青い空。
白い雲。
熱中症喚起の看板。
照りつける眩しいばかりの太陽を見上げ汗を拭った俺は、爽やかな風を感じていたんだ…。
「待てゴルァ!」
「来ないでよ、バカーっ」
こんにちは松原瑪瑙です!
ただいま絶賛全力疾走中の俺は、爽やかな風なんかじゃなく、ヒリヒリする様な熱風を掻き分けながら、肺を痛めていました。変な汗が滝の様に流れまくってますっ!
「待てっつってんだろ!犯すぞテメェ!」
ヒィ!
無精髭なんか生やして、ちょっぴりやつれた朱雀先輩は、その辺のヤクザも逃げ出すんじゃないかってくらい恐ろしい顔で、追っ掛けてくる。
まだ逃げ出して数分くらいだけど、このままじゃ追い付かれるのも時間の問題だ。何せこの俺ですから。
「どうしようどうしよう、ぜぇ、はぁ、うう、筋肉痛で走れないのにーっ、はぁ」
実は俺、何でかここの所ずっと筋肉痛に悩まされてます。今になれば旅館からの山道にあんな時間懸かったのも、この筋肉痛が原因だ。
祖父ちゃんの顔見たら安心しちゃって、泣きながら寝た俺だけど、起きたら全身が死ぬほど痛くてさ…。祖父ちゃんが朝ご飯作ってくれてる間、お風呂で揉んだけどあんま効果なかったみたい。
「あ、すみませんっ、あ、ごめんなさいっ」
自転車とか電柱々とかにぶつかりそうになりながら、ヨロヨロ走り続けた俺は、くらりと眩暈を感じて倒れ込む。あ、ラーメンの味が…上がってきた…。
「まめこ!」
「おぇ」
「おい、大丈夫か?!まめりーなっ」
殺人的暑さのアスファルト寸前で、朱雀先輩に抱き留められたらしい俺は、汗の匂いに包まれた。
クラクラしながら先輩を見上げれば、さっきまでの凶悪な顔じゃなくて、物凄く困った目をしてる今は、優しそう。
「ひゅっ。せんぱ…せんぱぁい…」
「どうしたまめこ!」
「気持ち悪…っ、吐きそ…」
「ちっ、掴まってろ。どっか涼しい所に…」
抱き上げられる感覚。ちょっと唾を呑むだけのつもりだったのに、先輩の胸元で俺は派手にゲロったみたいだ。
ぎょっと振り返る通行人から見られて、口を押さえながら泣きそうになる俺に、朱雀先輩は何も言わない。
お姫様抱っこから赤ちゃん抱っこに変えさせられて、ぽんぽん背中を叩かれた。
「せんぱ…」
「待ってろ、飲みもん買ってくる」
漸く下ろされたのは、屋根のあるバス停のベンチの上。夏休みだからか、バス停には俺しか居ない。
すぐ近くの自動販売機の前に立ってる先輩は、暫くして不機嫌な表情で戻ってきた。飲み物っぽいものは持ってない。
「…クソ土田舎が、万札も電子マネーも使えやしねぇ。まめた、行くぞ」
先輩の高そうなシャツに、ナルトが付いてた。俺が食べたばっかのラーメンの具だ。なのに先輩は気にした風でもなく、俺を抱っこしようとする。
無意識で顔を逸らした俺は、また吐きそうになって口を押さえた。
「おい、大丈夫か?!」
「う、ぇ」
「しっかりしろ、まめな!何かねぇのか畜生、あ」
背中を叩いてくれてた先輩が居なくなって、意味もなく悲しくなった俺はボロボロ泣きながら、汚れてたホッペを擦る。
昨日はあんまり食欲がなくて、小林さんに奢って貰ったハンバーグは双子に取られちゃったりしたから、実際、殆ど何も食べてなかった。
お昼ご飯もそこそこに、先輩のお兄さんが困ってたけど、布団に潜って不貞寝してさ。だから脂っこいラーメンで、気分悪くなっちゃったのかも。
「兄ちゃん、ナルト付いてるよアンタ。美丈夫が台無しやわ、これで拭きなさいよ」
