星降る夜に君に逢えたら(1)


Chapter1:孤独の感覚


曲に合わせて歌い終えると、トキヤは一つ息をついた。うまく歌えたという感覚より、気持ちよく歌えたという感覚の方が強い。清々しい気持ちで深呼吸をするが、次の瞬間、背後に立つ気配を感じてびくりと肩を跳ねさせた。
そうだった、この人が聴いていたんだった。歌うことに夢中になって忘れていた。恐る恐る、後ろに立っている砂月に向き直った。砂月はというと――腕を組み、仏頂面で、眉間に皺を寄せている。歌い始めた時と何一つ変わらない表情だ。

また容赦ない駄目出しが降ってくるに違いない、とトキヤは身構えた。音楽に関しては決して手を抜かない彼が、今の歌を聴いてどう答えるか。
しかし、トキヤの予想に反して、砂月はほんの少しだけ表情を緩ませた。
「……ん。ここの歌い方、前より良くなったな。ちゃんとお前の感情が乗ってる」
「え」
「欲を言えば、このアクセントはもう少し強調してもよかった気がするが……まあ、お前が今みたいに表現したいなら別にいい。それと……――おい、話聞いてんのか」
砂月は眉をひそめてトキヤを睨みつけた。トキヤは呆けたように口を半開きにしている。砂月に声を掛けられて、はっとしたように瞬きをした。

「いえ……あなたに人を褒める語彙があったことに驚いてしまって……」

心底意外そうな声だった。失礼な口を利いているという自覚もないらしい。
――前言撤回だ。もう二度と褒めてやるか。
砂月はそう思ったが、反面トキヤは殊の外嬉しそうな表情をしている。耳が赤くなっているのは見間違いではない。まさか貶したつもりではなく本当にただ驚いているだけなのか?確かに面と向かってトキヤの歌を褒めたのは初めてだったかもしれないが、こんな反応をされるとは思っていなかった。調子が狂う。

「おい、やめろ、その顔」
「どんな顔ですか」
「溶かしたバターみたいな間抜け面だよ。気色悪い」
「はい?絶妙に分かりにくい例えですね。やっぱりあなたは作曲の方が向いていますよ。作詞の才能はなさそうです」
「おい喧嘩売ってんのか。せっかく褒めてやったのに」
「私だって褒め言葉を素直に受け止めていい気分でいたかったですよ。あなたの場合、称賛と罵倒がセットになっているのが問題だと思いますが」
「その言葉そっくりそのままお前に返すぜ」

売り言葉に買い言葉。いい雰囲気になりそうだった空間が急に険悪なものに変わる。ばちばちと火花が散りそうだ。
こんな光景を部外者が見たら慌てて仲裁に入るだろうが、この二人にとってはこれが日常だった。音楽に身も心も捧げた、素直になれない二人の日常だ。


◆◆◆


「HAYATO、今日もご苦労様。今週ちょっと仕事を入れすぎたか?疲れてないか?」
「大丈夫です。仕事は多い方がやり甲斐がありますから」

仕事終わり、いつものように迎えの車に乗り込む。トキヤの疲れた表情を見てか、運転席に座るマネージャーが心配そうに声をかけてきた。マネージャーの氷室は、事務所のスター的存在であるHAYATOにとても尽くしている。彼に心配をかけまいとトキヤは笑顔を取り繕った。表情筋が軋むような錯覚を覚える。

表に出さないようにはしているが、実のところ、トキヤはかなり疲弊していた。無理もない。HAYATOとしての仕事と、一ノ瀬トキヤとしての学園生活を完璧に両立させようとしているのだから。今日も授業にフルで出席してから番組の収録に向かった。深夜にまで及んだ収録はかなりこたえた。
事務所には、早乙女学園に通っていることを伏せている。この事実が明るみになったら、事務所を出ていくか、それとも退学させられるか。どの道穏当には済まされないだろう。綱渡りの生活をしている自覚はある。だが、今更どちらかをやめるわけにもいかない。

二人の乗った車が静かに発進した。深夜の道路でも車の行き来は多い。眠らない街をトキヤはぼんやりと眺めていた。
――HAYATOとしての活動を、やめたいわけではない。もっと歌うことさえできれば、ずっとこのままでいいと思っていたはずだ。早乙女学園に願書を出すこともなかった。
だが現実として、HAYATOとしてのテレビ出演は、ここ最近バラエティ番組に偏っている。歌の仕事はデビュー以来ほとんど回ってこない。

「あの、氷室さん」
「ん?どうした」
きっと無駄だと頭のどこかで分かっている。これまでだって何度も繰り返してきたやり取りだ。それでも、問わずにはいられなかった。
「そろそろ、歌の仕事は入らないでしょうか。CDもしばらく出していませんし……」
「歌?いやいや、しばらくの間バラエティ出演に力を入れるって前に確認したじゃないか。HAYATOが受けているのは、あくまでそのキャラクターと言動だ。お前だってそれは分かってるだろう?」
「…………はい」

