星降る夜に君に逢えたら(4)


Chapter4:輝く場所は舞台の上


「ねえトキヤ〜、なんかトキヤ宛てに荷物届いてたよ」

寮に戻ってきたトキヤに、音也が声をかけた。彼が指差した先には一抱えほどもある段ボール箱があった。
荷物など心当たりがない。不審に思って伝票を見ると、見覚えのある名前が記されていた。
「氷室さん……」
「誰?知ってる人?」
「HAYATOのマネージャーさんです」
箱を開けると、中には手紙がぎっしりと詰まっていた。一番上に置かれていた手紙を手に取る。封筒には氷室の字で「HAYATOへ」と書かれていた。

『事務所に届けられたファンレターを送らせてもらった。
大変だと思うが、これを見て元気を出してほしい。お前のことを応援してくれてる人はたくさんいる。
落ち着いたらまた事務所に来てくれ。話をしよう。今まで言えなかったことも全部話そう。そして、これからのことも』

これからのこと。その文字列を何度も読む。今までずっと避けていた話題だ。事務所は真剣にこれからのことを考えてくれている。たとえ稼ぎ頭の「HAYATO」が事務所を離れることになるとしても、きっとトキヤの気持ちを汲んでくれるだろう。そんな気がした。

箱の中に詰まった手紙はすべてHAYATO宛てのファンレターだった。一通ずつ開けて読んでいく。
『テレビとかでいろいろ言われてるけど、私はずっとHAYATO様を応援しています!頑張ってください!』
『HAYATOくんは私の希望です。HAYATOくんの歌に救われました。またHAYATOくんの元気な姿を見られることを願っています』
『報道を見て、正直戸惑いました。私が好きだったのは誰だったんだろうって。だけど、HAYATOでも、一ノ瀬トキヤでも、あなたはあなたです。あなたを好きな気持ちに変わりはありません。これからもずっと応援させてください』

HAYATOを非難する言葉もあった。悲しみや怒りをぶつける手紙もあった。だがそれ以上に、HAYATOを応援する言葉がたくさん並んでいた。HAYATOの明るいキャラクターに元気付けられたこと。HAYATOにもう一度歌ってほしいこと。どれもがファンの正直な感情だった。ポジティブな感情もネガティブな感情も、すべてがHAYATOに向けられたものだ。抱えきれないほどの「愛」がそこにはあった。

「……トキヤ、もしかして泣いてる?」
「泣いてません」
「めっちゃ涙声じゃん」
「泣いてません!」

手紙を抱きかかえながら、トキヤは何度もティッシュで目元を拭った。
HAYATOの一件で報道があってから、ひたすら外部の情報を遮断してきた。テレビもネットも見ようとしなかった。自分を非難する言葉に触れて、心を揺らがせたくなかったからだ。
ずっと自分の内側にしか向き合ってこなかった。HAYATOとハヤト。そして自分自身と向き合い続けた日々だった。
――だが、そろそろ終わりにしていいだろう。これからは外の世界に自分を開いていく時だ。自分を支え、応援してくれている人たちの言葉に耳を傾けなくてはならない。
どんな言葉も、どんな感情も、受け止めたいと思った。


◆◆◆


季節は移り変わり、気付けばカレンダーは11月になっていた。秋は深まりを見せている。それと同時に、二人の作曲作業も大詰めに入っていた。
楽譜と睨めっこをしている最中、トキヤが思い出したように口火を切った。

「そういえば、前に、次の連休は空いてるって言っていましたよね」
「ああ。なんかあるのか?」
「もしよかったら……私と一緒に福岡に行きませんか?」
「は?」

突拍子もない申し出に、砂月は目を白黒させる。集中のしすぎでとうとう頭がおかしくなったかと思ったが、砂月ににじり寄ってくるトキヤの目は真剣そのものだ。というか何故にじり寄ってくる。
「福岡、まだ行ったことはないですよね」
「基本的に遠出しないからな……てかどういう風の吹き回しだ?福岡ってお前の地元だろ」
「ええ。簡単な観光案内ならできますよ。なんなら宿泊費も交通費も私が出しますし、……そうですね、今ならお土産代もサービスします。行きましょう。いいですね?」
どこぞのテレビショッピングかと突っ込みたくなるような言い回しだ。圧が強い。砂月は思わず後ずさった。

「待て待て待て待て。行くとは一言も言ってねえ、勝手に話進めんな。一体何を企んでる?」
「企むだなんて人聞きの悪い……」
「だったらネズミ講みたいな勧誘の仕方をやめろ。本当は俺に何をさせたいんだ」
「何かをしてもらいたいわけじゃありません。……ただ、付いてきてくれるだけでいいんです」
「福岡に?」
「ええ。毎年この連休に地元に帰っているんです。ハヤトの命日が近いので、墓参りも兼ねて。それに今回は、……報道の件もあって、両親と話をすることになったのですが……その……」

