「こんにちはー」 「あ、なまえちゃん!いらっしゃい!」 元気な挨拶と共に戸口からひょこりと顔をのぞかせたのはなまえだ。彼女のあたたかいお日様のような笑顔を見るとこちらも自然と笑みが浮かぶ。 白澤のお気に入りとも言えるなまえとは随分昔からの友人で、所謂男女の仲になったことは1度もない。迫ったことがないとは言わないが、すっぱりと断られた上なまえの憎めない性格も相俟って良い友人関係を築けていると思う。 彼女の恋人との仲は最悪だけれど。 そうでなくとも犬猿の仲であったのに、その手によって大切な女の子が横からかっ攫われたのだ。不愉快どころの話ではない。 朴念仁の鬼神を思い浮かべ、背筋にぞくりとした悪寒を走らせると共に深いため息を吐いた。 「どうかしました?」 「や、何でもないよ。それで今日はどうしたの?薬でも買いに来た?」 「ううん、違いますよ。えっと……白澤さんとお話ししに」 「えー?嬉しいなぁ。…あ、でもこの薬の調合が終わってからでもいい?」 なまえの言葉を受けてしゅっと糸のように目を細めた白澤は笑顔を見せる。 しかしはたと気付いたように作業台へと目を落とした白澤は、薬研を手に困ったように笑いながらそう言った。 「はい!ぜひ、…あ、いえ待たせて頂きます!」 「じゃあ椅子にでも座って待っててね」 「あの…よかったら作業を見ていてもいいですか?」 「ん?いいけど…」 許しをもらったなまえはぱあっと瞳を輝かせながら白澤の傍へと近寄った。 邪魔にならないよう身を縮こまらせながら白澤の手元を観察するなまえはひどく真面目な顔をしていて、はて彼女は東洋医学に興味でもあっただろうかと首を傾げた。 「東洋医学に興味でも湧いた?」 「えっ!ど、どうして分かったんですか!?」 「いや分かるよ、そんな興味津々の目されちゃ」 すり潰されていく薬草を眺めるなまえの眼差しは真剣なものだったし、観察するような様子を見れば白澤から何かを学ぼうとしているのは良く分かった。種族は違えど伊達に薬剤師見習いを育てている訳ではないのだ。 寧ろ隠せていると思っていたのかと苦く笑うと、恥ずかしそうに目を伏せてもじもじと身体を揺らしたなまえが観念したように顔を上げる。 その丸い頬にはほんのりと赤みが差していた。 「鬼灯様とのお話しは東洋医学の話題も少なくなくて……私難しいこととかよく分からないから、その」 「ふーん、じゃあ"お話"って東洋医学のこと?つまりあいつの話を理解したいがために僕からいろいろ聞こうと思ったんだ」 「う…ごめんなさい」 恥じらいつつこくんと頷いたなまえはまさに恋する乙女のようにいじらしい。熱をためる彼女の顔をじっと見つめながらかすかに唇を尖らせる。 僕と出会った頃には薬学なんて全く興味がないっていう風だったのに。 そんなことを口に出しそうになってどうにか喉の奥に留めた。これでは何だかあの鬼神に嫉妬でもしているようで気に食わない。 ふう、と気を取り直すように息をついた白澤は薬研から手を離し、代わりになまえのやわらかな手を取る。 「じゃあこれ使ってみる?」 「え、いいんですか?」 「うん。ほらここの持ち手を掴んで、薬草をしっかり潰すんだよ」 「はい!」 なまえがしっかりと持ち手を掴んだのを確認し、白澤は背後から覆い被さるようにしてその白魚のような手の上に自身のそれを重ねる。 窪みに薬種を入れ、円盤状のそれを擦るように回して潰していく。 単純な作業だったが新しい知識が蓄えられていくのが嬉しいのか、それとも鬼灯のことを秘めやかに想っているのか。なまえはふわりと笑みを咲かせていた。 ほんの間近に見える彼女の微笑みを優しく見つめる白澤。こんな場面と鉢合わせれば誰だって2人が恋人なのだと勘違いしてしまうだろう。そしてこういう時ほど間が悪く来客があるもので。 がらりと開いた引き戸の向こう、2人を視界に入れた途端その鉄面皮を苦々しく歪めた男と目が合う。 「いらっしゃい」 「………なまえさん、何をしているのですか」 「えっ、鬼灯様!?…と、お香さん」 「こんにちは」 唐突に現れた鬼灯に驚きながらも、そのひやりとした冷たい視線に指摘されてまるで白澤に抱きしめられているかのような体勢になっていたことに気がついたなまえは慌てて距離を取る。 深々と刻まれた眉間のしわを携えた鬼灯と向かい合うと、その隣に寄り添うように立つお香が目に止まった。 ぱちりと瞳がからんであでやかに微笑んだ彼女に、わずかに引きつった笑みを返す。 お似合いだなぁ。 そう改めて感じさせられただけでなく、2人はどこかお互いの思いを汲み取っているような、分かりあっているような雰囲気がある。幼馴染特有の、とでもいうのだろうか。 