氷室はとても優しい。細かい気遣いもしてくれる。けれどそれは、HAYATOというアイドルに対してだけだ。彼はマネージャーとしての役割をこれ以上なく全うしている。事務所の意向を汲んで、アイドルがより売れるために努力しているにすぎないのだ。どうしてそれを責めることができるだろう。
ただ、歌える場所はここには無いという実感だけが、ありありと一ノ瀬トキヤに突き刺さった。


◆◆◆


その日も、HAYATOの仕事に向かうため、マンションの部屋で準備をしていた。
髪を整えているとスマートフォンが鳴った。画面に映し出された名前を見て、トキヤは目を見開いた。母親からの着信だったからだ。
トキヤは僅かにためらった。出ないという選択肢はない。だが、すぐに着信ボタンを押すことができなかった。

「……もしもし」
『トキヤ?夜にごめんなさいね。元気にしてた?』

品の良い声が響く。久しく聞いていなかった母親の声だった。
母は人目を気にする人だった。トキヤを子役としてデビューさせようとしていた時期は余計に敏感になっていたように思う。訛りが出て恥をかかないようにと、家族の間でも標準語で会話をさせたほどの人だった。両親の前でも敬語で話すのはその頃からの癖だった。今でも、二人で話す時に方言が出たことは一度もない。

『あなた、しばらくこっちに帰ってきていないでしょう?仕事が忙しいの?』
「ええ、まあ……でも例年通り、11月の連休にはそちらに行く予定です」
『ならいいけれど……11月は必ずね』
「……はい」

他愛もない会話。きっとこれが本題ではないのだろう。母の問いに淡々と返事をしていると、向こうが急に咳払いをした。
『ああ、それと。……余計なことかもしれないけれど、あなたの耳には入れておいたほうがいいと思って』
声色が慎重なものに変わる。母親は、懐かしい名前を挙げた。
『覚えてる?小学校の時のお友達。そのお母さんから聞いた話でね。最近、地元であなたのことを聞いて回っている人がいるみたいなの。きっと雑誌の記者か何かでしょうけど、ハヤトのことまで調べようとしているらしくて……。あなたの周りはどう?変わったことはない?』
「いえ……」
ハヤトという名前が母親の口から出た瞬間、突然大きな手で掴まれたかのように、胃の辺りがぎゅっと痛んだ。引き絞られるような痛み。じっとりと冷や汗が吹き出してくる。
トキヤは動揺を出さないように必死で平静を取り繕った。電話口ならきっとばれない。声を震わせてはいけない。必要最低限の返事だけをして、母親だけが喋るように会話を誘導した。

『何回も言っているけれど、ハヤトの件であなたが気に病むことはないのよ。トキヤは何も悪くないんだから』

――最後にそれだけを言い残して、電話が切られた。
スマートフォンを持った手がだらりと垂れ下がる。心臓は未だ早鐘のように鳴り続けていた。

心配をかけたくない一心で咄嗟に否定してしまったが、母の言う「変わったこと」に心当たりがないわけではなかった。
仕事が終わった後も、誰かに見られているような気配があるのだ。仕事場からマンションに移動するまで。マンションからタクシーを使って早乙女学園に向かうまで。どこにいても視線を感じていた。慎重に周りを見回しても誰かがいるわけではない。だが、確実に見られているという感覚。
HAYATOの仕事と、早乙女学園との二重生活を探られているのかもしれないという危惧はあった。だが、地元の福岡にまでその手が回っているとは思わなかった。
――もし「ハヤト」のことが知られてしまったら。

誰かに相談するべきなのだろうか。
事務所に相談でもすれば、それこそ今まで隠していたことを全て白状しなければいけないことになる。無断で早乙女学園に通っていること。一ノ瀬トキヤとしてデビューしたいと思っていること。正直に言ったところで、きっと許してはもらえない。HAYATOとしての責任を果たせと詰られるだけだ。

ならば……と、次に頭に浮かんだのは砂月の顔だった。
鋭い彼のことだ、もしかしたら「仕事」のことも多少は察しているのかもしれないが、トキヤからは彼にまだ何も伝えていない。すべてを打ち明けたら、彼はどんな反応をするだろう。驚くだろうか。なぜ今まで黙っていたと怒るだろうか。それとも――失望させてしまうだろうか。トキヤにはそれが一番怖かった。自分を選んでくれた彼が、失望と共に離れていくことが。

誰にも言えるわけがなかった。
だが、いつかきっと真実が暴かれる時が来る。断頭台に向かう道は、一歩ずつ着実に近付いてくる。それを知っていながら何もできない。トキヤはその場にしゃがみ込み、自分の体を抱いた。寒くもないのに震えていた。


◆◆◆


砂月がいつものように悠々と遅刻して来ると、すぐさま違和感に気付いた。いるべきはずの人間が教室にいない。ただでさえ眠くて機嫌が悪いというのに、その人物の不在は砂月を更に不機嫌にさせた。
「おいチビ、あいつはどうした」
トキヤと一緒にいることが多い翔に尋ねる。固有名詞は何一つ出していないが、翔はそれだけで誰のことを指しているのか分かったらしい。

