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これの続きです

火にかけた鍋の中で気泡が浮かび、こぽ、とはじける。
とろりとした白い粥が焦げ付かないようにと匙を回していると、扉を引く音が耳に入った。
客かと思い急いで振り返れば、戸口に佇んでいたのは涼やかな瞳を携えた鬼灯で。彼を視界にとらえると途端に甘く速まっていく心音に内心で苦笑する。


「鬼灯様、いらっしゃいませ」
「こんにちは、薬の調合を頼みに来たのですが…白澤さんは?」
「白澤様は、その…」


ためらいがちに視線を彷徨わせたあと、困ったように笑ったなまえは店の奥を示した。

白澤は昨夜呑みすぎたせいで未だ布団の中だ。衆合地獄にあるというお気に入りの遊郭にでも出かけていたのだろう。
なまえが朝来たときには既に部屋中がむせ返るような酒の臭いに満ちていて、店の床にぐったりと突っ伏していた白澤を彼の自室まで運んだのだった。

彼の知識の深さや器の大きさは尊敬するべき部分だけれど、酒と女癖の悪さだけは目に余るものがある。こうして二日酔いに苦しむ白澤の世話をするのも慣れたものだ。


「それ、薬膳粥でしょう。大体察しはつきます」
「黄連湯は飲ませたのですけどまだ胃もたれするらしくて…お粥しか食べられないんです」
「あんな白豚放っておけばいいじゃないですか」
「そんな訳にもいきませんよ」


鬼灯の言い様にくすりと笑みをもらしながら粥にクコの実を入れ、仕上げにひと煮立ちさせたところで火を止める。
ことこととやわらかな音を生み出していた鍋が沈黙し、嫌でも自覚させられるふたりきりという状況にほのかに頬が熱くなった。
桃太郎は芝刈りに出ており、白澤は恐らく夢の中。
どうしよう、と込み上げる気恥ずかしさに瞳をゆらしたなまえは、粥をよそった器を盆に乗せた。


「私白澤様にお粥持っていきますね……、っ!」
「危ないですね、そんなに驚くこともないでしょう」


背中に感じるぬくもり。
戸口に立っていた筈の彼はいつの間にかすぐ背後に迫っていて、驚いて取り落としそうになった盆をなまえごと後ろから抱えるように支えられてしまったのだ。
その抱きしめられるかのような体勢に心臓はどきどきと脈打つばかりだ。
ただでさえ恋しい想いがあふれてこらえられそうにないというのに、重ねられた手のひらから、触れ合う肌からじわじわといとしさが芽吹いていく。

たまらずまぶたを閉じると、呆れたように耳元でふっと吐息されてぴくりと肩が跳ねた。


「顔が赤いですよ、なまえさんまで酒に酔っているのでしょうか」
「お酒なんて飲んでません…!」
「わかっていますよ」


鬼灯の言葉を真っ直ぐに受け取ったなまえが慌てて否定すると、意地の悪い声音を寄せられた。
からかわれたのかと察しがつき、かすかに唇をとがらせたなまえがふいと顔を背ける。

その丸く弧を描く熟れた頬が無防備にこちらを向いているのを目にして、鬼灯はその赤に誘われるように指先を伸ばした。
触れるか触れないかのところをするり、と撫でられて、なまえは盆を握りしめたまま間の抜けた声をあげてしまう。


「ひゃっ!?」
「…ああ、すみません。つい」
「つい、って鬼灯様…」
「柔らかいですね」
「………」


初めは遠慮がちにするすると肌の表面をすべっていた指先は、その柔さがお気に召したのか頬をゆるく挟むようにして感触を楽しんでいる。
なまえを見つめるどこか優しげな光を灯した瞳に、胸の奥がきゅうっと締め付けられた。

少しくらい触れてみても、良いだろうか。
そんな思いで、なまえを愛でるその手に自身のそれを重ねようと腕を持ち上げる。彼へと近づく一瞬一瞬に鼓動が高鳴っていく。

込み上げる羞恥をこらえて、なまえよりもひと回り以上大きなその手にそっと手のひらを添わせた。
自分のものでないぬくもりが素肌に伝わっていく。その体温が恋しくて、なまえに小さく首を傾げた鬼灯を見つめた。