「いや、お構いなく。すいません、万札で良いですか?」
「あら、困ったねぇ。おつりが足りない」
「じゃ、釣りは要りません。これだけ下さい」
「ちょっと、困るよそれじゃ!水一本で一万円なんか貰えないよ!煙草買っていきな、吸いそうな顔してるし」
「釣りはマジ良いんで、すいません、じゃ」
車道の反対側の煙草屋さんから、ペットボトルを持った先輩が走ってくるのが見える。お店のおばちゃんが何か叫んでるけど、先輩は真っ直ぐ俺まで近付いてきた。
「まめよ、これで口濯げ。朝からラーメンなんか食ったのか?」
「先輩、おばちゃんが呼んでるよ?」
「あ?」
「…買わないの?」
「気にすんな」
無言で笑った先輩が俺の頭を撫でる。本当に、禁煙してるんだ。前は近寄っただけでぷんぷん煙草の匂いがしたのに、今は汗の匂いしかしない。
ペットボトルのお水でうがいして、半分くらい一気飲みした俺は、クタリとベンチに背を預けた。
目覚ましテレビで言ってたけど、今日の中国地方は日本一暑いんだ。
いやもう、本気でかなり暑いもん。祖父ちゃん家はクーラー効いてたから、熱々のラーメンも啜れたけど…。
「何か他に欲しいもんあるか?」
笑顔の先輩はアスファルトの上でヤンキー座りして、俺の髪を梳きながら首を傾げた。何を言ったら良いのか判らない俺は色々考えてる内に、カラオケルームで先輩に踏みつけられてた、お兄さんの事を思い出したんだ。
そう言えば、何でお兄さんと父ちゃん、マイク握ってたの?チラッと見ただけだけど、凄く酔っ払ってたみたいだし。
「然し、こっちも暑ぃな…」
「ぁ、の」
「あ?何だ」
「先輩、お兄さん良かったんですか?酔っ払ってたぽかったけど…」
「兄さん?誰の?」
「えっ?誰って、」
「ちょいと、そこ兄ちゃん!良かった、まだ居たね!」
俺のゲロが付いてるシャツのボタンを外して、パタパタ胸元を扇いだ先輩を見てると、車道を渡ってきたメタボなおばちゃんから、ジュースとかお菓子とか目一杯詰まった袋と、千円札を何枚か押し付けられた。
「煙草の銘柄が判んなかったから、はぁ、あるだけ商品入れといた、はぁ、から…。それじゃあね…」
「えっ?えっ?あのっ」
この短距離ではぁはぁ言ってるおばちゃんは、そのまま手を振って帰ってしまって、俺はどうしていいか判らない。
「先輩っ、おつり、おつりだよっ。お菓子とコーラと、えっと、サイダーと、お茶がいっぱい!」
「あー、律儀なバアサンだな。貰っときゃ良いのに。大阪のババアだったら喜んでんぞ、普通」
「タオルも入ってるよ?売り物じゃない奴、みたい」
ばっちい先輩にサービスしてくれたのかな?サイダーをゴクゴク飲んでる先輩に、俺はタオルを掴んだ。とにかく拭かないと、臭ってる…。
「ね、ちょっとこっち向いて」
「ん」
「ごめんね、俺の所為で…」
「気にすんな。こんぐれぇ、謝らんで良い」
「うう…こびり付いてる…。先輩、ばっちいから脱ごうよ。早く、早く!」
「おい、おま、こんな所で…大胆な奴だな…」
しっかり筋肉が付いてる先輩の腹筋に目を奪われながら、俺は必死で先輩のシャツを脱がした。
ん?
ARMANIって書いてある?あるまに?…もしかして、アルマーニ?!
「まめな」
「うわぁ、どうしよ!これって、あのアルマーニ?!本物?!アルマーニにゲロしちゃったの?!ひぃ」
「まめっと!」
まめっと?
