束ねた書類を胸に、彼……なまえの憧れの的である鬼灯の執務室へと向かう道すがら、頬がほのかに熱を帯びていくのを感じていた。
いつもの癖が出てしまった、と反省しつつ、もはや病いといっても過言でないそれにため息をつく。きっと今なまえの顔には、彼が好む金魚の花にも負けず劣らずの赤みが差していることだろう。
敬愛している鬼灯と言葉を交わすのだと思うとどうしても身体が強ばってしまい、頬がのぼせあがったように熱くなる。
こんな時にふと思い起こすのは幼い頃負った心の傷だった。

輪になった同級生たちに赤らんだ顔を面白おかしくからかわれたのは十にも満たない頃のこと。なまえを囲む彼らの笑い声が耳にぐらぐらと反響し、指をさされ揶揄されたのを鮮明に覚えている。
元々消極的な性質で、それがあっての赤面症だったのだろうけれど、自分に自信が持てなくなった元凶はあの時のことにあるのだと思う。

子供がしたことだと今では笑い話に出来るが、自分自身を卑下してしまうこの性格はなかなか治らなかった。
だから尚のこと、己を強く持ち自分の意見を主張出来る鬼灯に憧れを抱いていた。すっと芯の通った言動とそれに伴う能力が備わっている彼を慕うのは当然のことだった。
―「恋してるみたいだね」
彼を思い浮かべながら、いつか友人に言われた言葉が頭をよぎる。なまえが鬼灯を見る瞳が恋をする少女のそれだと指摘された場面を追想して、とくん、と心音が跳ねるのを聞いた。


「な、何考えてるんだろう私ったら…」


彼に対する想いは敬愛であって崇敬にも似たそれで、恋愛感情などでは決してない。恐れ多いにも程がある、とふるふると首を横に振ってくだらない思考を振り払う。
そうしてたどり着いた重厚な扉を見上げると、深く呼吸を繰り返して部屋の主を訪ねた。


「はい、どうぞ」
「し、失礼します…!」


なまえが所属する部署から召喚されることも多く、彼と会話を交わすのは初めてではないけれどやはり緊張してしまう。
友人には恋心を寄せているように見えるほど焦がれる相手なのだから当然だ。震える声を振り絞りぺこりと頭を下げると、右手足が同時に出てしまいそうになりながらぎこちない動きで彼の元へと歩み寄った。


「報告書と、部署内で実施した調査の結果をまとめたものです」
「ありがとうございます。今回も綺麗にまとめられていますね」
「あっありがとうございます…!」
「なまえさんはわかりやすく仕上げてくれるので助かります」
「そ、そんなこと……光栄です…」


面と向かって成果を褒められ、気恥ずかしくなりつつも誇らしさを覚えてゆるんでしまう頬が止められない。憧れを一心に寄せている鬼灯に努力を認められることは、なまえにとって計り知れないほどの慶福だった。心に満ちあふれる喜びが熱を引き連れて顔に現れるのも仕方のないことだ。

じんわりと熱くなる頬に俯いてしまったなまえに気がつくと、鬼灯は身を預けていた椅子から立ち上がる。
つま先を見つめていた視界に彼の肌色が映り込むのを認めると、彼女は慌てて口を開いた。


「あ、あのすみません、私今情けない顔をしているので出来れば近づかない頂きたいのですけど………!」
「情けない?貴女のその赤みは、少し正直すぎるだけですよ」
「え…鬼灯様……?」


降り注いだ言葉に思わず顔をあげてしまうと、存外やわらかな色をはらんだ虹彩と視線がからんでまた頬が温度をあげる。
いち平獄卒の仕様のない悩みなど彼が知るはずもないのに、なまえの心情すら理解し切ったように与えてくれた低い声音。まぶたをまたたかせるなまえに鬼灯は肩をすくめた。


「まぁ、他人から向けられる眼差しには敏い方ですので」
「!じゃ、じゃあ私が鬼灯様に、その…憧れているのも……」
「そうですね、私が貴女を気にかけるようになったのもなまえさんの熱い眼差しのおかげですし」
「……!!は恥ずかしい……」


悟られないよう心がけていても彼にはすべて見透かされていたらしい。こっそり送ったつもりの眼差しを当の本人には筒抜けだったことに羞恥を感じながら、はたと思い至る。
今彼は気にかけるようになったと言わなかっただろうか。
頬に両手を押し当てたままそろりと鬼灯を見上げると、呆れと、思い違いでなければ慈しみのような色が交じった瞳で見つめられた。


「なまえさんの方は鈍いようですけど」
「え…それってつまり……?」
「私にも貴女が目に止まるようになったということです。試しになまえさんへ仕事を依頼したらとても優秀なことがわかりましたし」
「…鬼灯様」
「貴女はコンプレックスにも負けない、努力家で素敵な女性だと思いますよ」
「!」
「ですからあまり俯かずに自信を持って下さいね」


心が震えるのを感じながら、じわりとわきあがる涙を押しやるように何度も頷く。雲の上の存在だと思っていた鬼灯が、決して手が届かないひとだと思っていた彼がなまえに優しささえにじむ言葉をかけてくれている。
それがどうしようもなく彼女の心を熱くさせ、身体の底の方からじりじりとこみ上げる感情の波を抑えるのに必死だった。
同時にきゅっと甘く鳴る胸に首を傾げながら、なまえは唇に微笑みを乗せた。


「私、もっとがんばりますね!いつか赤面症も克服出来るように…」
「頑張りすぎは禁物ですよ」
「はい」


気合いを入れるように握られた彼女の小さな握り拳を微笑ましく思いながら未だ紅に色づいた頬を見やり、鬼灯は眉をひそめた。トラウマがあるということは、なまえのあたたかな心に傷を残すことになった記憶が存在するということだ。
今も根深く蔓延るそれを忌々しく思い、鬼灯はそっと彼女の円やかな頬に指先を這わせた。
彼女を見つめるうち、鬼灯の胸に芽吹いたのはまだいとけない恋情のような甘いもの。それはなまえを苦しめる記憶を取り除いてやりたいと思うには充分すぎる想いだった。

火照りを帯びたそこをゆるゆると往復する彼の指先に支配され、なまえはあどけなくまばたきを増やす。


「克服まで至るかはわかりませんが」
「鬼灯様?」
「他人との記憶など、私との思い出に塗りかえてしまいなさい」
「え、」


そう囁いた鬼灯の声音には真摯な響きがふくまれていて、なまえは時が止まったように彼を見上げた。
彼女の瞳をからめとった鬼灯はおもむろに背を丸め、頬をいたわるように唇を触れさせる。ふんわりと口づけられたそこが焔で炙られたように熱くなるのを感じた。

早鐘を打つ心臓とゆっくりと離れていく鬼灯が脳を痺れさせ、なまえは呆然と彼を仰ぐことしか出来ない。
それでも何とか汲み取ることが出来たのは、これから先、頬が紅潮した際に甦る記憶は鬼灯の指の硬い感触と、綿羽のようなやわらかさを持った熱なのだろうということ。

ますます悪化してしまいそうな頬の赤みと新たに加わった動悸という症状を抱え、なまえを一途に映す濡羽色を見つめた。


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