「…なまえさん?」
「……あの、鬼灯様…私」


なまえはわずかに濡れた瞳をゆらめかせて鬼灯を見上げている。
ぐらり、と冷静を装っていた心のどこかが揺さぶられ、思わず彼女に握られた手に指をからめようと動いたその時だった。

店の奥へ繋がるドアが、ぎい、と鈍い音を立てて開いていったのだ。
それに現実へと引き戻されたなまえに慌てて手を振りほどかれてしまった鬼灯は、ドアの隙間から顔をのぞかせたそれにチッと舌を打った。


「なまえちゃんごめんね、世話かけて……って何でお前ここに居るんだよ!?」
「白豚さん、もう少し空気を読んでくれませんか」
「はあ!?何だよ急に!…くっそ起きて早々嫌なモン見た……」


青褪めた顔を更にげんなりと痩けさせ、深くため息をついた白澤と苛立ちを露わにした鬼灯に挟まれたなまえ。
きょろきょろと2人へ交互に視線を彷徨わせると鬼灯と瞳がぱちりと合って、ほんのり頬を染めたなまえは白澤に向き直る。


「は白澤様、お加減はいかがですか?」
「うん、大分良くなったよ。なまえちゃんのおかげだね」
「そんな、大したことはしていませんよ。お粥食べられますか?」
「じゃあ貰おうかな」


なまえに椅子へと促されてどうぞ、と差し出された粥を匙ですくう。それをぱくりと口にふくんだ白澤はわずかに眉をひそめた。
彼の様子を不安そうに眺めるなまえは、味見はした筈だが何かまずかっただろうかと首を傾げた。


「どうかしましたか?」
「ううん、何かやけに冷めてるなって思っただけ。冷めてても美味しいんだけど、何か時間取られたことでも………」


なまえに顔を向けた白澤は、その後ろに寄り添うように佇む鬼灯へと目を持ち上げる。
まさか、とあらぬ誤解を頭に巡らせた白澤はふるふると震える指を鬼灯へと突きつけた。


「お、お前まさかなまえちゃんに何かやらしいことしたんじゃねえだろうな!」
「は?貴方じゃないんですから、そんなことある筈ないでしょう。寝言は寝て言え」
「お前むっつりだからわかんねぇだろ!」


ぎゃあぎゃあと鬼灯に食い下がる白澤は二日酔いの方から逃げ出すほどの必死の形相をしている。
それだけなまえを大切にしてくれているのだろうけれど、そろそろ鬼灯の堪忍袋の尾も限界だろう。金棒を取り出したのを視界の端に認めると、立ち上がってしまった白澤の肩に手を置きながら声をかける。


「白澤様、落ち着いて」
「…うん……なまえちゃん、こいつに何かされたら遠慮なく叫ぶんだよ、僕飛んでくから」


なまえの諭すような声色に普段の穏やかさを取り戻した白澤はすとんと椅子に身を預けながらそう囁く。
なまえに目をかけてくれているこの人なら、本当に文字通り飛んできてくれるのだろうと微笑みを浮かべると、ひとつ息をついた鬼灯が冷ややかな眼差しを投げて呟く。


「…まぁ今回は彼女からでしたし、白澤さんの心配するようなことは何も」
「……彼女から?なまえちゃんから?一体何したの!?」
「鬼灯様っ」


鬼灯の科白にぽっと頬へと赤を散らしたなまえを見て、白澤は頭を殴られたかのような衝撃を受ける。
確かに手を取ったのはなまえからだが、元をたどれば彼が身を寄せてきたからで、と誰に言うでもなく内心で弁解していると、再び腰を浮かせた白澤と鬼灯との間にばちりと火花が弾けた。
恥ずかしいやら呆れるやらで、とうとう我慢の限度を越えてしまったなまえは声をあげる。


「もう知りません!」
「あ、コラ待ちなさい」
「待ちませんー!」
「ねぇ!なまえちゃんからってどういうことー!?」


ふたつの声を背に浴び、熱くて仕方ない頬を携えながらなまえはたまらず店を飛び出す。
そんな彼女がいとしい鬼に捕まるまであと数分しか猶予がないことも、彼からのちょっとしたお仕置きが待っていることも、今の彼女には知り得ぬことだった。


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