語尾が弱々しく消えていく。トキヤにしては珍しく歯切れの悪い話し方だった。所在なさそうに視線が左右にぶれる。なるほど、そういうことか。その反応を見て腑に落ちた。
「一人だと心細いから、俺に付いてきてほしいってわけか」
「……有り体に言えばその通りです」
プライドの高いトキヤには正直に言い出せなかったということだ。
――なんだ、お前にも可愛いとこあるんだな。
思わず声に出してしまいそうになるが、「やっぱりこの話は無しで!」と怒り出されてしまう恐れがあったので黙っておく。だが内心ニヤついてしまう。

「でも、俺なんかが付いてっていいのかよ」
「あなただから付いてきてほしいんです。それに、実を言うと……飛行機のチケットもホテルも、既に押さえてあります」
「拒否権ないじゃねえか」

思わず吹き出して笑ってしまった。
珍しくしおらしい顔をしているくせに、ちゃっかりやることはやっている。砂月は、一ノ瀬トキヤのそういう図太くて強かなところが気に入っているのだ。


◆◆◆


トキヤが詞を書き、砂月が曲を作った楽曲「Gemini」は完成した。だがレコーディングはできていない。曲が完成してもなお、トキヤの歌声は未だ戻らなかった。発声練習程度なら何とか声を出せるまでにはなったが、歌詞のある曲を歌おうとすると、途端に呼吸ができなくなってしまう。
苛立ちや焦燥に苛まれることはあったが、以前ほど悲壮感を顕にすることはなくなった。曲を作ったことで自身の気持ちに一区切りつけることができたからだろう。

曲作りに奔走している間に、福岡行きの日はすぐやって来た。
飛行機の中、隣に座るトキヤは静かに読書をしている。気付かれない程度にその横顔を見ると、「やっぱりこいつ睫毛長いな……」というどうでもいい感想が浮かんだ。次にペットボトルの水をごくりと飲んだ。喉が乾いたからではない。何でもいいので気を紛らわせたかったからだ。無駄な動きばかりを繰り返す砂月は、そこでようやく自分が浮き足立っていることを自覚した。

浮き足立っている、というより、浮かれている。
砂月はあまり遠出をしたことがなかった。用事を足すために一人で出かけることはあったが、旅行と呼べる経験は数えるほど。その時は必ず那月が一緒だった。
だが今回は、一ノ瀬トキヤが隣にいる。この違和感はなんだ?そわそわと辺りを見回し、時折トキヤの横顔を観察し、そして意味もなく水を飲む。妙に落ち着かない。こそばゆいような感覚が背中に張り付いて離れない。
その一方、トキヤは何も感じていないのか、涼しい顔で読書を続けている。旅慣れた雰囲気すらあった。自分だけがこんなに浮かれているのが、なんだか負けた気分になって腹立たしい。

そもそもトキヤとはまともに外へ出かけたことがない。学園内や寮では嫌になるほど顔を合わせているが、二人でどこかへ行こうという発想にはまるでならなかったのだ。これが実質初デートということになる。実質デートで、いきなり宿泊。ちょっと段階を飛び越しすぎじゃないか?もっとこう、近場から攻略していくべきだったのでは?
そこまで考えたところで、この旅行を「デート」と認識している自分に気付き、砂月は思わず天を仰いだ。

――そんなんじゃねえ。

那月が「トキヤくんと旅行に行くの?わあ!デートですね〜!」などとはしゃいだのが悪い。そんなことを言われるまでは意識すらしていなかったのだ。別にデートだからと浮かれているわけではない。決して。
なけなしの理性で否定しようとするが、我ながらあまりにも説得力がないと感じた。もう一度ごくりと水を飲む。まだ出発して数十分しか経っていないというのに、ペットボトルの中身は残り四分の一しか残っていなかった。



「一日目はとりあえず福岡市内の観光にしましょう。大宰府は外せないとして……見たい場所などはありますか?」
「別に……お前に任せる」
「では太宰府の後に考えましょうか。混み具合で所要時間も変わりますし」

一ノ瀬トキヤという人間は旅行のスケジュールを分単位で刻むタイプだと思っていたが、実際はそうでもないらしい。目玉となる外せないスポットだけ絞って、あとは時間やその時の気分で行きたい場所をゆるく決める。余裕をもたせたスケジューリングだ。それを意外に思っていると、「あなたと一緒だからですよ」と見透かすように言われた。気分屋の人間と行く旅行の心得をきちんとわきまえていると言うべきか。

