これの続きです

眼前が真っ白に塗り変えられたかと思えば、身体を突き抜ける強い衝撃に視界が目まぐるしく反転する。ひしゃげた紙屑のように宙を舞ったなまえは、地面に激しく叩きつけられて成す術もなく倒れ込んだ。
網膜に焼き付く強烈な白光はちかちかと尾を引き、暫く訳もわからずにまばたきを繰り返す。なまえを取り巻く悲鳴と怒号に満ちた空気にようやく我に返った彼女は、緩慢な動作で身を起こしてぽつりと呟いた。


「…そっか、死んじゃったんだ」


羽のように軽い身体は透け、連なる家々の薄明かりが見通せた。視線を下に落とすと真っ先に視界へと飛び込んできたなまえの肉体だったものは、赤黒い水たまりに沈んでいる。

―ですからどうか……早く死んでください
自身の死を脳が認識して、いち早く浮かんだのは両親のことでも友人の顔でもなく。
いつか出会ったあの、人ではない"ひと"が別れ際に囁いた言葉と耳に触れた甘い熱だった。
不思議なことに、命を終えたことに対して後悔も恐怖も感じなかった。ただ胸にこぼれた想いは両親に会えるかもしれないという期待と、出来ることならあの時の彼に再び相見えたいという願いだった。
何故心に彼の存在がふっと浮かび上がったのかはわからない。けれどあのなまえを見つめる濡れた黒曜石が、耳元に名残りを残すやわい感触が、彼女を捕らえて離さなかった。





慣れない和装に落ち着かず、身にまとう白に困惑していたなまえも裁判所を出る頃には平静を取り戻していた。
精悍な容貌をした裁判官らしき人物には圧倒されたものの、やはり恐怖を感じることはなかった。未だ身の置かれた状況を把握し切れず、裁判所内の仰々しい造りや馴染みのない装飾に目を奪われる中で彼女は自身のたどってきた人生を追想し、下された判決を受け入れたのだった。

品行方正をくずさず過ごしたおかげで天国行きが決まったことは良いのだが、その前にどうしても両親と、"彼"にひと目会っておきたかった。罰を受けることなく無罪を言い渡されたことに胸を撫で下ろすよりも、なまえの心にはその強い想いが宿っていた。
しかしそのどちらもすぐには叶いそうにない。

なまえの脇につく鬼らしきひとをちらりと見上げ、その旨を訊ねてみようかと口を開いたその時だった。視界の隅をひらりと泳ぐ墨色の袖に、なまえは目を丸めて思わず声をもらす。


「あ…あの時の……!」
「貴女は……お久しぶりですね」
「は、はい、お久しぶりです……」
「…少し話しませんか?」
「あっはい」


なまえを見て瞬きを増やした彼は思案するように顎へ手をやると、なまえに向かって静かに手を差し伸べた。
何処となく有無を言わせない雰囲気を漂わせる彼に思わず頷けば、彼は片手をあげて傍らに控えていた獄卒を下がらせた。そうしてなまえの歩調に合わせ、ゆったりと歩を進め始める。


「そういえば名乗っていませんでしたね。私は鬼灯といいます」
「あ、私……」
「なまえさんでしょう、覚えていますよ」
「………」


数ヶ月ほど前に少し言葉を交わしたきり顔を合わせることすらなかったのに、なまえを頭の片隅にでも置いてくれていたことを嬉しく感じ、胸元を撫でるようなむずがゆさに首をすくめる。

面はゆそうに身を縮めてかしこまった彼女を見つめた鬼灯はかすかに瞳を細めた。
あの一刻にも満たない邂逅で興味を惹かれた彼女のことを忘れるはずもない。
恐怖をおくびにも出さずあまつさえ鬼灯に心を砕いてくれたこと、憂いを帯びて揺らめくその虹彩も、鬼灯の心に色濃く焼き付いていた。
物思いにふける鬼灯を現実へと引き戻すように、いささか緊張した面持ちをのぞかせたなまえが問いかける。


「あの、私両親に会ってみたいんですけど…会えるんでしょうか」
「……そうですね、望めば会えますよ。ですがその前に少し付き合ってもらえませんか?」
「どこにですか?」
「それは着くまでのお楽しみです」
「?」


仏頂面に飾られた表情を変えることはなかったけれど、どこか愉しげな空気をにじませた彼はそっとなまえの手を取った。重なりあった肌から芽吹く熱はあの口づけを思い起こし、きゅっと胸が鳴る。不具合が起きたように速度をあげていく心臓を抱えるそこは途端に賑やかになり、なまえは弱ったように眉を下げた。
なまえは自身の頬を彩る紅色に気がつくことなく、導くように先を歩く鬼灯の背を見上げたのだった。


甘く春めいた予感に心音を高鳴らせながら彼に連れて行かれたのは、ものものしい気配と鉄のような生々しいにおいの漂う場所で。裁判で咎人と判断された者を呵責する刑場なのだと説く鬼灯を横目に、なまえは初めて目にする光景に呆気にとられていた。
地獄というのだから平穏な空間が広がっているとは思わなかったけれど、亡者の叫喚や血反吐に塗りたくられた世界があるなどとは想像もしていなかった。
あの熱もすっかり鳴りを潜め、ただただ自身を取り巻く環境を眺めるなまえはこくり、とのどを鳴らす。


