朝からどんよりとした重暗い雲が立ち込めていたのだが、遂に堰を切ったように空が泣き始める。 絶え間なく振り続ける雨をぽつぽつと傘が受け止める鈍い音を聞きながら歩く。 随分寒いと思うのに雪にはならないな、と少し残念に思いながら濡れたコンクリートに目を落とした。 雨より雪の方が好きだ。あの周囲の音を吸い込んでしまう白は静かに柔らかくなまえを包む。街がその色で染まるのを見ているのも、肌に触れればたちどころに溶けてしまう儚いところも好き。 「あれ?」 そんなことを考えながらふと足を止める。漸くたどり着いた自宅の軒下、そこに蹲るようにして座り込む黒髪の男。不審者かと警戒するも、だらん、と力なく投げ出された腕を見る限り体調が悪いのではないか。 そっと近づいて軒下に入る。音を立てないように傘を置いて彼の傍らに屈み、俯きがちなその人をのぞきこむと随分綺麗な顔をした男性だった。ゆるい弧を描いた頬を赤く火照らせた彼は荒い息を繰り返している。 少し躊躇ったあと、ひどく調子の悪そうな彼の肩に手を置く。 「あの、起きてください、こんなところで寝ていたら悪化しちゃいますよ」 「……」 「…どうしよう」 あまり動かしても駄目だろうからとそっと揺り動かすが、彼は何の反応も見せずに乱れた呼吸を重ねるだけだった。仕方ない、と鍵を取り出してドアを開ける。 なまえよりもずっと大きなその身体に肩を貸すようにして背負い、傍に置いてあった彼の持ち物だろう鞄も手に持った。 ずるずると長い足を引きずってしまっているのはこの際目を瞑っておくことにする。 とりあえずリビングのソファに寝かせ、未だまぶたを閉じたままのその人に毛布をかけた。 熱があるようだしひとまず濡れタオルで処置をしよう、と水を汲んで脇に置き、彼が被っていた帽子を剥ぎ取った、その瞬間。 目に飛び込んできたそれに息を飲む。 「これ…つ、角?」 そこに存在を主張していたのは尖った角。さらりとした黒髪を掻き分けるように生えているそれは作り物には到底見えなかった。信じられない思いでそっと指の先でなぞれば確かに体温を感じられる。 白い肌、本来ならばそこにはつるりとした額があるだけのはずだ。普通ならば、凡庸な人ならば。 そう、人間ならば。 ではこの目の前にいる彼は、人ではないのだろうか。いやまさか、と彼を見つめる。 呼気のために薄く開いた唇や固く閉ざされたまぶた、それを縁取る睫毛。時折顰めるその表情のどれを取ってもなまえと変わらないように見える。 それに今彼は苦しんでいるのだ、この人の正体が何にせよまず容態を安定させなければ、と余計な思考を飛ばすように頭を振った。 * 「ん…」 ぼやける視界に顔をひそめ、ぱちりと瞬きを繰り返す。薄暗く染まった視界に軽く目を見開いた。 いつの間にかソファに突っ伏して眠ってしまっていたらしい。ぼうっとしていると、ふいに視線を感じて瞳を滑らせる。と、じいっと食い入るようになまえを見つめるのは先ほどまで深い眠りについていたはずの彼だった。三寸ほどもない、そのあまりに近い距離に思わず後ずさる。 「あ…!起きたんですか」 「…ええ、貴女は…ここはどこですか?」 「ああの、家の前にあなたが倒れていて声をかけても起きなかったので…体調も悪いみたいでしたし勝手に運んでしまいました…ごめんなさい」 ぺこりと頭を下げるなまえを相変わらず穴が空くかと思うほど凝視する男に気圧され、目を逸らす。 暫くの沈黙が続いた後、その男は額に乗せられているすっかりぬるくなってしまった濡れタオルに触れながら、ゆっくりと口を動かした。 「これ貴女が?」 「はい、熱があったので…」 「…おどろかないんですか」 それは自身の角や尖った耳のことを指しているのだろう。 切れ長の瞳をなまえに寄越す彼は言外に怖くないのかと訊ねているようにも見えた。かすかに揺らぐ眼光を見つめ返しながらゆるりと首を横に振る。 「驚きはしましたけど、怖くはありませんでした。それよりもあんなところで倒れていたあなたの方が心配です、本当に大丈夫なんですか?」 なまえの言葉にわずかに目を見張った男は一言、私の荷物は、と呟く。そういえば彼を運ぶのに必死でその辺りに放っておいたままだった、と急いで拾い上げ手渡した。 中を探りながら眉間にしわを寄せる。生憎現世へ滞在し始めて日が経っていたために、擬態薬は使ってしまった後だった。 それに加え鬼インフルエンザだ。 身体の自由が利かず意識も朦朧とする中、振り出した雨から逃げるように身を潜ませた軒下が目の前で不安そうな表情を浮かべる少女の家だったとは。人間の姿ならば彼女を動揺させることもなかっただろう。 「性質の悪いインフルエンザにかかりましてね…何分忙しくて今日の分の薬を飲むのを忘れていました」 「そうだったんですか…」 インフルエンザ。なまえも幼少の頃かかったことがある。ぐるぐると世界が回るような高熱に魘され、ひどく辛かったことを思い出した。それからは毎年予防接種を受けるようにしたのだけれど…今年はいろいろあって病院に罹ることもままならなかったのだ。 顔を俯かせたなまえの表情に寂寞が過ったのを認め、鬼灯は眉をひそめながら携帯していた薬を飲み込んだ。 見る限りではまだ年端もいかない少女だ。制服に身を包んでいるところを見ても鬼灯の見解は間違いではないだろう。 「もう夜も遅いようですが…ご家族は?」 「…、親は……死にました」 「…そうですか」 独りなのだろうか。 鬼灯には全く関係のないこの少女を気にかける謂われはないが、何故か心のどこかに引っかかってしまう。 この角を見ても物怖じせず、あまつさえ鬼灯を心に留め救ってくれたなまえを、柄にもなく気に入ったのかもしれない。 一目見るだけで鬼灯が人間ではないとわかった筈なのに、その疑問を口にしないところもしっかりと鬼灯の本質を見てくれているようで好ましかった。 まだ怠くて仕方のない身体を半ば無理に起こすと、慌てたように背中に添えられた小さな手があたたかい。 「ありがとうございました、もう平気です」 「え、でもまだ熱が」 「やらなければならないこともあるので……けれどその前に、ひとつ聞いてもいいですか」 「はい」 「貴女の名前は?」 みょうじなまえです、と囁いた彼女の顔と名前を胸の奥深くに刻みつけて、ソファから足を下ろす。心配そうな眼差しを寄せてくれるなまえの細腕を引き、そっとその耳に唇を寄せた。 「どうやら私はなまえさんが気に入ったみたいです。ですからどうか……早く死んでください」 「え、」 最後に名残りを惜しむようにふわりと彼女の耳に口づけ、呆然とこちらを見上げるなまえの火照った頬をまぶたに焼きつける。 そうして彼女が声を発する前に、くるりと背を向けた。 |