地元だからか、福岡に着いてからのトキヤは心なしか生き生きとしているように見えた。電車やバスの乗り換えも卒なくこなす。砂月はトキヤの後ろをついて歩くだけでよかった。
トキヤは綺麗に混雑を避けながら移動していくので、人酔いしやすい砂月でもあまり疲弊しなかった。
観光スポットの説明をする口ぶりも慣れたものだ。アイドルでなくても観光ガイドとしてやっていけるんじゃないかとさえ思えた。HAYATOとしてのタレント仕事の賜物だろう。だがトキヤは、「仕事でもなければ観光案内なんてしませんよ」と言う。今まさに太宰府を完璧に案内している最中だというのに。

「じゃあこれも仕事の一環か」
「いいえ?今は私が自主的にやりたいからやっているだけです。あなたに私の地元を知ってほしくて」

そう言いながら石畳を歩くトキヤの足取りは軽やかだった。もしかしたら、こいつも俺と同じように浮かれているのかもしれない――そんな錯覚をおぼえさせるほどに。


◆◆◆


一通りの観光を終えると、早めにホテルにチェックインした。何しろ、一日目の夜には今回の旅の主目的が待ち構えているからだ。
トキヤは今夜、両親と会うことになっている。場所は二人が宿泊するホテルの最上階にあるレストラン。さすがに会食の場にまで同席しろとは言われなかったので、砂月は内心安堵した。トキヤが両親と会っている間、砂月はお払い箱だ。――とはいえ、心配ではある。
身なりを整えたトキヤは、背筋こそぴしりと伸ばしているが、表情は不安そうだった。無理もない。あの報道があってから初めて直接顔を合わせるのだ。

「……もし、私がこの期に及んで『行きたくない』と言い出したら、どうします?」
「ぶん殴って、引きずってでも連れて行く」
「あなたが言うと洒落になりませんね……」

ははは、と乾いた笑い声を上げる。緊張がこちらにもひしひしと伝わってきた。幾度となく大観衆の前でステージに立ってきたアイドルでも、ここまで緊張するものなのだ。そしてその緊張を少しでも軽くするために自分はここまで連れてこられた。
「大丈夫だ。お前は自分の言いたいことを全部言え。後で反対されようが否定されようが、それはその時になってから考えればいい」
景気付けのために背中を軽く叩いてやると、トキヤは盛大に咳き込んだ。砂月は「軽く」のつもりだったが、トキヤにとってはかなりの衝撃だったらしい。低くうめき声を上げてまた背筋を伸ばす。不思議と先程までの緊張は和らいでいるように見えた。

「では、行ってきます」



――トキヤを見送ってから数時間。砂月はトキヤに勧められた店で夕食をとり、その後はホテルの部屋でずっと待ち続けていた。作曲でもしていようと紙とペンはテーブルに置いていたが、徒にペンを分解しては元に戻すのを繰り返すだけで、作業はちっとも進まなかった。

いよいよ迎えに行くべきかと腰を上げかけたところで、トキヤはようやく帰ってきた。
「……すみません、遅くなりました」
疲れた顔をしている。それが第一印象だった。緊張して、気を遣って、それでも自分の言いたいことを伝えようとして――とにかく疲弊し切っている。だが同時に、肩の荷を下ろした後の疲労と読み取ることもできた。
トキヤを椅子に座らせ、水の入ったグラスを渡す。トキヤはグラスを受け取るや否や、砂漠を放浪する旅人のごとく一気に水を飲み干した。その豪快な飲みっぷりに砂月はぎょっとした。もしや会食中緊張でまともに飲み物も飲んでいなかったのかと疑うほどに。トキヤの大きな溜め息が部屋に霧散していく。

「……で、どうだったんだ」
「言いたいことは、言えました」
「向こうの反応は」
「……私のやりたいようにやっていいと……、そのために福岡から送り出したんだから、と……」

そう言ったきり、トキヤは椅子の背もたれに全体重を預け、そのままずるずると滑り落ちていった。床にずり落ちそうになるのを慌てて砂月が引っ張り上げるが、トキヤはまったくの無抵抗だった。まるで液体だ。緊張で背筋を伸ばしていた姿は見る影もない。「一ノ瀬トキヤ」にあるまじき怠惰な様子に、思わず笑みが浮かんでしまう。
――肩の荷を下ろしすぎだろ、お前。
心の中で苦笑するが、今夜くらいはこんな姿を自分自身に許してやってもいいだろう。本当なら、両親とどんな会話をしたのかを詳しく聞きたいところだが、トキヤのこの反応を見れば十分だった。