「地獄ってこんな風になっているんですね……」
「ええ。一度見てもらいたかったんです。…おや、暑いですか?」
「え?そうですね、少し……緊張もしていたので」
「緊張?何故ですか」
「そ、それはその………内緒です」


なまえの赤を召した頬を目にして小さく首を傾げた鬼灯に、どきりと心臓が嫌な音を立てる。
まさか少女のように胸をときめかせていたなんて口が裂けても言えず、ひとり気恥ずかしくなったなまえは困ったように笑った。熱気をはらんだ風が身体を包み、それが更に肌を火照らせる。
なまえの頬にじんわりとにじむ汗を見つけた鬼灯は、ゆるく目を眇めながら懐から手拭いを取り出した。


「い、いいですよそんな、汚れちゃいます」
「手ぬぐいは汚れる物ですよ」
「…………鬼灯さんは、どうして私に親切にしてくれるんですか?」
「なまえさんに助けて頂いた恩もありますし、…罪滅ぼしですかね」
「えっ?」


額をやわく拭いするりと優しく頬を滑り、顎に沿って流れていくやわらかな布地には慈しみのような心がふくまれているように思えた。
胸をくすぐるそれに気を取られていると、鬼灯がぽつりと囁いた科白がいやに頭の中に響いてなまえはまぶたをまたたかせる。不思議そうに鬼灯を見上げるなまえの望月のような瞳を見つめ、彼はそっと呟いた。


「貴女の両親は…すでに転生してしまっています」
「………転生…?」
「違う人間として、また生きることを決めたんです。彼らもなまえさんがこんなに早くこちらに来るとは思わなかったのでしょう」
「…………そう、ですか…でもさっき、望めば会えるって仰いましたよね…?」
「なまえさんが転生を望めば会えないことはありません。ただ姿形はもちろんのこと、貴女の親ではなく別の誰かとして生きる彼らにですが」
「…………」


呆然と鬼灯を見やる彼女をまっすぐに射抜く濡羽色の瞳は真摯な光を宿していて、彼が嘯いている訳ではないと理解する。
ぎし、と錆び付いた金属が擦れたような軋みが胸の奥に反響した。そんな錯覚がまたなまえの心を疼かせる。其処がたまらなく痛むのは、また独り残されてしまったと否応なしに思ってしまうからだろうか。
大切な人たちが前に進もうと旅立っていったことを喜ぶべきなのに、どうしても出来そうになかった。
寂寥と悲しみに覆われた心に押しつぶされそうになるのを唇を噛んでこらえていると、鬼灯はおもむろに喉を震わせる。


「…地獄を見てどう思いました?」
「……え?」
「怖くなかったですか?」
「いいえ、驚きましたけど怖くはありませんでした」


それは、なまえのことなど碌に知りもしないのに彼女らしいと深く頷いてしまうような科白だった。あの日化け物と罵られてもおかしくはなかったあの状況で、降り注ぐ木漏れ日のようにあたたかな言葉を寄せてくれた彼女を想起させる科白。
あの日から、孤独の中に身を投じる彼女に自分が出来得る限りのことをしてやりたいと思ってしまうくらいにはなまえのことを気に入っているのだ。
彼女が一歩を踏み出せるように、鬼灯は静かに言葉をつむぐ。


「なまえさん、私の元に来る気はありませんか」
「え?」
「地獄で働いてみる気はないですか?それともやはり親御さんに会いたいですか」
「……それは………」
「………少しでも迷いがあるのなら、きっと心は決まっているのだと思います」
「!」


鬼灯の言葉にぐらりと揺らいだのはその身だけではなかった。揺れ動く心を内包し、現世とは異なるわずかに隆起した固い土をぎゅっと踏みしめる。
様々な感情と記憶がぐるりと廻るなまえの胸にふと香ったのは、線香のどこか甘いにおいだった。両親の葬儀があったあの夜、2人にはきちんと別れを告げたではないか。それをもう一度会いたいなどと望むのはずるいことだったのかもしれない。

愛する彼らのように、なまえも前を見据えなければならないのではないか。

そっと視線を持ち上げた先の彼はなまえの背中を押すようにただ見守ってくれていた。その瞳を見つめ返し、ゆっくりと頭を垂れる。


「私なんかでよければ、ここで使ってください」
「私は貴女だから誘ったんですよ。…これからよろしくお願いします」
「はい…!」


なまえが出した答えにかすかに眦をなごませた鬼灯から差し出された手のひらをきゅっと握る。これからこの不可思議な世で、彼の元で過ごしていくのだと思うとわずかな不安と緊張が胸をよぎるけれど、独りではないのなら乗り越えられる気がした。
重ねた手を見やりほころんでいくなまえの顔を見下ろしていた鬼灯は、不意にその形のよい唇を動かす。


「…罪滅ぼしだとは言いましたが」
「はい?」
「男が女性に親切にする時、必ずしも善意だけで動いているとは限りませんよ」
「……?」
「誰にだって下心はあるということです」
「……つまり…鬼灯さんにも、ですか?」
「さぁ、それはどうでしょう」


首を傾げながら問うなまえは鬼灯の言葉の意図を理解出来ていないようで、しきりにまぶたをまたたかせていた。挨拶のつもりで握りあっていた手に、いつの間にか鬼灯の指先が甘くからみついていたことも気がつかないままになまえは思考を巡らせている。

せわしなく働く彼女の脳を見透かしたようにふっと吐息をもらした鬼灯は、なまえを自身に結わいつけておくようにそのやわらかな手のひらを引き寄せたのだった。


prev next