「トキヤのことか?あいつ、なんか体調悪くてしばらく休むってよ」
「……本当か」
「龍也先生がそう言ってたぜ。あいつに朝メッセージ送ったらちゃんと返信来たし」
そう言って、翔はスマートフォンの画面を砂月に向ける。今日の朝のやり取りが表示されていた。

『おはよ。体調悪いって聞いたけど大丈夫か?』
『おはようございます。風邪をひいてしまったようです。心配をかけてすみません。』
『ノートは取っといてやるから任しとけ!ゆっくり休んで無理すんなよー!』
『ありがとうございます。』

何のことはない、欠席した友人を気遣う会話だ。体調不良で休むのは特段珍しいわけでもない。だが、その後に続く翔の言葉に、砂月は眉根を寄せた。
「音也の話だと、昨日バイトに行ったっきり寮に戻ってきてねえらしいけど」
「……どういうことだ」
「お、俺に凄まれても知らねーよ!あいつにも事情があんだろ!」
責任逃れをするように翔が慌てて喚く。事情。どんな事情だ。問い詰めようにも本人はここにいない。絵文字も何もない、トキヤの淡白な文字列だけがそこにある。新しい情報はどこにも書かれていない。

そこで砂月は、自分がトキヤの連絡先を知らないことに気付いた。
互いにスマートフォンを所持しているにも関わらず、それで連絡を取り合う必要がなかったからだ。教室やレッスンルームで嫌でも顔を合わせているし、かといって休日に連れ立って出かけたこともない。学校で直接やり取りをすればそれで事足りた。――パートナーだというのに、連絡先のひとつも知らないでいたのだ。だからといって、翔にトキヤの連絡先を聞くのもプライドが許さない。
砂月は大きく舌打ちをした。あいつは顔を合わせなくても俺をここまで苛立たせるのか。我慢ならなくて椅子を蹴り倒しそうになったが、その代わりにくるりと振り返って、今入ってきたばかりの教室から出ていってしまった。



翌日になっても、トキヤは登校してこなかった。寮にもまだ帰ってきていないらしい。
心配した翔が「今どこにいるんだ」とメッセージで尋ねても、はぐらかされてしまったという。そしてそれきり返信も途絶えてしまった。電話も繋がらない。
その報告を聞くと砂月はますます苛立った。だがトキヤの居場所が分からない以上、どうすることもできない。

――そして、更に翌日。

「おいチビ、あいつはまだ……」
「あっ砂月!お前これ見たか!?トキヤの記事!!」

砂月が言い終わるより先に、翔が血相を変えて雑誌を突きつけてきた。様子がおかしい。教室を見回すと、クラスメイトたちも落ち着きなさそうにざわざわと立ち話をしていた。朝の談笑とは程遠い、不穏な空気だ。
砂月は眉間に皺を寄せ、翔が渡してきた雑誌を手に取る。見出しを見た瞬間に砂月の顔色が変わった。

『事務所に無断で早乙女学園に通っていた!?HAYATOの歪んだ二重生活に迫る!』
『HAYATOの芸名は死んだ兄の名前だった!美談?それとも乗っ取り?兄を死に追いやった過去とは……』
『ファンへと死んだ兄への手酷い裏切り!「天真爛漫なアイドル」に何があったのか 不誠実な活動の実態』

「……なんだ、これ」
その一言を絞り出すので精一杯だった。怒りで声が震えた。
「ひでえ見出しだよな……記事の内容はもっと酷いぜ。ウソかホントか怪しい『関係者談』ばっかでさ……ネットも朝からすげー炎上してる」
クラスメイトたちが砂月の様子を遠巻きに見ている。他でもない、一ノ瀬トキヤのパートナーの反応を気にしているのだ。教室中でスマートフォンを見ながらひそひそ話していたのはこれのことか。

砂月は雑誌を破り捨てたい衝動に駆られた。くだらねえ、こんなものはどうだっていい。そう吐き捨てて一顧だにしない態度でいたかった。――しかし、砂月の目は記事を読むことを止められなかった。トキヤがずっと隠し続けていたものが詰め込まれていた。

HAYATOとして芸能活動を送りながら、早乙女学園に通って二重生活を続けていたこと。
トキヤには一ノ瀬ハヤトという双子の兄がいたこと。兄は、幼少期に事故に遭って既に亡くなっていること。その事故の原因は弟のトキヤにあるのではないかと疑われていること。
HAYATOという芸名は、死んだ兄の名を借りたものだったということ。
一ノ瀬トキヤとしてデビューしようとしている彼の行いは、事務所やファン、そして死んだ兄への裏切りだということ。

あまりにもあけすけに、下世話な論調で、そんなことがつらつらと6ページに渡って書かれていた。トキヤが早乙女学園の門扉を通る写真も載せられている。
トキヤに対して感じていた違和感。知りたい気持ちがないわけではなかった。それでも「仕事」のことを問い詰めずにいたのは、トキヤが必死で足掻いていることを分かっていたからだ。トキヤがひたすらに隠すことを選んだのなら、その選択を尊重するべきだと思った。いつか彼自身の口から伝えてくれるのを待っていた。待っていたのに。――こんな形で、知りたくはなかった。