◆◆◆


「おはようございます、砂月。もうとっくに日が昇っていますよ」
「んー……」

トキヤはもう身支度を済ませて本を読んでいた。背筋をまっすぐ伸ばして椅子に腰掛ける姿はスマートだ。昨日は同じ椅子で液体のようにずり落ちていたのが信じられない。
きびきびと動いてはいるが、その顔にはまだ昨日の疲れが残っているように見えた。
おそらく昨夜もあまり眠れていないのだろう。両親と話をして肩の荷が下りたとはいえ、考えなくてはいけないことは山のようにあるのだから。そんなもの放ってさっさと寝ればいいと砂月は思うのだが、そう簡単に熟睡できるものでもないらしい。神経質なのも考えものだ。
のろのろ起き出す砂月を横目に、トキヤは「今日は一日観光ですから早く準備をしてください」と言い放った。



トキヤが砂月を急かしながらホテルを出て、二人は電車に乗り込んだ。午前と午後それぞれの行き先を説明されたが、寝ぼけ眼の砂月の頭には内容の半分も入ってこない。
「ですから、お昼は余裕をもって11時過ぎにはお店に入ろうかと思います。……あの、聞いてますか?」
「おー……」
「……まあいいでしょう。食べればきっとおいしさに驚きますよ。ガイドブックには載っていませんが、地元民はみんな知っているお店です。おすすめはなんと言っても――」

ふと、トキヤの観光案内トークが途切れた。砂月は不審に思ってトキヤを見た。
トキヤはじいっと車窓に視線を注いでいる。視線の先には、小さく見える観覧車があった。
「……なんだ?観覧車?遊園地か」
砂月が反応すると、トキヤはゆっくりと頷いた。感慨深そうな表情だ。

「ええ。懐かしいなと思って……。HAYATOとしてデビューしたばかりの頃、あの遊園地で初めてステージに立たせてもらったんです。それ以来、毎年秋の連休には必ず行くようにしていたのですが、あの騒動があって活動休止になってしまったので……今年はキャンセルしたんです。確か今日がそのステージの日だったと思います。決まっていたスケジュールに穴を空けて、申し訳ないことをしてしまいました」

トキヤの言葉を聞いて、砂月の脳裏に一条の光がひらめいた。
「……それだ」
「え?」
「おい、この駅で降りるぞ」
「えっ????」
砂月はトキヤの腕を引いて強引に席を立たせる。トキヤは必死に抵抗しようとするが、砂月の力の前ではあまりにも無力だった。

「ちょっと待ってください砂月、何のつもりですか?降りる駅はあと二駅先ですよ!」
「いいんだよ。あの遊園地に行くんだから」
「どういう風の吹き回しですか!?観覧車にでも乗りたくなったんですか!?」
「もともとあの遊園地でステージに立つ予定だったんだろ?なら当初の予定通り歌いに行けばいいじゃねえか。まあ、実質飛び入り参加だろうが」
「な…………」

絶句するしかなかった。砂月が突拍子もない思いつきで行動するのは今に始まったことではないが、今回ばかりはついて行けない。
あんなに眠そうにしていたというのに、今の砂月はすっかり覚醒して――それどころか妙に目をぎらつかせている。悪巧みを思いついた子供の目と同じだった。


◆◆◆


「スペシャルオータムステージ本日開催!」と書かれた立て看板がそこらじゅうに立てられている。
遊園地に着くやいなや、砂月は脇目もふらずにインフォメーションカウンターへ突撃した。名乗りもせずに「今日の『スペシャルオータムステージ』の責任者に会わせてくれ。こいつを歌わせたい」と用件だけをいきなり切り出す。受付の女性は面食らったように「えっと……?」と困惑の表情を浮かべた。その反応も無理はない。

「突然すみません……」
砂月の横からトキヤがひょいと顔を出した。変装用の帽子とマスクを外し、申し訳なさそうに一礼する。その顔を見て、女性は「あっ」と声にならない声を上げた。
「は……HAYATO……さん、ですね!?承知しました、今確認しますっ!」
女性は慌てた様子で受付を後にした。トキヤは溜息をついて再び帽子とマスクをつける。この遊園地のスタッフとはある程度面識があるのだ。

「すごいな、顔パスじゃねえか。さすが地元出身アイドル」
「余計な揉め事を起こさないために仕方なくですよ!ここで門前払いされたら、あなたは強硬手段に出るつもりだったでしょう?」
「分かってるなら話が早い」
「その悪そうな顔やめてくださいよ……」

ああだこうだとやり取りしている間に、ひょろ長い背丈の男性が小走りでやって来た。そのままチケットも買わずに関係者用のフロアへと案内される。
「HAYATOさん!お久しぶりですねえ!色々大変だったみたいですがお元気そうでよかった!」
その男性は、例年の『スペシャルオータムステージ』でこれまでにも何度か打ち合わせをしてきたことのあるスタッフの一人だった。今年は彼がステージの責任者ということらしい。朗らかな笑顔で二人を歓迎する。HAYATO絡みの報道を知らないわけではないだろうに、変に気を遣ったりする様子は見られない。

