どくり、と心臓が嫌な音を立てた。凍りづけの冷たい指で、脈打つそこを掴まれたように胸が圧迫される。喉の奥が何かで塞がれたように息が詰まった。呼吸の仕方すら忘れてしまったような、そんな感覚。
なまえを取り残したまま時間は流れゆき、往来の真ん中に立ち尽くした彼女を迷惑そうに一瞥して人々は過ぎ去っていく。
身体を突き抜けた軽い衝撃は誰かと衝突してしまったためだろうか。肩に走った鈍い痛みより何より、彼女を打ちのめしていたのは通りの向こうで睦まじく歩く2人の男女だった。
女の方は行き交うひとの垣根に遮られて見えなかったが、相手を務める男はその端麗な顔を認められた。見間違う筈もない、なまえが心から焦がれるひとなのだから。


「鬼灯様…?」


薄く開いた唇からぽつりともれた言葉は彼の耳へ届く前に、吹き抜ける風の音にかき消された。なまえの網膜には鬼灯の腕にからみつく女のしなやかなそれが焼きついて離れない。
心に産み落とされた感情たちが綯い交ぜになって痛みを伴い、じりじりとなまえを蝕む。心が散り散りに引き裂かれるようだった。喉元まで込み上げた嗚咽を懸命にこらえて唇を引き結び、神経を失ってしまったように感覚のない足に力を込める。
彼らの姿が視界から失せたのを確認すると彼女は緩慢な動きで踵を返した。うつろな心を抱えたまま、それでも頭の隅ではいとしい彼ただひとりを想って。





あれから数日が経った。謹厳実直な彼がまさか、とは思うけれどあの日この目に映した情景が未だに脳裏をかすめ、思考をさらっていく。
向かいでお喋りに興じる友人の話すらも脳に達しないほどに、なまえは始終上の空だった。


「――ね、いいよね、なまえ!」
「…うん……」
「え、本当に!?やった、じゃあ19時に集合ね!」
「…………え?何が?」
「もー、聞いてなかったの?飲み会のこと!了承は貰ったんだから今更断るのは無しね!」


最近付き合い悪いんだから、とこぼす彼女になまえは曖昧に笑う。
友人の言うとおり、鬼灯と恋仲になってからというもの仕事終わりは彼の職務を手伝うか飲みに誘われるか、いずれにしてもふたりの間に芽吹いた恋情を育むことに費やしてきた。以前に比べて友人と共に過ごす時間が減っていたのも事実だ。
久方ぶりのなまえとの時間に浮かれて嬉しそうな笑顔を咲かせる彼女に、上澄みに氷が張ったような心がゆるゆるとあたためられる。つられて微笑みを唇に乗せたなまえを見てまた一層表情に花を咲かせる友人と笑みを交わしたのだった。


その日の業務が終了し、彼女の案内でやって来た衆合地獄のとある居酒屋。優しい照明が揺らぐ店内にはすっかり酔いの回った獄卒たちであふれていた。なまえもその中のひとりだ。
身体を巡る心地よい感覚に意識も蕩けかけている彼女は、かすかに残った理性を働かせて腰をあげた。


「私もう帰るね」
「えー、まだいいじゃん…次行こうよー」
「明日も仕事だし、それに」


止められてるから、と口に出しかけて呑み込んだ言葉にちり、と心が焦げ付く。決して酒に強い方ではないなまえを懸念の色をにじませて見つめてくれた彼は、今もまだその濡羽の瞳を向けてくれるだろうか。
心配です、と囁く低い声音を、その甘い恋心をなまえに寄せてくれるのだろうか。

如何しても鬼灯に奪われていく思考を振り払うように浮かせていた腰を再び落ち着ける。


「やっぱりもう少し居ようかな…」
「うん、そうしなよ!あ、そういえばなまえに紹介したい奴がいるんだけど」
「紹介したい人?」
「そう、多分なまえに気があるんだよー」
「へ?」


彼女の声に呼ばれたその人はなまえに目を止めるとアルコールのせいで赤く染まっていた頬を一段と紅潮させ、操り人形のようなぎこちない動きでこちらへ歩み寄る。

鬼灯とのことを何ひとつ知らない友人はきっと気落ちした様子のなまえに気を遣ったのだろう。目を丸くして見やった彼女は、なまえを元気付けるようにぱしりと背中を叩いて席を立ってしまった。
彼女と入れ替わるようにして隣に座った彼は緊張し切った様相でおずおずと口火を切る。

その初々しい態度が鬼灯と出会ったばかりの頃のなまえを想起させて、胸がきゅっと締め付けられた。
あの頃から鬼灯と交わす言葉ひとつひとつは宝箱にしまい込んでおきたいくらい大切で、彼から与えられる科白や仕草がたまらなく胸をくすぐっていって。その狭い容れ物の中いっぱいに幸福が満ちていた。
なのに今は彼を想う度、その腕に擦り寄っていたあのひとが胸中に甦る。鬼灯との幸せな筈の思い出がなまえを苛む。押し潰されそうになる心が苦しくて痛くて、何より悲しかった。
もの思いにふけるなまえを現実に引き戻したのは、耳慣れない彼の声。その困惑した声色に漸くなまえはしとどに濡れた視界に気がついた。


「あ、あのなまえさん?」
「え?」
「どうして泣いてるんですか!?お俺失礼なこと言いました?」
「………あ…違うの、ごめん………ごめんなさい…っ」


彼の驚いたような声に慌てて平静を装おうとしてもなかなか涙の波は引いてくれない。
潤んだ眼前に薄橙色を湛えた明かりが溶けていく。ぽろぽろとこぼれる雫を堰き止めることが出来ないなまえへ恐る恐る伸ばされた手は鬼灯のそれではない。