「どういうことだよ……!」
怒りと、やりきれなさと。いくつもの感情がぐちゃぐちゃになって砂月の胸を押し潰す。声が、指先が、全身が震える。
クラスメイトたちは何も言えず、砂月の怒りがいつ爆発するのかと身構えていた。ただ、レンだけは一歩前に出て砂月に向かい合った。彼も険しい表情をしているが、砂月の怒りを受けて逆にどこか冷静になっていた。
「でも、イッチーが早乙女学園に通いながらHAYATOの仕事もしていた――というのは事実だろう?イッチーはオレたちに嘘をつき続けていた。証人は他でもないオレたちだ」
淡々と告げる。雑誌に書かれた内容は、書き方こそ酷いものであったが、紛れもない事実を伝えているのだ。

「……クソッ!」
そう一言吐き捨てて、砂月は教室を出ていった。受け止めきれない現実から逃げ出すように。


◆◆◆


荒々しい足取りで廊下を歩いていると、教室に向かおうとする龍也と鉢合わせた。ちょうど探しに行こうと思っていたところだ。
「トキヤの居場所教えろ。あんたなら知ってんだろ」
挨拶も無しに脅迫じみた口調で迫るが、当の龍也は平然とした態度だった。そう来ると思ったよ、とでも言うかのように。龍也の返答は最初から決まっていた。

「断る」
容赦なく一刀両断されて、砂月は逆上した。壁を殴りつけようと振り上げた腕を龍也に掴まれる。振り放そうとするがびくともしない。
「――離せ!なんでだよ!」
「馬鹿。そう簡単に『はいどうぞ』とでも言うと思ったか?ただでさえ今あいつは騒動の渦中にいる。一生徒のお前に教えられるか」
怒りに任せた砂月の攻撃など、龍也には通用しない。砂月は唸り声を上げて担任を睨みつけた。

「……一生徒じゃない。俺はあいつのパートナーだ」
「パートナーだとしても、だ。一ノ瀬は今頃、事務所と今後の対応について協議してる頃だろう。お前が行ったところで何ができる?怒鳴りつけるのか?慰めるのか?どっちみち、あいつの心を余計に掻き乱すだけだ。下手に動くと後悔するぞ」
「だからって、あいつのことは放っておけって言うのか!?ふざけんな!」

今度こそ砂月の怒りが爆発した。踏みつけた床には深い亀裂が走り、砂月の怒鳴り声で窓ガラスにぴしりと罅が入った。龍也の頬に一筋の切り傷ができ、薄く血が滲む。
これだけで済んだことに龍也は内心驚いた。視線を下にやると、砂月は自分の手を限界まできつく握りしめていた。震える手からぽたりと血が落ちる。砂月は懸命に自分の怒りを抑えようとしていたのだった。

「俺に何ができるかなんて分からねえよ。……でも、あいつを一人にしたくないんだ」

ぽつりと小さな声で呟く。俯き、肩を落とすその姿は、まるで幼い子供のようだった。
トキヤを一人にしたくなかった。会ってその目を見たいと思った。なんで今まで黙ってたと問い詰めて、責める言葉ならいくらでも浮かんでくる。でも今言いたいのはそんな言葉じゃない。だけどうまい慰めの言葉なんて出てこない。ただそばにいてやりたかった。たった一人でこの状況を抱え込んでいるあいつを、この腕できつく抱き締めたいと思った。

俯く砂月のつむじを見つめて、龍也は大きな溜息をついた。仕方ねえなと笑う。
「……お前の本気は分かった。だが俺の立場上、あいつの居場所は教えられない。どうしても知りたいんならもっと『上』に掛け合え」
「上?」
「うちの学園長だよ」
砂月が勢いよく顔を上げる。
「俺からも言ってはみるが、たぶん取り合ってもらえねえだろう。お前が直接行くべきだ。あの人は真正面から向かってくる馬鹿が好きだから、うまくいけばお前の要望は通る。……まあ、命の保証はしないがな」
「……上等だ」

ぎらり、と砂月の目が光ったかと思うと、礼も言わずに逆方向へ歩き出した。目指すのは学園長室。なりふり構ってなどいられない。可能性があるならそれに懸けるだけだ。


◆◆◆


ベッドの上で、トキヤはただ横になっていた。もう三時間は同じ体勢でいる。起き上がるのも億劫だった。
マネージャーから連絡があり、事態が落ち着くまでしばらく自宅にいろとだけ言われた。事務所は今回の報道の対応で手一杯なのだろう、トキヤがしたことに対する叱りの言葉もなかった。
カーテンを閉めっぱなしにして、部屋の明かりもつけていないので、今が昼なのか夜なのかの区別もつかない。確認する気も起きないが、おそらく丸三日はこの生活を続けているはずだった。最低限の食事と風呂とトイレ、それ以外の時間はずっとベッドの上にいた。何もする気にならない。

