今日は久しぶりに取れた非番の日。羽を休めようと足を伸ばしたのは天国にある高天原デパートだった。 地獄からでは如何せん行き来に時間がかかるので、休日でないとなかなか訪れることが出来ない場所のひとつだ。 色々な国から取り寄せられた商品を目を輝かせながら眺めていると、聞き覚えのある低い声音が鼓膜を揺すった。 「こんにちは、なまえさん。奇遇ですね」 「鬼灯様!鬼灯様もお買い物ですか?」 いつの間にか背後に立っていたのは、冷涼な瞳をなまえに寄せ、相変わらずの仏頂面を彼女に向ける鬼灯だった。 彼はなまえの憧れでもある人物だ。鬼灯が補佐官としての仕事を全うしているから今の地獄があるのだと言っても過言ではないと思うくらいには、彼はなまえの憧憬の的だった。 そんな鬼灯の直属の部下に就くことができたのはなまえの誇りであり、いつか彼のように、完璧に仕事をこなしたいと常に同僚にもらしていた。 「私も色々と見て回りたいと思っていたんです。なまえさんが良ければ一緒にどうですか」 「え?いいんですか?わぁ、嬉しいです!」 ぱあっと表情に光が差したなまえをかすかにやわらいだ眼差しで見つめた鬼灯は、先導するように彼女の手を取った。唐突に重ねあわされたぬくもりにほんのりと頬を赤らめたなまえは、とぎまぎとしながらも大人しく鬼灯に従う。 とくん、と甘やかに音を立てた心音は、何かの始まりを予感させるものだった。 きゅっと握られた手のひらの感触に奪われた意識の中では、この日、同じ部署では合わせにくい非番が偶然被ることが果たしてあるのかという懸念や、仮にあったとしてもこの広い世界で偶然同じ時間、同じ場所に居合わせることが"奇遇"という言葉で済ませられる確率を有しているのかという疑念など、なまえには至らない所にあったのだ。 そして、なまえを見つめるその視線にどんな種類の熱がふくまれているのかも。 * 「ねえなまえ、その簪素敵ね!」 「あ、こ、これ?うん…お気に入りなんだ」 「…ふうん…?もしかして誰かからの贈り物?」 同僚が指を指した簪に優しく触れたなまえは、そのすべらかな表面を感じ取ると途端に頬を桜色に染め上げていく。 そわそわと落ち着きなく髪を撫でつけるなまえの様子に合点がいったように探りを入れる友人に、一際頬に熱が集まった。 彼女の察しの通り、この漆塗りの簪は鬼灯から贈られた物だ。 あの休日の日、これに吸い寄せられるように目が離せなかったなまえを見て、横からひょいと手を出した鬼灯はそのまま店主にお金を払ってしまったのだ。 何の言葉もない素っ気ない贈り方だったけれど、そういうところが彼らしいと微笑んでしまって。返そうにも既に店を出た後だったので代金だけでも、と財布を取り出したなまえをなだめるように、鬼灯は彼女の耳元で囁いたのだ。 男に恥をかかせるものではありませんよ、と。 秘めごとのようなその科白に心臓は鼓動を速めるし、顔は火がついたように熱くなってしまうしで、なまえは内心てんやわんやだった。 あれ以来、この簪を身につけるなまえを見る鬼灯の虹彩に甘いなにかが宿っている気がしてならない。 自意識過剰だろうか、と両頬を冷まそうと手を当てるなまえの隣の椅子が突然引かれた。 「隣、よろしいですか?」 「!!」 「鬼灯様!どうぞどうぞ!」 ちゃっかり席を進める同僚をよそに、思考を占めていた当人が現れるとは露ほども思っていなかったなまえははくはくと口を開閉させ、声を出すことすらままならずに鬼灯を見上げる。 そんななまえへわずかに首を傾げた鬼灯はゆっくりと手を伸ばした。 思わずきゅっと目を瞑ってしまったなまえの頭で、簪の飾りがしゃらんとあでやかに音を奏でる。 「私の見立て通り、よく似合っていますよ」 「ほ、鬼灯様」 「え…まさかそれ鬼灯様から!?なまえったらいつの間に玉の輿狙ってたの!?」 「な、何言ってるの!?そんなんじゃないってば!」 食堂中に響き渡る声で叫ぶ彼女の口を塞ごうと慌てて立ち上がるけれど、時既に遅し。 ちょうど昼時ということもあってたくさんの獄卒たちが利用する食堂内の視線を独り占めにしてしまったなまえは、中途半端に浮かせていた腰をすとんと落ち着け、いたたまれないやら恥ずかしいやらで耳の先まで林檎のように真っ赤にしながら俯いた。 