これの続きです

しゃらん、と髪を飾るそれが涼やかな音色を奏でる。あの日、書庫で鬼灯と心を重ねあってからなまえの傍らで彼女を見守り寄り添うようになった簪は、着けているだけで胸がふわりと浮き立った。春の陽射しにくるまれたようにあたたかくなるそこを抱えて、なまえはやわい笑みを象る。
それを目ざとく見つけた友人が、つんつんとなまえのわき腹を小突きながら冷やかすような笑顔を向けた。


「あっ、ひとりでにやついて、どうせ鬼灯様のことでも考えてたんでしょ」
「!そそんなこと、」
「んー?」
「………」
「やっぱり図星だ」


鬼灯にはなまえと恋仲であることを隠す気はなかったらしく、想いを伝えあって以来こうして彼との関係をからかわれたのは初めてではない。
周囲から慕われ、彼に想いを寄せている女性が多いこともあり風当たりも強いだろうと考えていたのだが、実のところなまえとの交際を厭う者はあまりいないようだ。
むしろようやく彼が腰を落ち着けたことに安堵している獄卒が大半を占めており、閻魔大王など恋人が出来たことで鬼灯が丸くなるのを期待しているらしい。
いくら希望を持たれてもなまえに彼の突飛な行動を止める器量はないのだけれど、鬼灯の隣を許されつつあることはとても嬉しく思う。

一度引き締めた頬が情けなくもゆるんでしまうのを止められずにいるなまえを見て、友人は茶化すような笑みを一層深めたのだった。



彼女との昼食を終え、執務室に戻ったなまえは鬼灯と並んで午後の業務に取りかかっていた。勤務中とはいえふたりきりの空間にいやでも持ち上がってしまう口角を俯いて隠しながら、ゆるやかな幸せに浸る。
交わす言葉は色気のないものばかりだけれど、傍らにいられるだけで幸福が胸を満たしてしまう。

時折ちらりと鬼灯を盗み見しながら仕事をこなしていると、同じく黙々と作業に徹していた彼がその手を止めずに口を開いた。


「そういえば明日のことですけど」
「あ、鬼灯様久しぶりのお休みなんですよね。しっかり休んで下さいね」
「そのことなんですが、貴女の分も取っておきましたよ」
「…え?」
「2人でどこか出かけましょう」
「……」


さらりと告げられた休暇と思わぬお誘いになまえは書類を整理していた手を止め、まぶたをまたたかせる。
鬼灯が不思議そうになまえの顔をのぞきこむ中で、彼女の頭によぎった職権乱用という単語。滅多に有給など使わないなまえが素直に休暇を取るとは思えなかったのか、勝手に提出された申請書を目の前でひらりと泳がされるのを目にして、彼女の思考はゆっくりと巡り始めた。

活動を再開した頭が描き出したのは鬼灯と恋人になったあの出来事。自ら望んだこととはいえ、仕掛けられた彼の策略にまんまとはまってしまったことを思い起こしなまえは人知れずため息をこぼす。
いささか強引な手に出るのは変わらないな、と呆れと慈しみの交じった苦笑を形づくると、鬼灯は小さく首を傾げた。


「いつも残業を手伝ってもらっているのでご褒美も兼ねてどうかと思ったんですけど…嫌でしたか?」
「嫌だって言ったらどうします?」
「そうですね…その気にさせます」


どこか艶をふくんだ声色が耳をなぶり、あえかに目を細めた鬼灯に指の背で甘く頬を撫でられる。その恋人としての仕草になまえの肌はほのかな桜色に染まっていった。
勤務中特有のぴりっと張りつめた空気が一瞬であまやかなものをはらむのを感じ、なまえの心臓は簡単に高鳴ってしまう。
喉元に込み上げた文句もなまえをいとおしむように往復する彼の指に萎んでしまい、彼女は降参するように首をすくめた。


「その気になりました?」
「……なりました。悔しいですけど、明日がすごく楽しみです」
「それは良かったです」


彼の手にかかればなまえなどたやすく陥落してしまうのだ。それを知っていて、多少荒っぽい手を使ってもなまえが許してくれる事実に甘えて鬼灯がこうした手段を取ることを、彼女もまた知っている。
瞳をからめあい名残惜しそうに離れていく鬼灯の感触を追いながら、なまえは明日を想ってやわらかく笑んだ。





普段身につける着物より上質な布地のそれをまとい、なまえは賑々しい通りを歩む。仲睦まじく腕をからませる恋人たちとすれ違い、人知れず唇をゆるませたなまえはつい先日のことを想起した。