ぽんと心に投げ入れられた小さなわだかまりは、なまえの複雑に交錯した想いを飲み込んで重たくなっていく。 「で、何をしていたんです?」 「少し作業を手伝っていただけで……それに鬼灯様だってお香さんと」 「頼みごとがあったので寄っただけです」 「アタシも冷え性に効くお薬が欲しくて…ついでだから一緒にって」 ね?と同意を求めるように鬼灯を見るお香、肩を並べる2人にわずかに眉をしかめる。お香に罪などないし、彼女の言う通り偶然行き先が同じだったから連れ立って来ただけなのだろうけれど。 仲睦まじい雰囲気を漂わせながら、穏やかに目を見交わす2人は誰が見ても恋仲だと思うだろう。 無意識にそう考えてしまい、嫉妬なんかに胸を焦がす自分がひどく惨めに思えて仕方なかった。 鬼灯に相応しいのはああいう大人の色香を持ったひとなのではないか、彼だってなまえなどよりお香の方が、と考えてしまう自分も、じりじりと焼けつくような胸の奥も不快だった。 「……」 「ねぇなまえちゃん、これからどうする?」 「へ?」 「東洋医学に興味あるんでしょ?この後時間があるなら教えてあげるよ。基礎から薬の調合の仕方まで、手取り足取り、ね」 白澤はなまえの気を紛らわすようににこ、と人好きのする笑みを向けながらその細い肩を抱き寄せる。 もやもやとしたものを抱えたまま不恰好に笑って首を縦に振ったなまえにぴくりと眉をあげた鬼灯は、静かに口を開いた。 「それに教えを請わなくとも私が手ほどきをして差し上げますよ」 「え、でも鬼灯様スパルタっぽいですし…」 優しく教えてくれそうな白澤の方が良いのだが、とそんな思いが顔に出ていたのか、鬼灯は一層不愉快そうに口をへの字に結んだ。 なまえの肩に置かれた白澤のそれをべしっと叩き落とすと、まるでその手の感触に上書きをするように彼女の肩口へとやわく触れる。 その意図を理解出来るほど察しの良くないなまえがこてんと首を傾げたのを見ると、彼女の耳元に唇を寄せた鬼灯は白澤たちには聞こえないようそっと囁いた。 「鬼灯様…?」 「なまえさんがお香さんに妬いたように、私も嫉妬くらいします」 「!」 「東洋医学でも何でも教えて差し上げますから、私を選びなさい」 吐息が耳をゆるりと掠め、とどめと言わんばかりに愛でるように頬を撫でられてなまえは足の先まで真っ赤に染めた。そんな彼女を優越に浸りながら眺めた鬼灯はなまえから離れたが、瞳は返事を待つように寄せられたままだ。 声も出せず、金魚のように口を開閉させるなまえはこくこくと何度も頷くだけで精一杯で、両手を頬に当てながら俯いてしまった。 なまえに手を伸ばそうとした鬼灯を遮るように、甘い空気がたゆたう2人の間に割り込んだ白澤は指を突きつけて声をあげる。 「お前何だよ、僕がなまえちゃんにイロイロと教えてあげるつもりだったのに!」 「純粋に薬学について指南するのなら口出ししませんが、貴方の場合淫行に走らないとも言えないでしょう。 というかお前が彼女に近づくことすら癇に障る」 「その言葉そっくりそのまま返すっつーの!!それに淫行なんて………する訳ないだろ!」 「今の間は何だ」 その意味深な空白に、鬼灯は斬りつけるような眼差しをぎっと白澤に向けた。 言い合いだけでは飽き足らず、白澤の人差し指を真逆に曲げようとぎりぎりと力を込める鬼灯を他所に、大分熱が収まって来たなまえへお香が近づく。 「なまえちゃん真っ赤ねェ」 「お、お香さん……すみません。私、態度悪かったですよね…」 「気にしなくていいのよ。でもねなまえちゃん、確かに私は鬼灯様と一緒にいる時間が長いわ。だから特別仲がいいと思うかも知れないけれど、彼の心の1番深いところにいるのはなまえちゃんなのよ」 「……」 「なまえちゃんの話をする時の鬼灯様の顔ったらないわァ」 鬼灯との会話で必ず話題にのぼるのは、彼にとっての唯一であるなまえのこと。 傍目から見れば変わり映えのしない無表情なのだろうけれど、言葉の節々ににじむやわらかな声音や、ふとした瞬間にゆるむ瞳はなまえだけに向けられるものだ。 といっても鬼灯のかすかな変化が感じ取れるのは付き合いの長いお香や閻魔くらいのものだし、当の本人を前にしては決してのぞかせない表情だから分かりにくい部分もあるのだろうけれど。 くすりとたおやかに微笑をもらしたお香にまぶたを瞬かせたなまえは、ほのかに赤みの残る頬をゆるませながら、未だに白澤との間に火花を散らせる鬼灯をいとしそうに見つめる。 「何ですか?」 「いえ、何でもないです。それより東洋医学のこと、ちゃんと教えてくださいね?」 「ええ、もちろんです」 そう答えた鬼灯の虹彩にあまやかな光がゆらめいたのを認めたなまえは、嬉しそうに顔をほころばせたのだった。 |