なまえが身を引こうとした瞬間、彼女の肩を誰かの腕が力強く引き寄せる。
引き締まったそれと感情のさざなみに呑み込まれてしまいそうな心をすくい上げる心地の良いぬくもりは、彼のものだ。触れられただけで如何しようもなくなまえの胸を高鳴らせるぬくもりの持ち主は、彼しかいない。


「…鬼灯様?」
「彼女を泣かせたのは貴方ですか」
「え、お俺っ」
「ち違います、私が悪いんです!全部私が……」
「………」
「……ごめんなさい…」
「………行きますよ」


まだ霞む視界に鬼灯の表情を確認することは儘ならなかったけれど、背筋を這い上がるような怒気をふくんだ言葉と怯える彼の声にふるふると首を横に振った。
肩に触れる、求めて止まなかった体温に縋るように手を重ねると鬼灯は目を眇めてなまえを優しい手つきで立たせる。促すような眼差しに足を進めれば、鬼灯は店員を呼び止めてひと言ふた言交わすと二階へと続く階段を上がり始めた。


「あの……」
「先ほどの涙は最近姿を見せなかったことに関係があるんですよね」
「…………」
「少し話しましょう」


通されたのは栗梅色の格子に仕切られた個室だ。天井から吊るされた照明は橙色を混ぜた光を灯し、重なり合う体温と同じ温かみにあふれていた。
畳の敷かれたそこに腰をおろすと、鬼灯は向かいに移動することなくなまえの隣に座する。


「飲み会に参加だなんて珍しいですね」
「……いけませんか?」
「いいえ、ですがこの5日間ずっと飲み歩いていた訳ではないのでしょう」
「鬼灯様と…お話する気分じゃなかったんです」
「…それは私に原因がありますか」
「………」


その問いに鬼灯を目に映すことすら出来ず、い草を編み込んだ畳の目をなぞるように瞳を動かす。口をつぐむなまえの手をやんわりと包み込む鬼灯の手のひらが存外優しいものだから、唇を開いたらぽろりと本心をもらしてしまいそうだった。
彼を責め立ててしまいそうで、それが怖かったのだ。


「聞かせて下さい、理由もわからないままなまえさんに避けられるのは…耐えられません」
「………」
「頼みます」
「………この前、鬼灯様と…女の人が歩いてるのを見て…」


元々閻魔大王の補佐官としがない平獄卒では不釣り合いだ。そんなことは重々承知していた、だから友人にも明かさずに秘め事のような逢瀬を繰り返していた。いつか飽きられる日が来るのではないかと、鬼灯が別の女性に惹かれる日が来るのではないかと、そんな不安が常にぐるぐるとなまえを取り巻いていた。
あの場面はそれが現実となった瞬間だったのだ。

ぽつりぽつりと語られる彼女の憂いと悲哀に、鬼灯は手の中にある柔らかな熱に力を込める。


「不安にさせて申し訳ありませんでした。……彼女はレディ・リリスといって、EU地獄の重鎮の夫人なのです。彼女は少々強引なところがありまして…無理矢理観光案内に連れ出されたんです」
「そう、だったんですか」
「直ぐにでも貴女に言うべきでした。…本当にすみません」


するりと頬を伝う鬼灯の指先はなまえを慈しむようにゆるく肌を撫でていく。しかし誤解が氷解しても1度失いかけた信頼を取り戻すことは難しい。
未だ憂慮に震えるなまえの瞳をのぞき込み、鬼灯は彼女と視線を合わせたまま想いを乗せた言葉をつむぐ。


「私には貴女だけです。なまえさん、どうしたら貴女を安心させられますか」
「……もう少し、傍に…」
「はい」


なまえの望みどおりに抱き寄せられた鬼灯の胸元はあたたかく、言葉はなくとも彼の想いが注がれるようだった。張り詰めていた心が解きほぐれ、その器からあふれるほどに満ちゆくそれにゆるりと吐息する。
鬼灯と触れ合う毎に次々と芽吹くあまやかな感情を手放すなど初めから叶わないことだった。なまえをくるむ愛しいひとの腕に身を預けると、離すまいと強くなる拘束が愛くるしくて仕方がない。
この淡くもしたたかな恋心を消し去ることなど出来る訳もなかった。


「触れてもいいですか?」
「はい、触って下さい」


ためらうように問われ、なまえの唇に微笑みがこぼれた。お互いをもっと近くに感じたいと、その一心で寄せ合う身体。後頭部に手が添えられ、指先がなまえのぬばたまの髪に潜り込んでいく。
心惹かれるように合わさった唇はかすかに湿っていて、ひどく柔らかい。優しく食むようにして繰り返し落とされる口づけに心がふるえるのをなまえは感じた。
名残りを追うようにまぶたを伏せる彼女を見つめながら、口の中に広がる果実酒のような甘味に鬼灯はこくんと喉を鳴らす。


「酒の味、ですね」
「……酔ってしまうかもしれませんね」
「もう手遅れですよ。………もっと、」


鬼灯から囁かれた言葉はなまえを求めるような熱をはらんでいて、全身がじんわりとのぼせていく。心臓が壊れてしまいそうなほど早鐘を打ち、なまえの心はすべて彼への愛慕に染まっていった。

目の前で唇をひとつに重ねあう相手に想いを捧げ、咥内に香る酒のにおいに、互いに酔いしれる。溺れてしまわないように繋いだ指先に、触れた熱に愛を込めて、2人は吐息をからめた。


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