これの続きです 他人にとっては平凡な1日でも、今日はなまえにとって特別な日。鬼灯との約束がある日なのだ。 いつもの無難にまとめられた着物ではなく、鮮やかな赤紫で染め抜かれた牡丹をあしらった生地のそれを身につけ、鏡をそっとのぞきこむ。 おしろいをはたき、少しだけ紅も差してみたなまえがこちらを見返して理由もなくほんのりと頬を色づかせた。 おかしなところはないだろうか。 肩の力が入りすぎたりしていないだろうか。 そわそわと姿見の前で全身を眺めながら心臓を高鳴らせる。 何せ初めての逢引なのだ。あの科白を寄せられて以来何度か店に訪れてはなまえと他愛ない会話を、それでも彼女にとっては大切な言葉たちを交わし続けた鬼灯との初めての逢引の約束。 最初は戸惑っていたなまえも度重なる鬼灯からの口説き文句にすっかり折れてしまったというか、彼がなまえへの想いを口にする度に心の奥にひた隠していた恋しさをつつかれて、逢引の申し出に思わず首を縦にふってしまったのが先週のこと。 勢いとはいえ好いた人とのお出かけに、心はふわふわと浮ついてしまっていた。 無意識のうちにふわりとほころばせたなまえの表情にこれ以上ないくらいの幸福があふれていたのは、彼女と向かい合う鏡だけが知っている。 「あー!なまえちゃんどうしたのそんなにおめかしなんかして!」 「白澤様」 いつからそこにいたのか、なまえの私室の扉付近で口をあんぐりと開けたままこちらを見る白澤の肩はふるふると震えている。 なまえの私室、といっても極楽満月の裏手にある物置を人が住めるよう綺麗にしただけの簡素な部屋なのだが、天国では外でも充分暮らしていけるし、ここも存外気に入っている。 そんななまえの領域にずかずかと足を踏み入れた白澤は彼女の細い肩をがっしりと掴んで顔を近づけた。 「まさかとは思うけど、あの野郎とデートとかいうんじゃないだろうね!?」 「あの野郎ってまさか鬼灯様ですか…?えっと、その……で、デートなんて大したものじゃないですよ」 「この頃2人でこそこそ話してると思ったら…!僕は許さないから!何されるかわかったもんじゃないよ、行っちゃだめだよなまえちゃん!」 「そう言われましても…」 白澤のあまりの気迫にたじろぎながら困ったように眉をさげる。 白澤は亡者になったばかりで右も左も分からないなまえを拾ってくれた恩人でもあるし、彼女の勤める薬局の店主。 謂わば大切な恩人だ。 彼の願いならばでき得るかぎり叶えてあげたいと思うのだが、今回秤にかけられるのは鬼灯。 恋しいひとと恩人、どちらに天秤を傾けるかなどなまえには決められない。精一杯着飾ったお気に入りの着物の胸元をきゅっと握りながら、ためらうように目を伏せた、その時だった。 「アンタ何してるんですか、彼女から手を離してください」 「お前いつの間に…!」 2人の間を引き裂くように放たれた声の主は部屋へ上がると力任せに、…それはもうぎりぎりと軋む音が響き渡るほどの力を込めて白澤をなまえから引き剥がす。 相当な力がかかっていたのか、はずみで壁に激突しながらもめげずに何するんだ、とかなまえちゃんは渡さない、などと口うるさく2人の周囲をぐるぐると回る白澤。鬼灯は彼には目もくれずに、驚いたようにこちらを見上げるなまえを見つめ返した。 「その着物も化粧も、よくお似合いですよ」 「あ…そんな、……ありがとうございます」 鬼灯の言葉に我に返ったなまえはほのかに頬を染め上げ、恥じらうように俯く。そんな彼女へ向ける鬼灯の瞳にはいとしさがにじんでいて、自然と白澤の眉間に皺が刻まれた。 ほわほわと2人の間漂う桜色の空気が我慢ならないとばかりに、白澤は声をあげる。 「誰の許可があってなまえちゃんをデートになんか誘ってんだよお前は!」 「は…?なまえさんをお誘いするのに貴方へ断りを入れる必要があるのですか」 「あるよ!僕は彼女の上司だぞ!」 「たかが上司が何を言っているんですか、なまえさんが誰と何をしようと、………誰と恋仲になろうと唯の上司である白澤さんには全く関係のないことですよね」 恋仲、という単語にすっかり顔を紅潮させてしまったなまえがいたたまれない思いできゅっと彼の袖を引くと、先ほどとは打って変って声色をやわらげた鬼灯が彼女の熱を持った頬を撫でる。 