春のほころび


 ボス。ボンゴレ。デーチモ。十代目。沢田綱吉を指す呼び方はここ数年で瞬く間に増えて、オレ自身もそれらに違和感を抱くことがもうなくなりつつあった。

 そして。ダメツナ、と呼ばれなくなった。曲がりなりにも与えられた仕事はこなして、仲間を守るために奔走して、きっとまだ頼りないだろうけどドン・ボンゴレであろうとするオレを、ダメだと罵る人間はもうほとんど居やしなかった。マフィアのボスになりたかったかどうかはさておき、これでいいはずだった。昔のオレはずっとずっと、もうダメツナなんて呼ばれたくないと、そう思っていたから。


「オレはさぁ、」


 笑えてくるくらいに弱々しい声だった。脚を伸ばしてもはみ出さないような、やたらと大きなソファに身を横たえて、頭は恋人の腿の上を陣取って。髪を撫でられながら目を閉じているオレは、ひどく情けない姿なのだと思う。泣く子も黙るドン・ボンゴレが聞いて呆れる。


「ダメなんだよ」
「……うん、」
「ダメダメなんだって」


 だって、そうだろ。溢れ返るような仕事量、肩に乗った重すぎる責任。オレには力不足にもほどがある。本当は今すぐにだって逃げ出したい。こんなのできないよ、勘弁してくれよ、なんて昔みたいに喚いてやりたくて仕方がない。どれだけきちんとしているように見えたって、人間なんて中身はそうそう変わらないし、変えられない。少なくともオレは。

 ダメツナでいられた頃の自分が、オレはいま確かに恋しくて、それから羨ましいのだ。ダメでいることを許されて、たくさん言い訳ができて、人よりも下の立場でのんびりしていられたあの頃が。


「本当にさぁ、オレなんかの何処がボスらしいのか、全然わかんないんだよ」
「うん」
「仕方ないだろ、出来ないことがあっても。オレはダメダメのダメツナなんだよ、何年経ってもさ」


 止まらない自分への卑下に加えて、自嘲するような笑みがこぼれていく。そんな乾いた笑いを受け止める瑠璃ちゃんは――今どんな顔をしているのだろうか、と。もう何度だってこんなことを繰り返してきたのに、いまだに襲いくる不安になんとなく目を開けられなかった。


 時折、限界が来る。今日がその限界だった。ボスであろうとする自分とダメツナに甘える自分がひどい乖離を起こして、感情がぐちゃぐちゃに絡まってどうしようもなくなる。そんな時、オレを救ってくれるのはいつも瑠璃ちゃんだった。

 ずっとずっと格好を付けてきた。高校を卒業してからイタリアに来て、そこで出会った彼女は“ダメツナ”を知らない。だからリボーンが「こいつは中学の頃はダメツナって呼ばれててな」なんてバラしてくれた時はそれなりに怒ったし、出来ないことを出来ないと素直に言わずに見栄を張ったこと、知らないと言えないまま知ったかぶりをしたことも山ほどあって、だけど。
 抱え切れなくなった感情を取りこぼして、「オレってさ、やっぱりダメなんだよ」と情けなく自嘲めいた言葉を吐いた時、瑠璃ちゃんは「ダメでもいいよ」と、そっとオレの手を握ってくれた。「綱吉さん、いつもすごく頑張ってるから、たまにはダメでも構わないんだよ」なんて言って、笑って。

 ――たまにはダメでも構わない。胸の奥につっかえた塊が取れたような気がした。


「部下が慕ってくれるのは嬉しい。でもオレはそんな……そんな、慕われるような人間じゃなくて、だからなんにも返せない」


 うん、と返ってくる声は相も変わらず優しくて、誘われるように薄く目を開けた。そうして、ほんの少し安堵の息をつく。ぼんやりした視界に映る瑠璃ちゃんは、暖かな光を湛えた瞳をオレに向けてくれていた。やっぱり君はそうだよね、なんて安心と、どうしてオレなんかに、なんて一抹の不安と。けれど後者は、髪を撫でつけるちいさな手に洗い流されていく。


 たまにやってくる“限界”から脱するために、こんな風に愚痴をこぼして自分を貶してしまうことがあった。そのたびに、瑠璃ちゃんはこうして黙って聴いてくれる。
 頷くだけで肯定も否定もしなかった。「本当にダメな人だね」なんてことも言わない。それから、「そんなことないよ」とも絶対に言わなかった。それが有り難くて、暖かくて、涙が出るほど嬉しかった。だってオレは、オレ自身をダメだと言うことを許してほしいから。ダメツナで居られる時間が、まだ欲しいと少し思うから。

