温かみのある木造りの座卓を見下ろし、幾年もの間に刻まれた木目を何とも無しに数える。心の中で並べ立てたそれが二桁を過ぎたところで、なまえはゆるくまぶたを伏せた。

なまえの中心に沈み込む心は鉛を抱えたように重苦しく、それに伴うように身体もひどく気怠い。仕事でささいな失敗を犯し、ここのところ残業続きだったせいか風邪をひいてしまったようだった。部署内でも流行していたから気をつけていたつもりだったのだけれど。
気を配っていたのにも関わらず他愛ない病いに罹ってしまった自分もまた情けなく思えて、心は淀むばかりだ。
ただの風邪などで休ませてもらうのも申し訳なく、好ましくない感情がなまえの内側に次々と芽吹いていく。

不意にコンコン、と部屋の主を伺うノック音が耳に届き、悪循環に陥っていた思考をぷっつりと切断される。微熱に侵食された身体を立ち上がらせ、緩慢な所作で扉を引いた。


「はい……あ、鬼灯様」
「こんばんは。……寝ていなかったんですか?」
「昼間たくさん休ませてもらいましたから、寝付けなくって」


どうやら見舞いに訪れてくれたらしい鬼灯に曖昧に微笑みながら嘯く。
白昼も色々と思うところがあり、まどろみに身を委ねることに抵抗があった。寝台には横たわっていたものの、押しては返す眠気に甘んじることは出来なかったのだ。
その事実をやわらかな微笑の下に忍ばせて、彼に座るよう促す。


「辛そうですね」
「そう見えますか?熱自体は微熱なのでそこまで辛くはないですよ?」
「いいえ、…ここが、です」


鬼灯はなまえを診察でもするように見つめたまま、自身の胸元をそっと指差す。彼女は不思議そうにまばたきしたあと、わずかに綻びのある笑みをもらした。

上手く笑顔を形づくろうとして失敗したような、くしゃりと拉げた不恰好な表情。
それは弱々しく鬼灯の瞳に反射し、視神経をたどって脳に迫った。なまえが辛い想いを感じる毎に胸を掴まれたような苦しさが鬼灯を蝕む。
ぎしりと軋むそこに眉を曇らせ、なまえがその胸中を吐露するのを待った。


「実は最近、仕事でミスが多かったんです」
「残業が多かったのもそのせいですか」
「はい、それで少し落ち込んでいたというか……でも頑張ろうって決めた矢先に風邪をひいてしまって」


また仲間に迷惑をかける、そう気落ちするなまえに彼らは気にするなと笑いかけてくれた。その優しささえ痛くて、一度悪い方へと傾いてしまった思考は同じ道筋をぐるぐると回る。
取り分けなまえは仕事に対する使命感が強いゆえに自分を責め続けていたのだ。鬼灯が訪ねてくれなかったら深みに嵌まってしまっていただろう。
なまえの弱音を黙って聞いてくれるその配慮にも救われた気がした。


「なまえさん、そう気負わずに一歩ずつ進んでいけば良いと思いますよ。貴女よりもよほど使えない上司もいるのですから」
「そんなこと言って、大王に叱られますよ?」
「おや、ではご内密に」


おどけたように人差し指を立てて唇へと触れさせる彼はなまえの心をすくいあげる玄人だ。無表情ながらに道化たその応酬にくすくすと口の端から笑みをもらすなまえを見て、鬼灯はひそめていた眉を和らげた。

一方でなまえも、重たくふさいでいた胸がふわりとあたたかいものに包まれたことに眦をやわらかに細めた。張りつめていた糸がふつりと断ち切られたような気がして、心がゆるんでいく。
それと共に気も緩んだのだろうか。今更ながらだるい火照りが脈を打ったように全身を巡り、ぐらりと視界が揺らいだ。
思わず手を突いてしまったなまえに目を眇めた鬼灯は、心配の色をにじませてこちらを見つめる。


「大丈夫ですか?」
「…はい、少し熱があがっただけだと思います……」
「私に構わず横になって下さい」
「……でも…」


寝床に入ったら、きっと鬼灯はなまえを思い遣って帰ってしまうだろう。
もう少しだけ、ほんの数分でもいいから彼と話がしたい。
取り留めのない言葉たちでも取るに足らない言葉たちでも、なまえにとっては七宝のように、優しい紺碧を映す瑠璃のように大切なものだ。
鬼灯の心地良い低音を耳にこだまさせて眠りにつけたら、風邪などどこかへ飛んでいってしまうだろう。

いつになく甘えてしまいたくなるのは熱に浮かされているからか、それとも彼へのいとしさがこの小さな心からあふれてしまったからか。
躊躇いがちにそろりと鬼灯を見上げると、彼は呆れ交じりに吐息した。


「仕方ないですねぇ、風邪っぴきの貴女のわがままを聞くのも私の特権ですから」
「…鬼灯様?」
「おいで」


普段の仏頂面からは想像も出来ないくらいの優しい優しい声音でつむがれた科白。なまえを切に想うがゆえのぬくもりを灯した虹彩が彼女を捉える。

どこか甘さを帯びた声でおいで、だなんて言われたら、その武骨だけれどあたたかな体温を与えてくれる手を差し伸べられたら我慢など出来る筈もない。
なまえを迎えるようにゆるく広げられた腕の中に身体を預けると、その厚い胸板が難なく抱き止めてくれた。胡坐を組んだ鬼灯の膝に横抱きにされ、彼の胸に顔をうずめる。


「ほら、顔をあげて下さい。熱が測れないでしょう」
「……もう少し、」
「駄目です。終わったら好きにしていいですから」
「はい…」


鬼灯のたくましい腕に囲われて穏やかな呼吸を繰り返していたなまえはなだめられるように叱られ、のろのろと面をあげた。
慈しむように髪をかきわけて額に触れる指先がひんやりと冷えていて気持ちが良い。ふっと熱のこもった息をこぼすと、鬼灯は気難しく眉根を寄せて呟いた。


「やはり熱があがっていますね、平気ですか?」
「鬼灯様がいるから大丈夫です」
「何を過信しているのですか、私は医者でも全知全能の神でもないのですよ」
「鬼灯様といると心が安らぐんです、…今の私には一番の薬です」


なまえはまぶたをゆるゆると伏せて満足に思考が巡らないまま言葉をつむぐ。全身を廻る熱気のおかげで余計な理性が働かないからこその心からの言葉だ。

熱に苛まれて苦しい筈だが、彼女は身体をやわく抱きくるんでくれる彼の感触に浸ってふんわりと顔をほころばせている。そんななまえのすべらかな髪をいとおしげに梳いた鬼灯は彼女がまぶたを重ねていることを良いことに、呼吸の度に淡くほどける唇をやわらかく塞いだ。


「………っ!?」
「…どうしました?」
「い、今、口に…!」
「口に、何ですか?」
「うううつっても知りませんからね!?」
「むしろ移して下さいよ。なまえさんが風邪をひいたままでは職務に集中できません」


初めてという訳でもないのに、ほのかに紅潮していた頬を一際赤らめたなまえは唇に手の甲を押し当てながら慌てふためく。鬼灯はやがて耳の先まで伝わった朱を一瞥し、これではますます熱があがってしまうと懸念した。

しかし目の前に美味そうなご馳走があるのに行儀よく"待て"が出来るほど人間として、否鬼神として完成されていない。
甘く立ちのぼる熱をはらんだ眼差しでなまえを射すくめ、艶やかなそれを隠す彼女の手に自身のそれをからめて拘束すると、鬼灯はいたずらに唇を落としたのだった。


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