「ねね」
「何?」
「ねね」
「だから何?」
携帯ゲームを凝視する背中に、亀甲縛り姿で正座したオタクが黒縁眼鏡を曇らせた。
縛るだけ縛って放置とか、何処まで鬼畜なんだろう、我が親友は。流石ご主人様だ。
「心が凍りそうざます」
「あ、丁度炎天下だからいっそ凍ってくんない?いつも暑苦しいんだから、お前さん」
「山田太陽副会長、ご存知でしょうやら。実は我が左席委員会が現在勢力を上げてハスハスしてる希望の星、もといメニョたんが、貯めてたお小遣いで旅行に出掛けるとか」
「へー。」
タイヨーちゃん。
もっと僕を構って欲しいにょ。
「掴んだ情報では、大阪に行くそうですん。大阪はテラやばいリスキーダイスの縄張りですにょ」
「どうせ松原君にGPSとか盗聴器とか付けてるんだろ?で、大河が居ない今、お前さんは『どっち』でフラグ立てるつもり?」
「あ、はい。最近ずっとオタクでしたので、たまには本気でやろうかと」
目を見開いた太陽が漸く顔を上げ、まじまじと微笑むオタクを見やる。
「つまり、松原君に死なない程度の毒飲ませて眠らせた挙げ句、大河は一人寂しく彼が目覚めるまで待ち続けるみたいな展開かい?!はぁはぁ」
「ふ、その程度では生温い。…俺の描く最高のハッピーエンドを、彼らに与えようじゃないか」
興奮した表情の太陽が満面の笑みを浮かべた。
「相変わらず、お前さんの本性は最低だねー!いいよ、卑屈で根暗で最悪最低だけど、期待してるぜー」
「卑屈…根暗…」
そんな切ないオタクは無視して、
「オードブルはフランス語。ではデザートは何語」
「食後。ぐはっ」
「馬鹿者」
ビシッと迸った火花、無表情で鋭く吐き捨てた男は握ったリモコンのボタンを、やはり無表情で連打した。
「我が大河の後継者ともあろう男が、何処まで情けない」
「糞…っ!手加減しやがれ、FUCK!」
「言葉遣いが汚い」
「社長、フランスのチェダー社と会食のお時間です」
「判った。我が離れた後も、この馬鹿を見張らせておけ。良いな」
「明白了」
つかつか、グレーのチャイナを翻し去っていった白髪の背中を忌々しげに睨み付けた男は、痺れた全身を奮わせゆっくり起き上がる。
だが然し、その両手両足には物々しい枷が施され、歩行は許されない様だ。
「…ち、くしょ!糞ジジイが…!」
眩暈で一瞬失い掛けた意識を無理矢理繋ぎ止め、壁に背を預ける。
彼の首に、白いストラップが見えた。何日着たままか判らないシャツの隙間から、そのストラップに付いた緑の何かが窺える。
「あー…」
四方にはコンクリートしか見えず、先程のチャイナ服の男が部下と共に出て行った扉は、内側から開けない仕組みになっている為ノブがない。
「つまらん所だ、相変わらず」
美貌をやつれさせた男の、不思議な色合いの双眸にはギラギラと猛禽類の光がある。隙あらば食い尽くすと言わんばかりの眼差しは、然し疲労の色濃い痩けた頬を隠しきれないらしい。
無精髭を手の甲で撫で、手錠で繋がれた両手をそのまま胸元のストラップへ伸ばす。
「マーナオ」
小さな豆のシンボル。
顔が書かれた緑のキャラクターは生意気な笑顔で、その先に付いている金属の留め金は無くなっていた。無理矢理此処へ連れてこられる最中、激しく抵抗した際に無くなったのだろう。
「もう何日顔見てねぇんだ…。クソ、最近可愛くなってっから、誰かに喰われちまってねぇだろうな…」
全身にはもう何の力も入らない癖に、平凡な思い人を思い浮かべた途端、あらぬ所だけ復活したらしい。
「まめ…いかん。思い出したら勃起しちまった。良し、抜くか」
「死ね」
ストっと朱雀の股関節スレスレに、忍者ご愛達のクナイが突き刺さる。全く微動だにしない変態はブラックタワーを堂々と聳えさせたまま、面倒臭げに天井を見上げた。
「んだよ、李じゃねぇか。さっさと助けろ」
「ふん、俺は王の命のみ遂行する犬。貴様の先など知らん」
「此処に居るっつー事は助けにきたんだろーが、その美月の命令でよ。とっとと解け、夏休み始まっちまうだろうが。俺ぁまめことラブホ巡りに行かなきゃなんねーんだ。判るか、童貞」
「死ね」
無表情でクナイを連投した黒装束に、ヒラヒラ避けた変態は舌打ちした。
「まめたのおまめ、ペロペロしてぇ。オメガウェポンぶっ刺して、思う存分バコバコしてやらぁ、畜生。泣かれたらどうしよう」
