小説 | ナノ




これの続きです


何ごともなく日々は過ぎ、やって来ましたバレンタイン当日。


「ど、どうしよう…」


なまえと同じく想いを伝えることを決めた同僚に指南されながら作ったチョコレートは何とか形になった。それはいいのだが、あの食堂での出来事が夢だったのではないかと思うほどに鬼灯の態度は変わらない。いつも通りこき使われ失敗すれば容赦なく罵られ、の毎日だ。
あの時は自分とは思えないほどのやる気に満ちていたのだが、胸にあった微かな勇気もすっかり萎んでしまっていた。


「ううん、か覚悟を決めるんだ…もし夢でも…そう、義理って言えば!」


寧ろ義理チョコのつもりで呼び出した方がいいのかもしれない。そうだよ、心をあげるとか言っちゃったけどそれは義理の心ということで…!


「いや義理の心って何…ったあ!」
「何をぶつぶつ言っているんです、働け」


失礼にもほどがある、と1人突っ込みを入れているとぱこん、と気持ちのいい音が響く。頭に走る軽い衝撃に背後を振り返れば切れ長の瞳をこちらに向ける鬼灯が姿勢良く佇んでいた。
手に持った巻物で頭をはたかれたのだと気がつき頬を膨らませる。


「ちょっと考え事してただけですよ、いきなり叩かなくてもいいじゃないですかー…」
「今日中に仕上げなくてはならない書類が貴女のところで止まっているのですが?残業をご希望ですか」
「わああ今やります!」


慌てて手元の紙に印を押しつけるなまえをちゃんと確認しなさいと叱る鬼灯はやはりいつもと変わらない鬼上司だった。
今日の約束など忘れたのかそれとも都合のいい夢だったのか、と首を傾げるなまえをちらりと見やった鬼灯は口を開いた。


「それで今日のことですが」
「…!?は、はい?」
「仕事が終わったら私の部屋に来なさい」
「は…」
「いいですね」


ぽかんと口を開けたまま鬼灯を見上げるなまえの額をぺしりと叩き、返事は必要ないとばかりに踵を返す背中を呆然と見送る。
どうやらなまえが自室に訪れることは彼の中で決定事項となっているらしい。触れられた額から熱が広がり、火照った頬と胸の中心で暴れる心臓に反応を示す余裕もなく、残業だけは絶対に避けねばならないとただ黙々と捺印をこなすしかなかったのだった。





「うー……あー…」


鬼灯を逆さにした絵が描かれたドアの前で唸りながらうろうろと立ち往生する今のなまえを見れば誰だって不審がるだろう。なまえにもその自覚はあるけれど、異性の部屋になど足を踏み入れたこともないのに緊張するなという方が無理な話だ。
いやこのままここで迷っていても仕方ないのだ、女なら腹を括れ、と震える手で扉に手を伸ばしたそのとき。


「いだ!?」


真っ暗に塗りつぶされる視界と強かに打ち付けたであろう痛みが顔面を襲い、堪らずその場に蹲ったなまえに涼しげな声が降りかかる。


「おや、自分から突っ込んでくるとは…なまえさんは被虐性嗜好がおありで?」
「違います!というか鬼灯様が急にドア開けたから…!」


痛いと瞳を潤ませるなまえを立ち上がらせ、涙目もいいですね、などと不穏なことをさらりとのたまう鬼灯に背筋を震わせる。

…よく考えたらこの状況は少しおかしくないか。チョコレートを贈るだけなら何も部屋に誘うことはないし、渡すときは当然想いを伝えることになるだろう。では其の後は?断られるなら出て行くだけだが、先日の会話を思えばどうだろう。なまえの好意を受け入れてもらえるのではないか。もしも仮にお付き合いすることになって…そんな男女が同じ部屋に2人きり、となる。
なまえの乏しい恋愛知識を絞り出せばどことなく身に危険が迫っているのではという考えが胸を過った。


「まあこんなところでは何ですから、どうぞ中に」
「いいい、いいです、ここで渡します!」
「は…?……ああ、動かないと思ったら変なことでも考えていたんですか。このド変態」
「どへんた…!?」


思わぬ罵りにショックを受けている内に手を引かれ、無情にもぱたんと背後で閉まる扉。死刑宣告のようなその音を耳に響かせながら、ここからは死んでも動かないと心に決める。…死んでるけど。


「じゃああの、これチョコです」
「どうも」
「あと、えっと……すき、です」
「…私もですよ」


ほのかに、微かに口元を緩ませた鬼灯に心臓が跳ねた。
長い間心に留めていたほろ苦さを含んだ恋慕を受け入れてもらえたのだという嬉しさが胸に広がる。甘みを含んだ穏やかなあたたかさが心に灯った。


「ところでなまえさん、交際経験は?」
「はい?な、ないですけど」
「でしょうね」


ふっと嘲るような声音で返されてかちんと頭にくるが、ないものはないので何とも言えず鬼灯を上目に見る。
いつの間にかなまえの頬をするりとなぞる指先がくすぐったくて目を伏せながら唇を尖らせた。


「悪かったですね」
「悪いとは言っていないでしょう。寧ろこれからが楽しみというものです。…では貴女の初めては全て私がいただくということでよろしいですか」
「え、…ん」


鬼灯の言葉に目を見開くと同時に柔らかく重なりあうそこ。ぬくもりを移すような触れるだけの口づけに顔が、全身が熱くなっていく。


「男の前で簡単に目を閉じるものではないですよ」
「え…?」
「教えることが多そうですね」


細められた艶やかな瞳をなまえに向ける鬼灯にもう1度顔を寄せられ、落とされた唇に痛いほど心音を高鳴らせながらそっとまぶたを閉じた。


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