「すみません、つい白熱してしまいました」 「いえ、少し恥ずかしかったですけど、…嬉しかったから…」 ああなんだこの雰囲気は。 お互いを見交わす2人を、特別に鬼灯を恨みがましく睨みつけながら白澤は眉をしかめる。 まるでこの空間をつくりあげるすべての物に邪魔だと言われているようだ。この際あの鬼神のことは頭の片隅にでも捨て置くとして、大事なのはなまえの気持ちである。 …聞かなくとも一目瞭然なのだが、例え心に大ダメージを負おうと彼女の本心を聞くまでは引き下がる訳にはいかない。 白澤は2人の繋がった視線を引きちぎるようになまえの腕を掴んで向き直らせると、ぱちぱちとまたたくまぶたを見据えながら口を開いた。 「なまえちゃんは……こいつと添い遂げたいとか思うほど好きなの?」 「添い遂げる…?は白澤様何をおっしゃるんですか……!」 「そういうことなら私もお聞きしたいですね」 「ええ!?」 思わぬ質問に怖気付いたように後ずさると、じりじりと間合いを詰めてくる鬼灯たちに口元がひきつった。なまえより大分背が高いのに加えて、身目整った顔がふたつ並んで凄むものだから心臓が恐怖で縮み上がってしまう。 こういう時は仲がいいというか、似た者同士故に言動が一致することも多い2人に、遂に壁際まで追いやられてしまった。 とん、と触れた固い壁に背中を取られ、そろそろと前を向けば2人がなまえを見下ろし。逃げ場をなくすように壁へ突いた2本の腕に囲まれてこくんと息を飲む。 「お落ち着きましょうよ、ね?」 「いいえ、これは2人にとって大切なことです」 「答えを聞くまでは外出の許可は出さないよ!」 「………っわ、私は…」 現状で精一杯ななまえは、鬼灯との関係に"それ以上"があるなんて考えたこともなかった。添い遂げるということは、夫婦になるという意味で。 今までより身も心も、近しい存在になるのだ。 理解した途端、耳の先まで熱くなってしまった顔を冷まそうと両手で覆う。なまえのしなやかな指の隙間からのぞいた肌が真っ赤に熟れているのを目にした瞬間、はあ、と白澤は魂まで抜けてしまいそうなため息を吐いた。 「やっぱり言わなくていいよなまえちゃん、寧ろ言葉によるとどめを刺さないで…」 「白澤様?」 「もういいよ、2人で何処へでも行っちゃえよ!どうせなまえちゃんは僕よりそいつの方が大切なんだろ!ふんだ!」 「あっ、白澤様!」 止める間もなく踵を返し走り去っていく白澤の瞳に光るものがあったような気がしたのだが、見間違いだろうか。 みるみるうちに小さくなっていく白澤の背中を心配そうに見つめるなまえ。 そんな彼女の意識を自分に向けさせるようにそっと頬に触れたあたたかな手のひらに促され、なまえは鬼灯へと瞳を戻した。 「私は是非とも聞かせて頂きたいです」 「、ほ鬼灯様こそどうなんですか?そういうことを、女性から言わせるのは殿方として如何なものでしょう」 火照ったままの頬では気取った面様を装えてないことは充分承知しているが、それでも懸命につんと澄ましてみせる。 なまえの様子にくつりと喉を鳴らした鬼灯は、頬に添えていた手でやわいそこをゆるゆると撫でた。 「今日の終わりにでもお伝えしようと思っていたのですが…わかりました、貴女が望むのなら、今言うことにしましょう」 「え?」 「……なまえさんの一生を、私に捧げてください」 「……、」 どこか強気な物言いが鬼灯らしいというか、何というか。 このひとは一世一代のこんな場面でも表情を変えないのだなぁ、と的外れな感想を抱いたふりでもしないと倒れてしまいそうなほど、なまえの中は鬼灯のことでいっぱいだ。 どきん、どきん、と鼓動を跳ねさせながらひとつ頷いたなまえを、鬼灯が射すくめるように見下ろす。 「言葉にしてくださらないのですか?」 「……私でいいのなら…これからの未来を、貴方に尽くさせてください」 か細くささやかに落とされた言葉が羞恥の限界だったのか、顔を隠すようにとん、と鬼灯の胸元に遠慮がちに寄せられたなまえの額。 その甘い熱に濡れた瞳を見ることが出来ないのは残念だが、きっとこれから知っていけること。 そう考え直して恥ずかしさと喜びにふるえる彼女の身体を、鬼灯はそのたくましい腕で包み込んだ。 |