 絡まった糸をひとつずつ慎重にほどいて、綺麗に丁寧に並べていくような作業でもあるこの自嘲を、瑠璃ちゃんはすべて包み込んでくれる。だから、オレは。ダメツナであった自分も、ダメツナでいたい自分も、もうダメツナでいたくない自分も、全部の声に耳を傾けることができるんだよ。


「綱吉さん」
「……ん、」


 オレの言葉が途切れて少し、頃合いを見計らうように瑠璃ちゃんがオレを呼んだ。ぼうっとしていたせいで僅かに反応が遅れて、それでも目を開けた先、豪華な照明の逆光になった瑠璃ちゃんは優しく微笑んでいた。


「私、この時間が好きだよ」


 だから、大丈夫。そう続けられた言葉と、瑠璃ちゃんの細い指がオレの髪を梳く感触。上手く返事ができないオレをよそに、「私はね」と尚も柔らかい声音で瑠璃ちゃんは続ける。


「昔の綱吉さんを知らないの。ダメツナだったって言われてもピンと来なくて、リボーンさんに教えてもらうエピソードも、なんだか現実味がなかったりして」
「…………何聞いたの?」
「えっと、それはまた、別の機会に」


 ふふ、とどこかいたずらっぽく笑って、瑠璃ちゃんは指先をオレの頬に軽くすべらせていく。オレが同じように触れるとすぐ顔を赤くするくせに、たまにこんな包容力にも似た余裕をみせてくれるところが、オレは好きだったりなんかして。不安を見抜かれていた情けなさとか、きっと恥ずかしい自分の過去からは、とりあえず目を逸らしておくことにした。


「……ボスとしての綱吉さんばかり見てきたでしょ。だからね、私の知らない綱吉さんをちょっとずつ知ることができる、大切な時間なの」


 思わず目を見開くオレとゆるく視線を絡めて、瑠璃ちゃんはそっと睫毛を伏せる。


 ――お互い何も知らない彼女と出会ってからたくさん、お互いを知ってきた。時に暗闇を探り合うみたいに、時に柔らかく囁き合うみたいにしながら。そのたび、オレは瑠璃ちゃんを知れば知るほど傍にいたくなって、愛おしくなって、好きになって。だから何かが腑に落ちたような、そんな気持ちがじわりと広がっていく。

 たぶん、まだ瑠璃ちゃんはオレの全部を知らない。だから幻滅されるかもなんて、そんな弱々しい懸念はもちろん捨て切れない。……全部を知らないのはオレも一緒で、だけど。オレは瑠璃ちゃんをもっと知りたいと思って、きっとこれからだって知るほどに好きになって、幻滅なんてしないだろうと言えるから――瑠璃ちゃんも同じだって、思ってもいいのかもしれない。長く息を吐き出すオレの瞳を、瑠璃ちゃんはまたしっかりと見つめてくれる。


「それから……私、綱吉さんの支えになれてるんだなって、そう思えるから……すごく嬉しいんだよ」


 ……何言ってんだよ、今更。どれだけ君に支えられてると思ってんだよ。反射的に心がそう言ったけれど、口に出したら情けなくも泣いてしまいそうな気がした。受け止めるのに精一杯だった。きっと瑠璃ちゃんが精一杯の愛を込めてくれたのであろう、その言葉を。


「なんにも、不安にならなくていいからね。大丈夫だよ」


 熱い。喉の奥が焼けるみたいな感覚がせり上がってきて、声も出せないままきつく目を瞑った。唇を噛んでしまうと、またそっと瑠璃ちゃんはオレの髪を撫でつけはじめる。その感触が愛おしくて、目の縁に溜まり始めた涙があふれそうになる。なんとか堪えるみたいに息を止めて――瑠璃ちゃんはきっと気付いているのかもしれないけれど、見られたって揶揄われることも嫌われることも絶対にないけれど、そして今更かもしれないけれど。もう少しだけ、ほんの少しでも格好を付けていたくて、堰き止める。

 もうとっくに、格好なんかついていないんだろうなぁとは思う。でも。それでいいのかもしれないな。君の隣でくらい肩肘張らずに、ダメツナの日があったってさ。



20200331
「きみの表情企画」提出作品


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