長編 | ナノ


  フェリックス・フェリシス


先に君の誕生日を読んで



 ふと、思い立って棚から引っ張り出した小さな瓶には、金色の液体が満ちている。確か、フェリックス・フェリシスといったはずだ。ソフィアが誕生日プレゼント、と渡してきた魔法薬。『飲めば企の全てが成功する』らしい。

「……柄でもねぇか」

 こんなものに頼りたくなるのは、ソフィアが未だにその姿を見せてくれないからだ。相変わらず、断片的な目撃情報しか掴めない。
 海軍と交戦しただとか、ルーキーと一緒にいるところを目撃されただとか、島に蔓延する流行病の封じ込めをしただとか、ソフィアの噂話はあれこれと突飛な内容が多い。たぶん、全部本当のことなのがまた笑えない。

「いや……。使える手はなんでも使う……、なら、これもその一つか」

 ソフィアの言った通り、幸運には限度があるとしても、その小さな可能性を逃したくはなかった。たとえ、僅かでもソフィアの手掛かりが掴めればいい。振り出しに戻され続ける捜索に、何か突破口が開ければ。
 使えるものは何でも使ってやる、そんな覚悟と共に小瓶の中身を飲み干した。

ーーーーー

 あの薬の効果なのか、軽い足取りに任せて島を探索する。ソフィアがここで海軍と交戦したのが一週間前。最後に薬屋を訪ねたのが五日前。今のところ、手に入れた情報はそれだけだ。
 用心深いソフィアのことだ、海軍と交戦したのなら、もうとっくに別の島に行った後かもしれない。それでも、どこに向かったのかくらいは掴めないか、と宿屋や食堂、商店に足を向けた。

「……収穫なし、か」

 ソフィアが行きそうなところは全て訪ねたが、情報はほとんど得られなかった。何日か前に見た、というそれだけ。結局、路地裏で一人ため息をつくことになってしまった。また、無駄足だったらしい。

「にゃおん」

「……なんだよい、猫か」

 ふと、鳴き声に惹かれてみれば、店の裏口に置かれた木箱の上に猫がいた。銀色のような、灰色のような、不思議な毛並みの猫は、にゃあ、とまるでおれを呼ぶように一声鳴いた。

「飼い猫か? 懐っこいやつだな」

 そっと手を伸ばしても美しい猫は逃げ出そうとはしなかった。どこかの飼い猫だろうか。よく手入れされた艶やかな毛並みをしている。怒らせないように顎の下をくすぐって確認してみたが、首輪はなかった。

「……なぁ、お前さん、ソフィアを見なかったかよい」

 おれの恋人なんだ、と猫相手に聞いたところで答えがあるはずもないが、ふとそんな言葉が口をついて出る。そっと艶やかな毛並みを撫でてやりながら、口が勝手に本音をこぼしていた。
 ソフィアを愛していること、あいつを信じきれずに後悔していること、叶うなら、また共に過ごしたいこと。ぽつりぽつり、と吐き出される言葉を、理解しているのかいないのか、小さな猫は、にゃおん、と相槌のように可愛い声で鳴いた。

「大事にしてやりたかったのに、どうしてこんなに上手くいかねぇんだろうな」

 重たいため息をつけば、猫のざらついた舌が手のひらを舐めた。これは、慰めてくれているんだろうか。
 お前、かわいいやつだな、とそっと撫でてやれば、心地よさそうに赤い目を細めた猫は、甘えるようにおれの手に擦り寄ってきた。

「……ソフィア。帰ってきてくれねぇか」

 今度こそ、もう二度と、お前を手放さないと約束するから。なにがあっても、おれだけは、絶対に味方でいると誓うから。
 なぁ、ソフィア、とその場にいない女に語りかけたところで、返事があるわけもない。
 ただ、手のひらに戯れついてくる猫が、ソフィアの代わりに、にゃあ、と鳴いた。


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