何なのその呼び方、って吃驚してる俺は、何故か先輩のシャツを抱き締めたまま、ベンチに押し倒されていた。
うわぁ、格好いいなぁ、朱雀先輩。
一ヶ月以上振りに見たのに、凄く格好いい。
「朱雀先輩…」
じょりじょり、先輩の短い髭を撫でてみた。
金髪なのに髭はやっぱり黒くて、よく見たら生え際も黒い。ずっと染めてなかったのかな。
「マーナオ」
先輩の唇が動いて、先輩が近付いてきた瞬間、アラームみたいな音が鳴った。ピリリリリって音は、先輩から聞こえてる気がする。
舌打ちした先輩がズボンに手を突っ込むのを見た俺は、無意識に先輩へ手を伸ばしていたんだ。
「お、い」
先輩が物凄くビックリしてる。
両手で挟んだ先輩の顔にグイッと近付いた俺は、とんでもなく長い様な短い様な、とにかく心臓が壊れそうな時間、朱雀先輩にキスした。
死にそうな恥ずかしさを耐えて唇を離せば、目をかっ開いた先輩はカキンと固まってて。
鳴り続けてるスマホを握ったまま、動かない。
「あの、ね。先輩」
おばちゃんから渡されたお釣りのお札を意味なく折り畳み、先輩のズボンのポッケに突っ込みながら俺は、何故か笑ってる。
「俺、先輩以外の人と、エッチしたんだよ」
ピクッと動いた先輩の、緑の目に『信じられない』って書いてた気がした。
でも、すぐに目を逸らした俺は先輩の下からもぞもぞ起き上がって、笑ったまま。
サイダー零れちゃった、勿体無い…なんて。
変な事、考えてる。
「これで笑えたら、先輩、俺のこと好きになってくれるんだよね?朱雀先輩、誰と浮気しても、戻ってきてくれるよね?」
あ、凄い驚いてる。
驚きすぎて、頭の中グチャグチャになってるって、そんな顔。
格好いいなぁ。
やっぱり、好きだなぁ。
これが俺のものになるんだったら、何でも我慢出来るんだろうなぁ。リサさんみたいな美人だって、そう言ってたんだもん。
「でも、ね、朱雀先輩。俺、やっぱり無理…みたい。先輩以外となんて、やっぱり、やだ。死にたくなるんだよ…」
ホッペが、ひんやりした。
ギラギラ輝いてるお日様は、半透明なバス停の屋根じゃやっぱり意味なくて、とっても暑い筈なんだけど。
「俺、先輩が大好きだったけど、もう、やめたんだ。…これからは、身に合った人を好きになるよ」
笑ってる。
俺、めちゃめちゃ笑ってる。
ホッペが痙き攣って、ホッペの筋肉が凄く痛いけど、でも、やめられない。
「ごめんね、先輩。先輩に相応しい人間になれなくて、ごめんね…」
ポタポタ。
太股の上に落ちた何かが、祖父ちゃんから借りた甚平のハーフパンツを濡らしていくのを見た。
「な、に」
「ひ、ひっく」
「何、言ってんだ?お前、俺より日本語おかしいぞ」
先輩の手が、伸びてくる。
はっと顔を上げた俺は慌てて手が届かない所まで離れると、呆然とした表情で見つめてくる先輩をもう一回だけ見やって、頭を下げた。
「せ、先輩。お幸せに…。さようならっ!」
綺麗な女の人と、どうか幸せになって下さい。
やたなぁ、嫉妬丸出しだ。後腐れなく決めようと思ったのに、これじゃ、未練たらたらな俺に気付かれたかも知れない。
先輩が俺を呼ぶ声が聞こえたけど、俺は筋肉痛を忘れて必死で走った。
死ぬほど走った気がするけど、実際、五分もしない内に見えてきた実家に駆け込んだんだ。
「メェ!」
「まっつん!」
玄関に上がった瞬間、久し振りに見た様な気がする親友二人に気が抜けて、俺は座り込む。
涙目のかわちゃんと、ほっとした様なうーちゃんに、そろそろと手を伸ばした。
「か、かわ、ちゃぁん…!うーちゃぁん!うっ、うわーっ!うわぁぁぁん!」
「メ、メェ、どうしたの?朱雀の君に何かされたの?!」
「朱雀の君からいきなり奪われたにしては、時間が短すぎないかな、かわちー」
かわちゃんに泣きながら抱き付いた俺に、うーちゃんはヨシヨシ頭を撫でてくれる。
居間からハラハラした表情でこっちを見ていたチビ達が、大声で泣いてる俺に感化されて、シクシク泣き出した。
「に、兄ちゃん…」
「兄ちゃぁん」
「あの金髪に泣かされたんだっ」
「ちくしょう!兄ちゃんを泣かしたアイツは、ライダーキックで倒してやるっ」
かわちゃんは困り顔で、うーちゃんはチビ達を宥めながら、やっばり困り顔だ。飛び出していこうとした琥珀を、何とか宥めてる。
「うっうっ、うぇっ、朱雀先輩、朱雀先輩っ、うぇ、うぇぇぇん、せんぱぁい!ひっ、ひっく」
「メェ、とりあえず話を聞いてあげるから、二階に行こう。前にお邪魔した時、二階にメェの部屋があったよね」
「はいはい、瑪瑙お兄ちゃんは大丈夫だから、皆は向こうで待っててね。川田のお兄ちゃん、怒ったら鬼だから」
「海陸、後で覚えときな…」
階段を登りながら俺は、祖父ちゃんが言ってた転校の話を本気で考えていた。
けれどやっぱり、ほんの少しでも先輩の近くに居たいから、俺はきっと寮に戻るだろう。
俺は多分、一生。
先輩以上に誰かを好きになる事なんて、ないと思う。
本当に、どこまで馬鹿なんだろ、俺って。