喧騒に満たされる店内から隔離されたように格子で遮られた席はひどく居心地が良い。きゅっと飲み込んだそれに喉元が心地よい熱に包まれ、全身へと巡っていく。
百薬の長とはよく言ったもので、疲れが蓄積した身体には薬より何より程良い量の酒が一番効くのだ。
女らしくないことなどなまえ自身よく知っているし、一人酒なんて寂しいものだけれど他人に気を使うことなく存分に個人の時間を楽しめるのだからそれもまた良い。

そう、一人だった。無遠慮に腰へと手を回すこの調子のいい神獣様が、つい先刻現れるまでは。


「ちょっと白澤様、くっつきすぎです離れて下さい」
「いやだよ〜、久しぶりになまえちゃんに会ったんだもん」
「この前店に行ったじゃないですか!」
「薬買って早々帰っちゃったじゃん、あんなの会ったうちに入らないよ」
「だから近いです!」


腰に回されていた筈の腕は縋りつくようになまえの着物を握りしめ、ぎゅうぎゅうと抱きしめられる形に変わっていた。

甘えるように鼻先を腰骨あたりにすり付ける白澤はどうやら相当酔いが回っているらしい。
こんなにだらしがないのに万物に精通し崇められるべき神の獣だというのだから世も末だ。しかし彼が調合した漢方薬は本当によく効く。二日酔いでぐらぐらと揺れる景色は一変するし、鉛を抱えたようだった身体も羽のように軽くなるのだから。

この軽薄ささえ治してくれたら女性だって掃いて捨てるほど寄って来るだろうに、とため息をこぼして腰元に埋まる彼の頭をぽんぽんとあやすように撫でた。


「うふふ〜なまえちゃんだー」
「うふふじゃないですよ、しゃんとして下さい」
「んー…だってなまえちゃんがひとり寂しくお酒飲んでたからさあ、僕が一緒に飲んであげようと思って」
「話繋がってないですし寂しくなんてありませんでしたよ」
「うっそだー」
「本当ですー」


酔っぱらった人の相手をするのは嫌いじゃないが、白澤の場合からんでくるから厄介だ。
上手く丸め込まれないようにしなければと固く誓ったその時、腰からなまえの太股になだれ込んでいた白澤がむくりと起きあがった。

少しは酔いがさめたのだろうかと首を傾げると、再び腰に触れた彼の手。するすると撫でるようにまとわりつくそれの仕草が妙に艶をふくんでいて、ざわりと神経をなぶる。どこか誘うような、色気をまとった手つき。
むずむずと落ち着かなくさせるそれに耐えきれずに、なまえは叱りつけるような声をあげる。


「白澤様、いい加減にしないと烏天狗警察呼びますよ」
「なまえちゃん不足だからちょっと触ってるだけだよー」
「や、やめて下さいって」
「あ、耳赤いよ?かわいふぐっ」
「あ」


やわらかな髪の隙間からのぞくなまえの耳がほんのりと紅に色づいているのを認め、彼が嬉しそうに笑みを象ったのもつかの間。どこからか飛んできた升の角が白澤の鼻に綺麗に直撃したのをなまえは見逃さなかった。
彼の腕から解放され、畳に倒れ込んだ白澤にほっと胸をなで下ろし熱くなった耳を冷まそうと指先でさする。

隅に転がっていった木升を投げた人物は十中八九彼だろう。白澤とは犬猿の仲、天敵とも呼べるなまえの上司だ。
白澤を足蹴にしてどっかりとなまえの隣を陣取った鬼灯に頭を下げつつ肩をすくめる。


「すみません、助かりました鬼灯様」
「離れた席にいたので気づくのが遅れて申し訳ありませんでした」
「いえそんな……ああ、鼻血出てる」
「放っておけばいいんですよそんな白豚」
「……本当に嫌いなんですねぇ…」
「少し琴線をぶち切られたもので」
「?」


鬼灯の足によって転がされ、顔面を露わにした白澤は形のよい鼻から赤黒い血液をあふれさせていた。拭いてやろうと腰をあげると鬼灯に手を引かれて止められ、苦笑をもらしながら酒盛りを再開する。

白澤とは違いまだまだ素面らしい鬼灯に透き通るような酒を注ぎ、なまえもグラスの底にたゆたう琥珀色を呷った。


「相変わらずいい飲みっぷりですね」
「す、すみません女らしくなくて……」
「いいえ、私は好きですけど」
「へ?」
「なまえさんと酒を飲み交わすことが、ですよ」
「そ、そうですか?それはよかったです」


すき、だなんて言葉が彼の口から飛び出すとは思ってもみなかったなまえは、それが仕事仲間として向けられたものでも何故だか気恥ずかしくなってしまう。鬼灯は時折こうして心臓に悪いことも平気で言葉につむいでしまうから油断ならない。

耳にくすぐったいそれを受け流すことに必死なこちらの身にもなってほしいものだ。


「なまえさんはよく一人で酒を飲むんですか?」
「はい、落ち着くので」
「そうですか。言って下されば付き合いますよ」
「え?そんな、いいですよ、鬼灯様だって一人になりたい時もあるでしょうし」
「おや、私は構いませんよ。…それとも、私とこうしていると落ち着きませんか?」


肩を並べて酒を口に運んでいた手を止め、ゆるく背を曲げた鬼灯に囁かれた科白。
耳に吹き込むように落とされた音に肩をぴくんと跳ねさせると、かすかに熱を持った虹彩と視線がぶつかった。

素面だと思っていた鬼灯も案外酔っていたのかもしれないと半ば強引に結論付け、彼の呼気からほのかなアルコールのにおいを感じるほどに近づいた距離を離そうと身をよじる。


「や、やだなぁ鬼灯様も酔うことあるんですね」
「酔っているように見えます?」
「…見えます」
「そうですか」
「……」
「なまえさんって」
「はい?」
「耳弱いんですね」
「えっ」


ふっと忍び笑うような吐息が耳をかすめ、そこに火がついたように熱くなる。
なまえの弱みともいえる箇所に感づかれたことに動揺を覚える前に、鬼灯の低くひそめた声が耳をなぞるように這うその感覚に思考を奪われる。
背筋を舐るように弄ぶ声音になまえはぎゅっと目をつむった。

しかし五感すべてを浸食されてしまう前に視界だけは守ろうとしたその行動は、結果を言えば更に自身を追いつめることになったのだ。無様に沈んでいた筈の彼が目を覚ましたことによって。


「あと腰も割りと弱点だよね」
「!」
「…もう少し寝てくれていてもよかったんですけど」
「みすみすなまえちゃんを渡してたまるかよ」
「ふ、二人とも私はおもちゃじゃないんですけど…!」
「ごめんごめん、かわいいからつい」
「…っ」
「そうですね、なまえさんが玩具なら……存分に可愛がってあげますよ」


鬼灯が位置取る反対側の隣に座った白澤もささめくような声でなまえをいじめるものだから、彼女の羞恥は限界に達しようとしていた。

こうなることがわかっていれば鬼灯にも白澤にも隣を許したりしなかったのにと後悔しつつ、二人を押し退けようとしてもすっかり力の入らなくなった身体では彼らに敵う訳もなく。
鬼灯たちから注がれる心さえも揺さぶる響きをはらんだ声に翻弄され、なまえは困り果てたようにため息をこぼしたのだった。


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