鬼灯だってそういう意味で贈った訳では決してないだろうに、彼に嫌な思いをさせてしまったのではないだろうか。 こんなことなら浮かれて着けてくるんじゃなかった、とじわりと涙でにじむ視界をどうにか瞬きでやり過ごそうとしていると、鬼灯がつぐんでいた口を開いた。 「なまえさん、後で頼みたい仕事があるので執務室に来てください」 「あ、はい…」 「では私はこれで」 ちらりと鬼灯をうかがっても、1度もなまえを見ることなく去って行く彼の背を追う。 にべもなく踵を返した鬼灯に、つきんと胸の奥が痛むのは何故だろう。否定はされなかったけれど、なまえには喜んでいいのか分かりかねることだった。単に面倒だっただけかも知れないのだ。 重たいため息を吐き出すと、不思議そうに鬼灯を見やった同僚が首を傾げた。 「鬼灯様、ご飯食べに来たんじゃなかったんだね」 「え?あ、そういえば…」 「それにこの時間に食堂に来るの珍しくない?何しに来たんだろう…」 言われてみればそうだ。鬼灯はいつも仕事が立て込んでいて、普段はもう少し遅い時間に昼食を取る。今日は早く終わったのかとも思ったのだが、飯を頼むことなく帰ってしまった。 まるで偶然通りかかった食堂に所用の人物がいたから、…なまえと、友人が揃っていたから足を踏み入れたような。そんな気がしてらならなかった。 なまえに仕事を頼むためだけに訪れたのか、それとも… 未だささめきあう周囲に視線を巡らせ、まさかね、と肩をすくめる。 まさか簪を贈ったのが自分だと知らしめるために、だとかそんなことを思って、くだらない思考を振り払うように首を横に振った。 * 言われた通り鬼灯の執務室に赴いたなまえは、こんこん、と重厚な扉をノックする。 いつもなら直ぐに返事があるのだが、しんと静まり返った扉の向こう側に小さく首を傾ぐ。 「いないのかな…」 「あ、なまえちゃん。鬼灯君に用事?」 「はい、どこかへ行ってしまわれたんでしょうか」 「今日の裁判で使った巻物を戻しに行くって言ってたから、書庫じゃないかなぁ……って鬼灯君、一巻き忘れてるよ」 タイミングが悪かったな、と思っていると、閻魔が裁判所の隅に転がっていた巻物を拾い上げた。どうやらひとつ忘れていってしまったようだ。 隙のない彼にしては珍しいミスだ。今日の仕事は粗方終わらせたし、どうせなら届けてしまおうと閻魔の手からその忘れ物を受け取る。 それに触れた瞬間、言い表せないなにかがざわりと胸をよぎり、眉を寄せる。なにか、誘われているような。 根拠のない予感に胸を震わせながら、書庫への道をたどる。 「…鬼灯様…?」 そろり、と顔をのぞかせて中の様子をうかがうが、ほの暗い書庫は見通しがききにくく鬼灯の姿を認めることは出来なかった。 とりあえず取り残されてしまった巻物を片付けようと暗がりの中に一歩踏み出す。 判決を下すのに使われる様々な資料が詰め込まれた本棚はどこか埃っぽく、今度掃除でもしようかと考えながら巻物を戻した。 鬼灯は、奥の棚だろうか。 ここからでは死角になって目の届かない奥部へと足を進めたその時だった。本棚の影からにゅっと伸びた何かに腕を掴まれたかと思えば、そのまま背後の壁に身体を押さえつけられる。 「きゃ…!?な、何、」 「…私ですよ」 「ほ鬼灯様…?いらっしゃったんですね…!」 鬼灯はなまえの言葉には答えずに、するり、と彼女の細い腕に手を這わせていく。 腕を肩より少し高い位置に押しつけられたおかげで袖が落ち、露わになった素肌をなぞるぬくもりがじわり、じわりと生々しくなまえを侵食していった。 飛んで火に入る夏の虫。ふと広く知られた諺が頭をよぎる。さながらなまえは篝火の光に誘われてしまった哀れな虫といったところだろうか。 いや、それも望んだことだったとしたら、虫にとっては存外幸せなことなのかも知れない。 「貴女も鈍い訳ではないでしょうに…それとも誘いに乗ってくださったと思って良いのでしょうか」 「……、」 鬼灯は彼女の手を縫いとめるようにゆるゆると指先をからめ、そっと顔を近づける。 ああ、あの甘い予感も考えも、ただの杞憂ではなかったのだ。 良かった。 心の底からそう思って、隙間をなくしていくように近づいていくふたりの距離と、唇をついばむやわらかな感触に溺れようとなまえはゆっくりとまぶたを伏せた。 |