「今年は出演がキャンセルになってしまって残念に思っていたんですが、こうして来ていただけて何よりです!HAYATOさんなら飛び入り参加も大歓迎ですよ!地元出身でファンも多いですからねえ〜」
「おい。一つ言っておくが、こいつは今回『一ノ瀬トキヤ』として歌うんだ。HAYATOじゃない。それは間違えるなよ」
「へ……あ、はい、申し訳ありません。なるほど、一ノ瀬トキヤ名義ということで……」

砂月の鋭い目つきに、男性は慌てて訂正をする。砂月は、自分より遥かに年上の相手に対してもこの態度だ。ましてや自分たちは、「お願い」して飛び入りで出演させてもらう立場だというのに。申し訳無さにトキヤはますます縮こまるが、砂月はそれが当たり前だとばかりに鼻を鳴らしていた。傲岸不遜を絵に描いたような男だが、今回はその態度の大きさが逆に出演交渉を円滑に進めた。

結局、他の出演者が準備している合間の時間をやりくりして、出入り含め十分程度のステージであれば可能だ、という話に落ち着いた。十分。それがトキヤに与えられた時間だ。歌えるのはおそらく一曲だけ。それならば――披露するのはあの曲に決まっている。
だが、最大の問題は、トキヤがこれまでに一度としてあの曲を歌えていないということだった。


◆◆◆


遊園地内の中央に位置するセンタースクエア。『スペシャルオータムステージ』と書かれた横断幕の下に、特設ステージが設けられている。例年、地元出身のアーティストや大道芸人などが演目を披露することになっている。HAYATOとして何度かこのステージに立った時には、歌やトークで場を盛り上げる役割を担っていた。最近では歌を歌わせてもらえる数少ない場だったのだ。

舞台袖で、トキヤは大きく深呼吸をした。まさか「一ノ瀬トキヤ」としてこのステージに立つことになるとは思いもしなかった。HAYATOとして出演した時とはまったく違う緊張感がある。
トキヤの隣には砂月が立っている。今回、曲のCDは持ってきていなかったので、代わりに砂月がピアノの伴奏とコーラスをすることになった。砂月がいてくれるというだけでこんなにも心強い。

「やっぱり無理です、とは言わないんだな」
砂月が意外そうな顔で言った。これまでの経験から、トキヤは本番前でもごねるだろうと想像していたのかもしれない。相変わらず失礼な人ですね……と言い返しそうになったが、自分の行いを顧みてそれ以上何も言えなかった。さすがに自分がこの上なく面倒な人間だという自覚はある。

「今更弱気になったところでもう引き返せませんから。覚悟を決めただけです。ただ、どう考えても無茶だとは思っていますよ。まだまともに歌えてすらいないのに、いきなりステージに立てだなんて」
「できることは何だってやってきただろ。でも観客の前で歌うことは試してこなかった。やってみる価値はある」
「だからってこんなぶっつけ本番でやらなくてもいいでしょうと言っているんです」

最悪の事態はいくらでも想定できる。歌えずに立ち尽くすトキヤ、静まり返った会場、困惑する観客……事故が起こる未来しか見えない。だが、砂月はそんな悲観を吹いて飛ばすように堂々としていた。
「お前はたぶん、歌うための心の準備はもうできてる。あとはきっかけだけだ」
「とんだショック療法ですね……」

砂月の言うように、トキヤの中でも、もう少しで歌えるのではないかという感覚は確かにあった。何かきっかけさえあれば。だが、そのきっかけにいつまでも巡り会えずにここまで来た。多少強引なやり方ではあったが、砂月が作り出してくれたこの場はまたとないチャンスだった。
「大丈夫だ。もしお前が歌えなくても、俺がなんとかする。俺を信じろ」
迷いのない目が見つめてくる。その眼差しを受けてトキヤはわずかに躊躇い、しかし、一度だけ頷いた。



名前が呼ばれた。ゆっくりと顔を上げる。拍手に迎えられながら、トキヤはステージへと歩いていった。
会場には四、五十人ほどの観客が集まっていた。連休だからだろう、家族連れや中高生の姿が多く見られた。小さい子供たちはステージぎりぎりのところに齧り付くようにして見上げている。
トキヤの姿を見るやいなや、会場は一斉にざわめきに染まった。
「あれ、HAYATOだよね?」「活動休止してるんじゃ……」「なんでここに?」「でも一ノ瀬トキヤって……」「どういうこと?」「HAYATOじゃないの?」――そんな話し声が、ステージ上からでも聞こえてきた。あって然るべき反応だろう。