食料のストックがもうすぐ切れそうになっていても、なぜか焦りは湧いてこなかった。外に出るのは怖いから、もうこのままでいい。
もともとこのマンションは仕事に行く時の中継地点としてしか利用していなかったのだ。食料を多く備蓄していないのは当たり前だ。当たり前のことが、当たり前のように起きているだけ。何も不思議ではない。――そう、すべての事実が暴かれて、散々な「炎上」が起こっているのも、当たり前のこと。
トキヤは細く長く息を吐いた。いつまで。いつまでこうしていればいい。嵐が過ぎ去るのを待つ間、ゆるやかに死んでいく心を引きずって。

――ピンポーン。

暗闇の中、呼び鈴の音が無遠慮に鳴り響く。どうせまた取材の記者か何かだろう。無視を決め込んで寝返りを打つ。
――ピンポーン。ピンポンピンポーン。
二度三度とチャイムが鳴る。しつこい。どれだけ鳴らしたところで出るわけがないというのに。
しかし、執拗な呼び出し音はどんどんエスカレートしていった。回数は容赦なく増え、間隔も短くなっていく。

――ピンポンピンポンピンポンピンポン!ピポポン!ピポ!ピポポポポポ!ピンポンピンポン!

終いにはリズムゲームのごとくチャイムが連打される。おいこら早く出てこいと言わんばかりに。まるで借金の取り立てにでも来たかのようだ。週刊誌の記者でもこれよりはまだ上品だろう。ここまで非常識な連打をしてくる人間は、トキヤが考えつく限り一人しかいない。
ベッドから起き出してインターホンを確認すると、案の定の人物がそこにいた。四ノ宮砂月。物凄い形相で執拗にチャイムを連打している。トキヤは重く長い溜息をついた。このまま居留守を使い続けたら、痺れを切らしてドアを蹴破られかねない。

「――うるさい!」
叫びながらドアを開けると、チャイムの音がぴたりと止んだ。目の前に巨大な壁が現れる。壁はにやりと笑った。
「よう。やっと出たな」
「……どうも……」
目を合わせられなくて、思わず俯いてしまう。こんな姿見られたくなかった。
砂月が頬に大きなガーゼを貼り付けているのに気付く。珍しい、道中で怪我でもしたのだろうか。そもそもどうやってここまで来たのだろう。このマンションの場所はごく限られた人しか知らないはずだが。砂月にも、学園の友人たちにも教えていない。

混乱するトキヤの顔を、砂月はまじまじと見つめた。
「お前、ちゃんと寝てねえだろ。……まあいい、邪魔するぜ」
トキヤの体を押し退けて、砂月はお構いなしに部屋の中へと入っていく。きちんと挨拶をしただけましだろうか。いや、それどころの話ではない。
慌ててトキヤが背中を追いかけると、砂月は迷いなくキッチンへ向かっていた。両手に持っていたビニール袋をキッチンの台に乗せる。ビニール袋には近所にあるスーパーのロゴがプリントされていた。中には野菜やら肉やらがぱんぱんに入っている。

「キッチン借りるぞ」
「あ、あなた何しに来たんですか……」
「何って……メシ作りに来たに決まってんだろ」
「メシ??」

理解が追いつかない。砂月があまりにも堂々としているので、最初からその予定だったと思い込まされそうになる。
「いいからお前はソファーにでも座って待ってろ。……包丁とまな板は?」
「あ、中央の引き戸の手前です。調理器具も一式そこに」
「調味料は」
「右の引き出しにあります。……あの、本当にお願いしていいんですか?」
「何回も言わせんな」
流されるまま砂月の質問に答えてしまった。当惑している間に、砂月は洗面所で手洗いとうがいをさっさと済ませ、ビニール袋の中身を漁っている。どうやら本気で夕食を作りに来たらしい。
砂月に睨まれて、トキヤはすごすごとリビングに退散した。電気のついたリビングはやけに眩しく感じる。仕方がないので、砂月に言われるがまま座って待つことにした。

じきに、醤油のいい匂いが漂ってきた。トキヤはそこでようやく空腹を自覚する。三日間まともな食事をしていなかったので、おいしそうな匂いにつられてしまう。
そわそわしながら待っていると、砂月が皿を手にリビングにやって来た。慣れた手付きで皿をテーブルに並べていく。そういえば、普段一緒に夕食を食べる時も、配膳や後片付けはいつも砂月がやってくれていた。
鶏と厚揚げの煮物に、ごぼうの胡麻和え、人参と卵の和え物、豆腐と長ねぎの味噌汁。そして白米。きっちり一汁三菜揃っている。文句のつけようもない和定食だった。

「……意外です」
「なにが」
「いえ、勝手なイメージですが、あなたはもっと洋風の料理を作るのだとばかり……」
「そうか?和食はお前がよく作ってたからな。手伝ってたら覚えた」

ちょっと手伝ったくらいで覚えられるのはあなたくらいですよ、と言いたかったが、やめておいた。
テーブルに向かい合って二人で手を合わせる。
「いただきます」「いただきます」
自分のマンションの部屋でこんなふうに食事をするのが、不思議でたまらなかった。


◆◆◆


食事の片付けが終わった後、二人は無言で向き合っていた。トキヤは居たたまれなくて俯く。重い沈黙が空間を支配していた。ちらりと砂月に目をやると、憮然とした表情でこちらを見ているのが分かった。絶対に俺からは話を切り出さねえぞという無言の圧力があった。私だって話したくありませんよ、と内心毒づきながらも、トキヤは観念して口火を切った。