なまえも鬼灯も寮住まいなので閻魔寮から共に行けばよかったのだけれど、それでは情緒がないだろうと指定された待ち合わせ場所。
合理主義者である彼にそんなことを言われて虚を突かれたのも束の間、次いでぽつりと落とされた一言を思い起こして頬が熱を帯びる。

―「"そわそわしながら恋人を待ったり、相手を人混みの中から見つけたり…そんな恋人らしい行為に憧れている"のでしょう?」

なまえが以前何の気なしにこぼした科白をそのまま復唱されて、たまらなく気恥ずかしくなると同時に鬼灯に注がれるいびつな愛のかたちに心臓が大きく跳ねてしまった。

甦る記憶に胸の内側がくすぐられ、逸る気持ちに急かされてたどり着いたそこで深呼吸を繰り返す。なまえは華やぐ心を抑えつつそっと前髪に指先を通した。


思えば鬼灯と恋人らしく逢い引きなどしたことがない。鬼灯は休日も返上して職務に打ち込んでいたし、居残って仕事をこなす彼を手伝いつつ談笑するあの時間もなまえにはかけがえのないものだったからだ。
大半はあのいとしい静寂の中の逢瀬で満足してしまい、わざわざ休暇を取って出かけるほどのこともないだろうと思っていた。

しかしこうして鬼灯の姿を探しながら彼を待っていると、落ち着かないけれど心には甘い幸福が芽ぐむ。
ほどけてしまいそうになる唇を引き締めながら、おかしなところはないだろうかと肩越しに背中を振り返り結んだ帯をちょいちょいと引っ張ってみる。

少女のように浮ついている自分を認めてまた気恥ずかしくなり頬を押さえていると、唐突に降りかかった声になまえは身体を跳ねあげた。


「なまえさん」
「鬼灯様!?お驚かせないで下さいよ…!」
「すみません。挙動不審な貴女を見るのが愉しかったものでつい見惚れていました」
「み見てたんですかっ!?」


察しのいい彼のことだ、きっとなまえの浮き足立った思考など見透かされていたのだろう。
ひとり胸をときめかせるなまえのどこを気に入ったのか理解に苦しむけれど、やはり鬼灯は意地が悪いということを改めて認識しつつ気を取り直すようにこほん、と咳払いする。


「それで、今日はどこに行くんですか?」
「ああ、その前に……なまえさん、その着物よく似合ってますよ」
「えっ」
「簪も」
「………」


いとおしさと慈しみと、慶福と。
そんなぬくもりに満ちた心に蕩けさせた眼差しでなまえを見つめ、優しく簪に触れるものだから一旦は引いた火照りがじんわりと息を吹き返してしまう。

だんだんと彼女の頬を色濃く彩る赤に淡く瞳を細めた鬼灯は、恥じらうように俯くなまえの手をそっと取った。彼の手のひらの中でぴくりとふるえたその指先の緊張をほぐすようにやんわりと包み込む。
やがて強ばっていた指が溶けると、鬼灯は先導するように歩きだした。


「なまえさんはどこに行きたいですか?」
「え?ええと………鬼灯様、どこに行くか考えてなかったんですか?」
「ある程度は頭にありますけど、やはり恋人のわがままは叶えてあげたいじゃないですか」
「そ、そういうものですか…?」


行きたいところ、と言われても少し困る。

なまえにとっては鬼灯の隣で取るに足らない言葉を交換して、やわらかな熱をはらんだ瞳でお互いを見交わして。ぬくもりを確かめあうように手を重ねあわせることが出来れば、それで十分すぎるほど幸せなのだから。

彼から与えられる想いにあふれそうになるいとおしさを内側に留めておくのが精一杯で、恋しいひとの他に何かを想う余裕などない。
結局のところなまえは鬼灯の傍にいられたら他に何も望まないのだ。

鬼灯によって雁字搦めに囚われた心を自覚して、なまえは穏やかなあたたかさとあまやかな熱情の間に揺らぐ想いを抱えて口を開いた。


「私は鬼灯様といられるのならそれでいいんです。貴方の隣で笑えることが、一番のわがままだと思います」
「…なまえさんの隣を求めているのは私も同じことです。それはわがままではありませんよ」
「そう、ですか?難しいですね……」
「まぁいいです。次までに考えておいて下さい」
「次…」


またいつか、こうしてふたり肩を並べて街を歩けるんだ、と胸にこぼれた思考にゆるゆると頬がほぐれていく。

鬼灯との合間に優しく降り積もっていく想いのかけらをひとつひとつ拾い上げて、大切に胸へとしまい込む。彼への恋心が羽化してもっとなまえを欲張りにさせたその時は、わがままを言ってみよう。
そう思いを巡らせながら繋いだその体温を手放さないよう、きゅっと力を込めた。


prev next