるみたいに。でもね、違うの。綱吉さんは何も悪くないんだよ。ぜんぶ私が悪いの。
「……ゆるせなかった、の」
「……え?」
駆けつける足音――きっと後処理をしてくれるボンゴレの方々のそれを聞きながら、浅い呼吸をくり返す。すこし身体を離した綱吉さんが、まだ止まらない涙を指先で拭ってくれて。その髪や服装はずいぶんと乱れていて、心配かけちゃったよね、本当に。
嗚咽のあいまに、ゆっくりゆっくり言葉を絞り出していく。敵が綱吉さんの幻術で騙そうとしてきた事、許せなくてわざとついていった事、私じゃ何もできなかった事。綱吉さんの顔を見られないまま、どこか暗い声色の相槌を受けとりながら、ことの顛末を話した。
怒られちゃう、かな。あふれ続ける涙を拭おうと緩やかに手を持ち上げると、手首を掴み取られて。強く引かれて、そのまま綱吉さんの胸に飛びこんでしまった。
「ありがとう、オレのために怒ってくれて」
ひどく、優しい声色だった。暖かく包みこまれるみたいで、それなのに心を抉り取っていく。ずきずきと胸が痛んで、ことばを返せなかった。
こんなにも、こんなにも優しい綱吉さんを、私のつまらない意地で苦しませてしまったことが、苦しくて仕方ない。「ごめんなさい」と零すと、よりいっそう強く抱き寄せられた。
「ううん、瑠璃ちゃんの気持ちは嬉しい。これはね、本当」
「……綱吉さん、」
「それでも、オレは。瑠璃ちゃんが危ない目に遭うのが……何より、いちばん嫌なんだよ」
綱吉さんの声がだんだんと、弱々しく沈んでいく気がする。離したくなくて、離れたくなくて。その広い背中にゆっくり腕を回した。
「おねがい、瑠璃ちゃん。どこにもいかないで」
……綱吉さんは、きっと。いや、確実に。戦うことは好きじゃない。本当は拳を振るいたくなんかないはずで。それでも誰かを……自惚れじゃなくて、今みたいに私を守るために戦って、その力をつける鍛錬だって怠らない。
私だって力がほしいと、そう思ったことは一度や二度じゃなかった。けれどどうやったって、私は綱吉さんには到底及ばない。それは変えられないから。無茶に背伸びしないで、守ってもらわないといけない時だってある、んだよね。
どこまでも強く優しい私の大切なひとの、脆くて弱いこころは、私が守ってあげないといけない、と。守られることでそうしてあげないといけないのだと、そう思った。
「綱吉さん、……ごめんね」
ぎゅう、と腕に力を込める。抱きしめ返してくれる腕が、うれしくて心強くて、あたたかかった。
「……うん」
「守ってくれてありがとう、綱吉さん」
まだ短く返事をした綱吉さんの腕がゆるんで、視線が交わる。壊れてしまいそうにきれいな瞳。私を射抜きながら、「約束して」と綱吉さんが小指をそっと立てた。
「もう無理はしない、って」
絶対、は無いかもしれない。私だって、立派にボンゴレファミリーの一員でいたくて。ずっと背中に隠れていることはできないかもしれない。
それでも、もう綱吉さんにこんな顔をさせたくない。だからこそちゃんと、もっとまっすぐ向き合って、自分なりに強くなりたいと思うの。
「……うん、約束するね。もう無理はしません」
そっと小指を絡めると、強張った綱吉さんの表情がゆるむ。きゅ、としなやかで温かい指で握り込まれて、それから。柔らかくほどけた口元が、やっと弧を描いてくれた。
私の頬に残ったままの涙を拭う手は、やっぱり優しかった。
「帰ろっか、瑠璃ちゃん」
20201120