「あの。週刊誌の記事は、読みましたか?」
「……まあな。くだらねえ記事だった」
口にも出したくないと言うように砂月が吐き捨てる。その嫌悪感は相当だ。だが、それはトキヤに向けられているものではなかった。第三者が好き勝手に事実を暴こうとしたことへの嫌悪と、他人の事情に首を突っ込んで面白おかしく騒ぎ立てる人間への侮蔑、そして何もできなかった自分への苛立ち。
砂月が自分のためにここまで怒りを顕にしている。トキヤはひどく申し訳ない気持ちに襲われた。自分の口からきちんと説明しなくてはならない。トキヤは息を吸い込んだ。

「あの記事に書かれていることは、表現の差異はありますが、おおむね事実です。私が二重生活を送っていたことも。私の双子の兄が、幼い頃に亡くなっていることも。――その死の原因が私にあることも」

その口調は淡々としていた。努めて感情を表に出さないようにする話し方だった。
トキヤは腰を上げると、棚に置いていたタブレットを取りに行った。
「これが、兄のハヤトです」
そう言ってトキヤは砂月にタブレットを手渡す。液晶画面には、そっくりな双子の兄弟の写真が映し出されていた。口を開けて満面の笑みを浮かべる子供と、その横で恥ずかしそうに俯く子供。笑っている方がハヤトで、俯いている方がトキヤだろう。トキヤは今よりも随分と輪郭が丸くてころころしている。

「私達は双子でしたが、性格はまるで正反対でした。ハヤトは明るくて活発で、とても人懐っこい……周りから愛される人気者でした。逆に私は引っ込み思案だったので、いつもハヤトの影に隠れていました。何をするにもハヤトが先で、私はそれに付いていけばよかった」
スワイプして違う写真を次々と見ていく。運動会の写真、遊園地の写真、どこかの公園の写真――どの写真にも二人が揃って写っていた。仲睦まじく微笑ましい写真ばかりだ。

だが、ある時を境に写真からハヤトの姿がなくなった。トキヤが、「ああ」と声を上げる。
「このあたりです。小学2年生の頃の秋――私達は交通事故に遭ったんです。ピアノの習い事が終わって、家に帰る途中の出来事でした」



その日、幼いトキヤはじめじめとした思いにとらわれていた。
ピアノの練習は、兄よりも自分の方がずっと一生懸命やっていた。上手いのはトキヤの方だ。ハヤトは練習で一度だって課題曲を通して弾くことができていなかった。
それなのに、ピアノの先生はトキヤよりもハヤトを褒めた。間違えることを恐れて途中で弾くのをやめてしまうトキヤよりも、ところどころ間違えても勢いで最後まで弾ききったハヤトの方が評価されたのだ。

「トキヤくん、あなたはとても努力しているけれど、もっと自信をもった方がいいわ。途中で中断してしまったら、それは弾けないのと同じことなのよ」

そんなふうに言われて納得できなかった。先生の言うことは正論すぎて、だからこそ受け入れることができなかったのだ。努力しているのは僕なのに。僕の方がもっとうまく弾けるのに。
帰路を急ぐ気持ちは自然と早足になっていた。後ろからハヤトが急いで追いかけてくる。
「ねえ、トキヤ、待ってよ!どうしたの?トキヤだって上手だったよ?そんな怒らないでってば」
「……うるさい。ハヤトはもう、ついてこないで!」

走り出すと、ハヤトは何度も「待って!待ってよ!」と声を掛けてきた。トキヤがどうしてそんなに怒るのか分からず、走る背中を追いかけることしかできない。
そんな兄を疎ましく思って、トキヤは余計に速く走った。目の前の横断歩道で、青いランプが点滅する。点滅は「止まれ」だ。だが、トキヤは構わずに走り抜けようとした。兄を振り切りたい一心だった。

「トキヤ!」
ハヤトの叫び声が聞こえて、はっと我に返った。気付けば乗用車が目の前に迫っていた。もう一度、ハヤトがトキヤの名前を呼んだ。
――それから先のことは、よく覚えていない。



「ドライバーは、信号が赤に変わる前に、急いで左折しようとしたんだそうです。だから、横断歩道を走って渡ろうとした子供に気付けなかった……」
トキヤの傷は軽い擦り傷だけだった。その代わりに、ハヤトは。
「両親も、周りの大人たちも、私を責める人は誰もいませんでした。トキヤのせいじゃない、トキヤは悪くないんだよ、と……優しく気を遣ってくれる人達ばかりでした。でも私にはその慰めの方がつらく思えたんです。いっそお前のせいだと詰ってくれた方が気持ちは楽だったかもしれない。……子供心に、あの事故の原因はすべて自分のせいだと分かっていましたから」
握り締めた手の指先が白く震えているのを、砂月は静かに見つめる。

「あの事故以来、私は兄の代わりになろうと努めました。負い目も少なからずあったと思います。兄のように明るく振る舞おうとしたり、習い事の時間を増やしたり。そして、兄の『みんなを笑顔にできる人になりたい』という夢も引き継ごうとしたんです。……だけど、無理をしすぎてしまったのかもしれません」