トキヤは会場に集まった観客を見回し、笑顔を作った。うまく笑えているかは分からなくても。
礼をしてマイクを持つ。軽く息を吸う。そして一言、

「一ノ瀬トキヤです」

――そう告げた。
第一声は、最初から決めていた。自分が何者であるのかを、初めにきちんと伝えなくてはいけない。
観客のざわめきが息を潜める。彼等は話をやめ、ステージに立つ「一ノ瀬トキヤ」に視線を注いだ。
きっと、HAYATOのことを知りたがっている人々も多いだろう。報道されていることは事実なのか。どんな事情で今日このステージに立っているのか。それを一つ一つ説明することもできた。だが、トキヤは敢えてそれらについて触れることはしなかった。言い訳も、説明も、今は必要ない。ただこの曲だけを聴いてほしいと思った。

「今日は特別に、一曲だけ歌わせてもらえることになりました。どうぞお聴きください。――『Gemini』」

そのタイトルコールを合図に、前奏が流れ始めた。ピアノの音色が会場をゆるやかに包み込んでいく。
星のきらめきと、広い宇宙の中の孤独。砂月が奏でるピアノは、聴衆の意識を遥か銀河の彼方まで連れて行くかのようだった。

会場がその音楽に聴き入り、瞼の裏側に宇宙を思い描く中で、一ノ瀬トキヤだけは頭上に広がる晴天をただ凝視していた。
――歌わなければならない。
二人で作り上げた曲。砂月が用意してくれたこの場所。トキヤが歌うことを待つ観客。美しく響く前奏。舞台は完璧に整えられている。あとは自分が歌うだけだ。これを逃せば、永遠に歌えないままかもしれない。それは駄目だ。歌わなければ。
だが、そう思えば思うほど、呼吸が浅くなっていく。肺が酸素を取り込めない。喉がからからに乾き、心臓が早鐘を打ち続ける。あの時と同じだ。急に歌えなくなってしまったあの時と。

声が出ない。

前奏が終わり、Aメロを歌い出す時になっても、トキヤは歌うことができなかった。歌わなければならないという気持ちだけが先走る。マイクを持ち、口も開けているのに、歌声だけがついていかない。
うっとりと前奏に聴き入っていた聴衆たちも、おや?と思ったようだった。皆一様に瞬きをしてトキヤを見る。
だが、後ろで鳴っているピアノは、そんな引っかかりを掻き消すようにもう一度同じ前奏のフレーズを繰り返した。まるでそれが予定調和の、最初から決まっていた進行であるかのように。そのピアノの音色があまりにも堂々としていて、ごく自然に繰り返すものだから、聴衆も「ああ、そういう曲なのね」と素直に受け入れた。

突然生み出された、8小節分の猶予。トキヤが歌えないのを察して、砂月がアドリブで同じフレーズを繰り返したのだ。
――歌わなければならない。今度こそ。
束の間の猶予を無駄にしないよう、必死で呼吸を整えようとする。しかし8小節はあまりに短く、すぐ目の前に再びデッドラインが近付いてくる。二度目はない。トキヤは思わずぎゅっと目を瞑った。――もう、だめだ。

  《星屑になった あなたを宇宙(そら)へ探す旅
   届くだろうか 響くだろうか 心臓が止まるまで》

しかし、曲が途切れることはなかった。美しい声が確かにメロディーを繋いでいる。艶のある、まっすぐによく伸びる声。
砂月が、歌っていた。

  《いつしか泣いていたのは もう
   会えないと気付いてしまったから》

――おぼえず、その歌声に聴き惚れた。
歌わなければならないという義務感も、強迫観念も、緊張も焦りも全部どこかに置き去りにして。

曲作りをしている時、この曲のAメロは聴き飽きるほどに聴いてきたと思っていたが、トキヤにはまるで初めて聴いたかのような驚きがあった。
歌えないトキヤの代わりに、砂月が歌うことはたびたびあった。力強さと繊細さが同居した、不思議な魅力のある声だと思っていた。作曲ができて、自分でこれだけ歌えるのだから、シンガーソングライターの方が向いているんじゃないですかと言ったら、砂月は「それじゃあ意味がないんだよ」と声を荒げたことがある。結構本気で怒らせてしまったらしく、その後しばらく口をきいてくれなかった。あの時はどうしてそこまで怒るのか分からなくて首を傾げたものだった。

「俺はお前が歌う曲を作ってんだ。お前が歌わなきゃ意味がない」

言い聞かせるように、彼は繰り返しそう言った。当たり前のことをなぜそんな大事そうに言うのだろうと思った。――たぶん、自分はその言葉の真意をきちんと理解できていなかったのだ。作曲家が曲を作り、アイドルがそれを歌う。そんな表面だけの意味をなぞって、分かった気になっていた。だけど違う。