「黙れ生きる猥褻物。少しはこの状況を打破する契機を考えるべきだろう」
「汁まみれになったまめこで頭がいっぱいだ」
「やはり死ね」
長い足が、朱雀の腹を踏み潰す。黒頭巾から僅かに除く無表情な眼差しは射る様に冷ややかだ。
「テメ、俺のオメガウェポンが潰れたらまめりーなが泣くだろうが!とんでもない奴だ!」
「健全且つ純粋な交際をしろ。少女漫画を読め」
「健全で純粋な交際って何だよ」
「お前がそんな状態では、到底此処から出る事は不可能だ。天の君は愚か、ルークにも大河社長にも認めて貰えんだろう」
「んだと」
ふっと姿を消した黒装束に、苛立ちのまま壁を殴りつける。誰も彼も、何をさせたいのか、ヒントくらい与えてくれれば良いのに。
「糞が…」
会いたい。
会いたい。
毎晩毎晩、泣いている夢を見る。夢だろうが幻だろうが、二度と泣かせないと誓ったのだ。
「ふははははは!馬鹿が!お前はどうしてこう馬鹿なんだ朱雀ッ、我の愚かしい息子よ!もっと苦しむが良い!ふは、ふははははは!」
「うっせ、糞ジジイ!最低だなテメェは!息子を拷問して喜びやがって…!」
「何を言う、我は貴様の嫌がる姿が仕事よりも好きなのだ。ふは、一生小5漢字ドリルに苦しめられ続けるが良いわ!馬鹿が、やーい、馬鹿が!ふははははは!」
毎日毎日、律儀にやって来るムカつく父親に舌打ちするくらいなら、大嫌いな熟語を書き連ねた方がマシだ。
然しどんなに頑張っても、中国語と日本語はまるで違う。漢文は読めても日本語訳で苦戦し、古文は全く読めない。漢字ドリルも併用されている今、敵は日本だ。ジャパンだ。
「畜生…何日経ったんだ、マジで…」
無精髭が此処まで伸びたのは初めてだった。食事は出るが風呂にも入れず、明るくなると現れる父親にスパルタ教育を受けては折檻され、身体はともかく精神が限界に来ている。
「哀れなものですねぇ、ジュチェ」
久し振りに聞いた声に、コンクリートの上に倒れ込んだまま目を上げた。艶やかな長い黒髪を巻き毛にしたチャイナドレスの長身が、金髪の長身を従えている。
「…祭、テメェよくもジジイの味方しやがったな」
「吾は大河に仕える最高幹部ですよ。汝は所詮、甘やかされた子供。従えたくば次期社長としての力を身に付けなさい」
「覚えとけ、いつかぶっ殺す…」
情けない。情けない。情けない。
惚れた相手の傍に居る事も出来ず、毎晩見る泣き顔を慰める事も出来ず、散らばった書類に埋もれ衰弱するだけ。
「天の君より速報を届けます。汝が愛する子供、松原瑪瑙は大阪へ向かいました」
「…あぁ?」
「誰かの消息を知りたい様ですねぇ。どうも近頃覇気がなく、先日は階段から足を滑らせ転倒、医務室の世話になっています」
弾かれた様に起き上がったが、すぐに眩暈を起こして倒れ込む。食事を無視して漢字ドリルを優先した所為、だろうか。体が重い。
「マ、ナオ」
「汝が作ったつまらぬ組織、近頃は聞こえが悪いそうですよ。学生だけに留まらず、不特定多数に悪事を働いているとか…」
愉快げな声音に殺意が湧く。
ああ、そうか、全て自分の責任だ。楽しければそれで良いと、後先考えず行動してきた責任。
「リスキーダイスでしたかねぇ?ふふ、汝が作った組織が、汝の愛する者を傷付ける事なきよう、精々祈りなさい」
遠い。
日本は、海の向こうだ。
「カルマは愚か、ABSOLUTELYよりも脆弱な子供の群れ。…けれど平凡な子供には、大層恐ろしいでしょうねぇ」
伸ばした手は、見下してくる男を掴む事も出来ず、己の弱さを嘆くしか出来ない。
空っぽだ。
心も体も空っぽになった。なのに目の裏だけが燃える様に熱い。頭の中には泣き顔だけが犇めいて、けれど起き上がる事も悪態吐く事も出来ずに、ただ。
『ずちぇ』
繰り返すのは。
とんでもない事になった。
全力疾走で関西を駆け巡る松原瑪瑙、俺がどうして通天閣の周りをグルグル走り続けているかと言えば、話は単純。
「待てやゴルァ!」
「われ、リスキーダイスのスパイちゃうかゴルァ!」
「ぶっ殺すでほんま、待たんかいゴルァ!」
「ひ、ひぃい、関東人は待てと言われて待ちませんんん!」
夏休み四日目、三人で大阪見物に行こうと繰り出した矢先だよ。うっかり地下鉄で迷子になった俺は、どうせ目的地は一緒だから一人で行こうと息巻いて、降りる駅を間違えました。はい、良くある事ですよね。え?無い?