母親は、ハヤトの穴を埋めるように、トキヤを子役としてデビューさせることに躍起になった。だが父親は、もっとトキヤに合わせてゆっくり進めるべきだと反対した。両親の意見の対立にトキヤは何もすることができなかった。自分がハヤトの代わりになるのだという強迫観念じみた思いにとらわれて、大切なことをいくつも見落としてしまったのだ。――兄の代わりなど、誰にもできるわけがないのに。
間もなくして両親は離婚することになり、トキヤは芸能界に入る道を選んだ。

「HAYATOという名で活動することに、はじめは何の抵抗もありませんでした。兄の夢を叶えるのは当然の役目だと思っていましたから。……でも、徐々に違和感を覚えるようになってしまった。『一ノ瀬トキヤとして歌いたい』という思いを、どうしても抑えられなかったんです」
どうしようもない我侭だと分かっていた。兄が死んだ原因を作ったのはお前だというのに、その責任を放棄するのか。兄の夢を代わりに叶えるのではなかったのか。そんな誹謗の声が聞こえてくるようだった。

「自分の我侭のために嘘を吐き続けて、結局こんなことになってしまった。ファンにも、事務所にも、学園のみんなにも……あなたにだって迷惑をかけて……」
それまで淡々と過去を語っていたトキヤだったが、急に言葉に詰まる。ひくりと喉が痙攣した。
砂月が静かに息を吐く。聞きたいことはあらかた聞いた。それでも彼の意志は変わらなかった。

「迷惑ならとっくにかけられ慣れてる。今更だろ」
「でも、」
「『でも』も『だけど』も、もう聞き飽きた。お前が早乙女学園に来たから俺達はペアを組めたんだ。後悔なんてさせるかよ」

まっすぐにトキヤを見た。その言葉に促されるように、俯いていたトキヤが顔を上げる。これ以上はないほど情けない顔をしていた。おどけて笑うアイドルのHAYATOも、成績優秀で完璧な一ノ瀬トキヤも、そこにはいなかった。
「……そんなことを言ってくれるのは、あなただけですよ」
くしゃりと顔を歪ませて泣き笑いの表情を作る。それでいい。そのままのお前でいい。砂月はそう強く思った。


◆◆◆


顔を洗ってこいと命令したら、トキヤは存外素直に従った。洗面所から出たトキヤはいくらかさっぱりとした顔をしていた。憑き物が落ちたというほどではないが、溜め込んでいたものを一気に打ち明けて、少しは心が軽くなったのだろう。
すとん、と再びソファーに座り直したトキヤは、恐る恐るといったように上目遣いで砂月を見上げた。視線の先には、砂月の頬を覆う大きなガーゼ。
「訊いて良いのか分かりませんが……その傷、どうしたんですか?あなたが怪我をするなんて珍しい」
頬の傷だけではない。髪はいつもより乱れているし、首筋や腕にも打撲痕が見える。服に隠れて見えないところにも傷を作ってるのだろう。動きがぎこちないのは怪我のせいだと分かった。
トキヤの問いに、砂月はあっけらかんと答えた。

「これか。学園長と勝負した」
「学園長って……早乙女さんと!?なぜ!?」
「お前の居場所を聞き出そうとしたんだよ。そしたら、勝負に勝てたら教えてやるって言われて……叩きのめした」
「た、たたきのめ……」

呆然とする。あのシャイニング早乙女のことだ、大事な情報と引き換えに勝負を吹っ掛けるなどということはいかにもやりそうだが、それに真正面から乗った砂月も砂月だ。果たして校舎は無事だったのだろうかと心配になる。災害級の二人が本気でぶつかったのだ、教室の一つや二つ吹き飛んでもおかしくない。
「何をやっているんですか……」
痛々しい傷。トキヤは無意識のうちに、砂月の頬に手を伸ばす。ガーゼ越しでも分かるほど、傷口はまだ熱をもっていた。
砂月はトキヤの手を自然に受け入れた。冷たい手が気持ちいいのか、目を閉じてされるがままになっている。

「まったく、私の見ていないところで無茶をしないでくださいよ……」
「……見てないところで無茶してたのは、お前もだろ」

そう言って、砂月はトキヤの手首を掴んだ。
どきりとトキヤの心臓が跳ねる。掴まれたところから自分の速い脈拍が伝わってしまうのではないかと思った。

「勝手にいなくなるな、馬鹿」
「……すみません」
砂月は無言でトキヤの手を引き、胸の中に抱き寄せた。互いの心音が混じり合って、どちらの音なのかも分からなかった。それがトキヤをひどく安心させた。
「……大変だったな」
「……はい」
二人は黙ったまましばらくそうしていた。静かに夜が更けていく。