聴衆はひととき砂月の歌声に聴き惚れていたが、しばらくして違和感に気付く。
砂月の歌声は完璧に近く、曲の世界観を忠実に再現していたが、「これは俺の歌じゃない」という明確な意志が乗っていた。聴く者すべてがそれを本能的に察知する確かさで。
これは一ノ瀬トキヤが歌うために作られた曲なのだと、彼はメロディーにのせて宣言していた。1番サビを歌い上げながらも、彼はあくまでこの曲の主役はトキヤだと主張して譲らない。

――ああ、そうだ。あなたは最初からそうでしたね、砂月。
トキヤは思わず笑い出しそうになった。自分がステージの真ん中で歌えずに立ち尽くしていることも忘れてしまいそうだった。

砂月はいつだって、トキヤの力を誰よりも信じていた。たとえトキヤ自身が自分を信じられない時であっても。もう何も打つ手がないと途方に暮れていた時ですら。砂月はどこまでもぶれなかった。トキヤを信じ続けていた。こんな場所までついてきてくれた。
あなたが曲を作り、私が歌う。
彼は、出会った時からずっとそれを愚直に守り続けてきたのだ。

ふと、最前列にいる女の子と目が合った。まだ幼稚園や保育園に通っているであろう年齢の子だ。おさげ髪を揺らし、目をきらきらと輝かせてステージに齧り付いている。「あなたは歌わないの?」と問うように、じっとトキヤを見上げていた。
「これは、あなたのおうたなんでしょ?」
そんな声が聞こえてくるかのようだった。――そうです、私の歌です。あの人が作った歌。私が歌うためだけに作られた、たったひとつの。

2番の前奏が終わろうとしている。
少しだけ視線を後ろの方へやって、トキヤはようやく砂月を見た。「いけるか?」と砂月が目で問いかけてくる。「いきます」と頷く。トキヤは静かに息を吸い込んだ。

「歌わなければならない」という強迫観念は、いつの間にかどこかへ消えていた。
今は、「歌いたい」と思う。一ノ瀬トキヤの歌を待っていてくれる人のために。この歌を作るきっかけをくれた兄のために。
――そして、どんな時でも私を信じてくれた、あなたのために。


  《剥がれ落ちた 記憶をひとつ拾う度
   形は変わり 色も変わり 声さえも変わっていく
   それでも手放せないのは ただ
   あなたを忘れたくないから》


吐息まじりの歌声。あまりにも久々に歌ったからか、少し掠れている。それが逆に切実さを増幅させているようにも聞こえた。音をひとつずつ丁寧に拾い集めていくかのような歌い方だった。紡がれる音楽を、記憶を、ひとかけらも取りこぼさないように。
それは、間違いなく一ノ瀬トキヤの歌声だった。その場にいた全員が息を呑んだ。


  《ようやく気付いた
   枷のように引きずってきた重みは
   あなたと過ごした日々の証明
   これからは 抱きかかえて歩いていく
   星空はまだ遠くても》


淡々としたピアノが、曲の進行に合わせて徐々に音の厚みを増していく。鍵盤を叩く砂月の指に熱がこもる。彼の作った曲は、ようやく歌われるべき相手に結ばれた。その喜びと感情の高まりを、今はピアノの旋律にのせる。トキヤの歌声がどこまでも輝くように。

曲はいよいよサビへと繋がっていく。トキヤは夢中で歌った。いくつもの記憶が奔流のように頭の中へ流れ込んでくる。
ハヤトの無邪気な笑顔。鼻先を赤くしながら流れ星を待つ。星空を見上げて輝く瞳。
道路の上に力なく投げ出された手足。冷たくなっていく指先。いくら呼びかけても開かない目。
どうして分かってくれないの、と諦めたように泣く母。両親の言い争う声。何も言えなかった自分。俯くことしかできなかった。
いつしか歌に執着していた。歌っていれば胸のわだかまりを忘れられた。歌うことが自分の価値だと思うようになった。
「歌わなくていい」と言われた。マネージャーの溜息。目の前が真っ暗になった。自分の存在ごと否定された気がした。

――ねえトキヤ、いっしょに歌おう。

記憶の中で兄が歌う。調子外れの鼻歌。それでも歌うことを誰よりも楽しんでいた。そんな姿に憧れて、自分も隣で歌った。みんなを笑顔にできる人になりたいという兄の夢は、いつしか自分の夢になっていた。大好きな歌でみんなを笑顔にしたい。兄の代わりに夢を叶えるのではなく、兄と一緒に夢を叶えるのだ。
どうしても諦めきれなくて、暗闇の中を手探りで進んだ。可能性があるなら何にでも縋った。無理のある二重生活。これが正解だとは思えなくても進むしかなかった。