ポツンと降りた駅前で、泣く泣くかわちゃん達に電話して、滅茶苦茶怒られながらも合流する為に、有名な通天閣を目指した訳。
俺が居た駅はマイナーなとこだったみたいで、大阪初心者の二人には判んなかったんだ。ただ、デッカい通天閣が見えてたから、あれを目指せば間違いないって話になって、早速歩き出したんだよ。
そしたら、気弱そうなオジサンにカツアゲしてる不良が路地裏に居て、通行人は誰も見ない振りしてて、俺も見ない振りするつもりだったのにオジサンと目が合っちゃいまして。
なけなしの勇気を振り絞って、落ちてた空き缶投げつけたら、いつもは絶対当たらないのに、今回ばかりは不良さんに当たったんだ。然も、一番怖そうなスキンヘッドの不良さんに。
「待たんかわれぇ!東京もんなら容赦ないで、覚悟せぇ!」
「慰謝料や、踏み倒す気ぃやったらいてまうで!」
「回り込むんや!あん馬鹿とっ捕まえて、八つ裂きにしたらぁ!」
「ひぃ、ひぃいいい!お巡りさん、お巡りさぁんっ」
冷たいね、大阪。
泣きながら死に物狂いで走ってる俺を、誰も助けてくれない。皆、目を逸らしてる。
かわちゃん!うーちゃん!
走りながらスマホなんか操作するスキルないよ!ばか朱雀ーっ、何でガラケー買ってこなかったんだよ、あほ朱雀ーっ!
「ばかー!朱雀先輩のアホー!うわぁん、大河朱雀のスケベ変態不良ー!何であんな奴なんか好きになっちゃうんだよ、俺の馬鹿ぁ!」
「へー。何やの?お宅ホモなん?」
「総長、女も男も雑食やったもんなぁ。せやかて今度はこないなチビ餓鬼やの?」
「美人に飽きたんちゃうん?」
「ひゃはは!そらええ、今まで散々食い散らかしてきた報いや!」
え?
え、何でド派手な人達が俺を囲んで走ってんの?
然も全く息切れしてないし、全員、金髪で緑色のカラコンしてる。ちょっと、何か、どっかの変態みたいなんですけど?!
「あかん、ワシ走るの飽きてきた」
「うちも飽きて来たな。ちょい、そこのチビ捕まえといてや?ウザイの潰して来るわ」
「おー、うっかり殺してまうなや?アイツら最近ワシらの名前使うて好き勝手しとるっつー話や。気絶させて連れて行くさかい」
「面倒いなぁ、うち手加減好きやないんやけど…オラァ!雑魚がいつまでもキモい面で追い掛けて来るんやないで、ほんま!死ね!」
一番おっとりしてそうな金髪の人が般若の顔で振り向いて、追い掛けて来る不良さん達をボッコボコにした。
ビックリし過ぎて転けた俺に、可哀想なものを見る様な目で屈み込んできた他の金髪さん達が、ガシッと掴んでくる。
「あれ?コイツ、総長と同じスマホ持っとるで」
「ちょい待ち、クレジットカードか思うたら、総長の学校とおんなじ校章が入った…これ学籍証やわ」
「えー?あっこ進学校ちゃうん?んな馬鹿そうな餓鬼、ほんまに帝王院の生徒?」
ジロジロ見つめられて、ヒッと息を呑んだ俺に、不良さんをボッコボコにした金髪の人が近付いてきた。
「うちらリスキーダイスっつーチームのもんやけど、お宅は誰?」
「リ、リスキーダイスって、朱雀先輩の?!」
目を見合わせた金髪が、揃ってニヤリと笑った。うん、怖すぎる。