小説 | ナノ




これの続きです

大浴場から出て、まだしっとりと髪を濡らしたまま廊下を進む。
ほかほかと心身ともにあたたまって上機嫌で歩いていると、前方から鬼灯がやって来るのを見つけてなまえはぱっと表情を明るく照らした。いつも通り逆さ鬼灯を背負ったその姿にこれから風呂だろうか、と首を傾げる。


「なまえさん」
「鬼灯様、お風呂ですか?」
「いえ、貴女を探していたんです」


そう言ってなまえの濡れ髪に顔を顰めると、貸しなさいとばかりに肩にかけていたタオルを奪われる。

頭にふわりと被せられて思わずまぶたを伏せる。
もしかして乾かしてくれるのだろうか、とこの人に淡い期待を抱いたのが間違いだった。布越しにそっと触れられてとくんと心臓が鳴った、とその時。
がしがし、とそれはもう手加減なしに髪を拭われて視界がぐらぐら揺れる。毛と共に頭皮も剥がれるのではないかと思うくらいのそれに何とか耐え切ると、すっかり乾いてしまった髪を整えた。


「ちょ、痛いです鬼灯様!」
「髪を濡らしたままでは風邪をひくでしょう。…ああ、自分が馬鹿かどうか試していたのですか?これは余計なことをしました」
「違います!もう、意地悪なんですから…」


なまえとは違うごつごつした大きな手だとか、いつも少しの距離をあけて眺めているだけだった漆黒がほんの間近に広がる眼前だとか、そのあまりに近すぎる距離だとか。
きっと普通の恋人同士ならこれだけでお互いにどきどきするのだろうけれど、鬼灯に"普通"を求めていたらいとも容易く裏切られるということをこの1ヶ月で思い知った。

そんな一筋縄ではいかないところも、すきなのだけれど。


「それで、私を探していたって…?」
「…貴女のだらしなさに忘れるところでした。これを」
「これは?」
「今日は何の日かわかりますか、お馬鹿さん」
「…あ」


ホワイトデー、だ。同僚も何だか浮かれていたことを思い出す。
鮮やかな包装紙に綺麗に包まれたそれを差し出され、緊張しながら受け取る。
大きさの割りには随分軽いけれど…何だろう。
頬を紅潮させ、そわそわしながら包みをひっくり返したり眺めたりするなまえに、呆れたような眼差しを投げた鬼灯が声をかける。


「開けないのですか」
「え?いいんですか?こういうのって照れるから1人で開けてくださいっていうのが定番なんじゃ」
「なまえさん雑誌か小説に影響されすぎでしょう。第一私が照れるところを想像できますか」
「……いいえ全く」
「早く反応が見たいんです。貴女の喜ぶ顔が」


思いがけないその言葉にとくんと心臓が跳ねて、顔が熱くなった。涼しげなその瞳をじっと向けられるからますます熱がたまってしまう。
かすかに指先を震わせながら包装紙をはがしていくと。

中から出てきたのは細い束を長く編み込んだ―…


「縄」
「麻縄です」
「しかも痛い方!ほ、本とかしばるのに便利ですよねー…」
「なまえさんを縛るに決まっているでしょう。そんな、本なんて面白くない」


言いながらそれをなまえの細い首にぐるりと緩く巻きつける鬼灯。麻がちくちくと首筋を刺す感触にもう嫌だこの人、と鬼灯を見上げる。


「これがバレンタインのお返しですか?一般的にはお菓子とかなんじゃないんですか…」
「マニュアル通りの恋愛ほどつまらないものはない」
「上級すぎて私には難しいです…」


なまえの言い分を気持ちいいくらいすぱっと切り捨てる鬼灯。そんな彼にがくり、と肩を落とすなまえを慰めるように手のひらが優しく頭を往復する。

こうして頭を撫でられるのはとても嬉しい。先ほどとは違うやわらかな仕草にたまらなく胸がときめいて、顔も火照ってしまっているけれど首に走るかすかな痛みとまとわりつくその感触がなまえを無情な現実へと引き戻す。

ぐすんと鼻を啜りながら手持ち無沙汰に麻縄を弄っていると、小さく首を傾けた鬼灯が口を開いた。


「それでも貴女は必死に食らいついてきますね」
「それは、…すきだからです」
「私もそんななまえさんが好きですよ」


くつり、と喉を鳴らした鬼灯に唐突に右手を取られて顔をあげる。
手に触れるぬくもりに心音を高鳴らせながら相も変わらずの無表情な顔を仰げば、薬指にするりと通された冷たくてすべらかな何か。

慌てて目を落とすと、なまえの右手に光る銀色のそれに思わず間の抜けた声をあげてしまった。


「え、これ、」
「今日は確かにホワイトデーですが、私たちの記念日でもあるでしょう」
「…あ」
「全く、こういうのは女性の方がうるさいというのに貴女は…」


彼女らしいと言えばらしいが。
見下ろせばなまえは頬を桜色に染め、夢見心地のようにとろりと虹彩を溶けさせている。喜んでくれたのならそれに越したことはない。
鬼灯はちらりとなまえの首筋に目をやった後、聞き取れないほどの小さな声でぽつりと囁いた。


「まあ、それも拘束具みたいなものですか」
「え?何か言いました?」
「いいえ、何も。…気に入りましたか」
「はい!…とても」


幸せそうにとろけるような笑顔を咲かせたなまえは、持ち上げた薬指の根元を一周する白金にやわく緩めた瞳を寄せる。
首元にからみつくそれと同じように、鬼灯に縛りつけるためのものだとは気がつかないまま、いとおしそうな眼差しを銀色に注いで。
彼女を自分に繋ぎとめる、光を弾くその円環に鬼灯はゆるりと目を細めた。


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