そうして彼に会った。閃光のように。

不安はいつだって付き纏う。また失敗したら、と恐怖に襲われる瞬間は数え切れない。それでも今は隣に彼がいる。信じ続けてくれる人がいる。
トキヤはマイクを握り直し、もう一度大きく息を吸った。最後の一呼吸まで歌い抜くために。


  《この歌が聴こえたなら どうか手を振って 微笑んで 見届けてほしい
   ふたりの夢が重なる今を
   星のようにきらめく未来を
   確かな足取りで 生きていくこと》


――歌い切った。
美しいピアノの音色が余韻を引き継ぐように流れ、やがて終わる。最後の一音まで聞き届けた聴衆は、数秒の沈黙の後、わっと爆発的な歓声を上げた。
はじめは四、五十人ほどだった観客は、いつの間にか広場を埋め尽くすほどの人数に膨れ上がっていた。トキヤが歌っている間に次から次へと人が立ち止まっていったのだ。
親に抱きかかえられた小さな子供はきゃあきゃあとはしゃぎ、学生の集団はポップコーンを食べる手を止めて「すげー」と口を開け、HAYATOのファンらしき若い女性二人組は泣き崩れ、初老の夫婦は「すてきな歌ねえ」と微笑んだ。誰もが歌に心を奪われていた。

万雷の拍手を一身に受けながら、トキヤは深々と礼をした。
「ありがとう、ございました……っ!」
様々な感情がこみ上げてきて、それ以上の言葉を言えなかった。顔を上げるや否や、観客にくるりと背を向けて駆け出していく。トキヤが舞台上から姿を消しても拍手は鳴り止まなかった。



ステージを後にして、関係者用の通路を小走りで駆ける。遊園地のスタッフが称賛の声をかけるが、トキヤはそれに返事をすることもなく走った。服に皺が寄るほど、きつく胸を押さえながら。どこか目的地があるわけではない。ただ、走ってでもいないと今にも感情があふれ出して止まらなくなりそうなのだ。
「トキヤ!」
背後から鋭い声で名前を呼ばれる。砂月の声だ。一番に感謝を伝えなくてはならない相手。しかし、今はどんな顔で向き合えばいいのか分からなかった。振り向くことができず、そのまま背を向けて走り続ける。
「――トキヤ!」
もう一度強く呼ばれた。手首を掴まれ、強引に向きを変えられる。

「さつ……、」
名前を呼ぼうとした唇は、砂月のそれによって塞がれた。驚きで目を見開くと、陽の光に当たってきらきらと輝く彼の髪が視界の端にちらついた。きれいだ、と思った。キスされているということよりも、砂月の髪の方に意識が行ってしまった。それくらい自分の身に起こっている出来事に現実味がなかったのだ。
唇が一瞬だけ離れた。トキヤは余計なことを考えるのをやめて目を閉じた。目の端に溜まっていた涙が一筋、頬を伝って流れた。
砂月の手がトキヤの腰に回る。大きな手だ。そして熱い。それは手だけではなかった。再び重なった唇は強い熱をもっていた。

「ん、ぅ……」
身じろぎするが、砂月にしっかりと抱えられているので意味がない。トキヤは砂月の胸にしがみついた。
熱い舌が下唇をなぞってくる。痺れるような刺激が背筋を走り、思わず力が抜けてしまう。半開きになった唇に砂月の舌が入り込んできた。――あつい。
絡み合う舌と舌。時折水音が響く。吸い上げた唾液はどちらのものなのかも最早分かりはしない。気付けば互いに夢中になって唇を重ね合わせていた。砂月の口づけは衝動的な荒々しさがあったが、そのくせ頬に触れてくる手のひらはひどく優しくて、そのアンバランスさに頭が溶けてしまいそうだった。

「ん……」
やがて、湿度を伴った音と共に、ゆっくりと二人の唇が離れた。
トキヤは砂月の目を見ようとしたが、それより先に砂月はトキヤの体を抱き締めた。壊れそうなものを包むような慎重さで、しかし決して離しはしないというようにきつく掻き抱く。彼の中にはいつも相反するものがある。そういう部分に自分は惹かれたのかもしれない。

「……砂月。私、歌えましたよ」
「ああ」
「1番の歌い出しが駄目だった時は、もう本当にここまでだと思いました。でも、あなたが代わりに歌ってくれて、それを聴いていたら、なんだか心が軽くなって」
「ああ」
「あなたがいてくれたから歌えたんです。ありがとう、砂月」
「…………」

それきり、砂月は何も返事をしなかった。代わりにトキヤを抱き締める力が強くなる。
柔らかな陽射しが降り注ぐ中、二人はいつまでも抱き合い続けていた。




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