◆◆◆


翌朝。トキヤはいつもより早い時間に目を開けた。結局、あまり眠れないまま朝を迎えてしまった。ここ一週間ずっとこうだ。考えるべきことが多すぎて熟睡などできるわけがなかった。
起き出してリビングに行くと、毛布にくるまって寝ている砂月がいた。昨夜、客人をソファーで寝させるわけにはいかないと言い張ったのだが、トキヤは砂月によって半ば無理やりベッドに押し込められたのだった。代わりに砂月がソファーを使うことになった。
砂月は、ソファーからはみ出さないように長い手足を器用に丸めている。案外行儀よく寝るのだなと思った。ふかふかの毛布にすっぽり収まり、顔だけ出している様子はまるで巨大な毛玉のようだった。

このマンションの部屋に他人がいるというのは不思議な感覚だ。砂月の寝顔をもっと近くで見ようとしたが、近寄ろうとしたら毛玉がもぞもぞと動いた。人の気配に気付いたらしい。柔らかい髪の隙間から砂月の瞳がぼんやりとトキヤを映した。寝起きだからかいつもの鋭さはない。

「おはようございます、砂月」
「おはよう。……よく寝れたか」
「ええ、まあ」

分かりやすい嘘をついた。砂月には気付かれてしまっているだろう。だが、砂月は眉を顰めたものの、トキヤの嘘を責めるようなことは言わなかった。「そうか」と一言呟いただけだ。のそりと起き上がると、顔を洗いに洗面所へと姿を消した。寝起きで深く追及する元気がないだけか。それとも彼なりの気遣いなのだろうか。



「今日は学園に行く。準備しとけ」
トキヤの用意した朝食を食べながら、砂月はそう言った。ほとぼりが冷めるまで学園に通うのは控えよう――というのがトキヤの考えだったのだが、砂月は即座に否定する。
「ほとぼりが冷めるのなんていつになるか分かったもんじゃない。ここで引き篭もってるよりあっちの方が安全だろ」
確かに一理ある。この部屋に引き篭もり続けるという選択肢はあったが、いずれ買い出しなどで外に出なくてはならない。このマンションの所在がマスコミに知られている可能性もある。外出先で囲まれてしまう状況は避けたい。その点、セキュリティに関しては早乙女学園に圧倒的な信頼があった。学園の敷地に入ってしまえばマスコミも迂闊には手を出せないだろう。……ただ、「内側」からの視線に晒されることは覚悟しなければならない。

「心配すんな。お前のことは俺が守る」
トキヤの不安を見透かしてか、砂月は一言そう付け加えた。朝食の席でトマトを咀嚼しながら言う言葉とは思えず、トキヤは目を丸くした。だが砂月には己の発言を顧みて照れるような様子もない。別に当たり前のことを言っただけ、らしい。歯の浮くような台詞をさらりと言えるのは四ノ宮の血筋なのかもしれない。トキヤは「俺が守る」という発言が自分に向けられているという実感もないまま、「よろしくお願いします」と返事するしかなかった。


◆◆◆


二人は、早乙女学園からの迎えの車に乗って寮に戻った。砂月が学園長と決闘した折、「トキヤを学園に連れ戻すから、迎えの車を手配しておいてくれ」という条件も付け加えていたのだという。意外と抜け目ない男だ。

寮の部屋に戻ると、案の定音也に「トキヤ〜〜〜!!!」と涙目で抱きつかれた。トキヤが不在だったのはたった三日間だけなのだが、音也にとっては耐え難い孤独と心配の日々だったらしい。
「今日から学園行けるの?教室までついてこうか?変な目で見られるの嫌でしょトキヤ」
「……いえ、大丈夫です。先約がいるので」
せんやく?と首をかしげた音也に向かって、トキヤは小さく笑って頷いた。

四ノ宮砂月というボディーガードの存在は、実際虫除けとして効果抜群だった。
目立つのを避けるため、人けのない廊下を行った方がいいのでは……というトキヤの提案は却下され、砂月はいつも使っている廊下を歩くことを選んだ。
「堂々としてろ」
ただそれだけ言って、砂月はトキヤの傍らを歩く。すれ違う生徒たちはトキヤを見るなりひそひそと噂話を始めるが、砂月が厳しい目で一瞥をくれてやると、即座にぴゃっと竦み上がって退散していくのだった。二人が歩く時だけ、波が引くように生徒たちが周りから遠ざかっていく。やりすぎのように思えなくもなかったが、隣を歩く砂月は気にする様子もない。

トキヤの想定よりずっとスムーズに二人はSクラスの教室に辿り着くことができた。
教室の扉を開けると、中にいた全員の視線がトキヤに集まった。――だが、それは廊下ですれ違った生徒たちの視線とは違う。好奇や詮索ではなく、クラスメイトを心配し安堵する労りの眼差しだった。
「トキヤ!」
一番にトキヤの名前を呼び、駆け寄ってきたのは翔だった。その後ろには珍しくレンもいる。ホームルーム前に登校しているレンなど久しぶりに見た。……待っていてくれたのだろうか。
たったの三日ぶりだというのに、トキヤはひどく懐かしい気持ちに襲われた。帰ってきたのだと思えた。まだ問題は何も解決していないが、心が軽くなったのだ。たまらない安堵感と優しさに包まれて、鼻の奥がつんと痛くなる。それさえも嬉しかった。




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