ふたりで奏でるソリスティア【後編】3


砂月が作った甘いお菓子と、那月がいれる芳醇な紅茶。
日曜日の午後、定例となったその「お茶会」は砂月の部屋で開かれる。

お茶セットを抱えた那月が、砂月の部屋の扉をノックする。いつもなら即座に開くはずの扉が、今日に限っては沈黙を保ったままだ。おや?と思いもう一度ノックしようとするが、その前に扉がゆっくりと開かれた。現れた部屋の主は、目の下に濃い隈を作っていた。

「おはよう……」
「おはよう、さっちゃん。……なんだか具合悪そうだけど、どうしたの?」

疲れ切った様子の砂月を、那月は心配そうに見やる。歩く足さえ覚束ない。それでも茶菓子を持ってくるためにキッチンへ行こうとするものだから、那月は慌てて砂月を椅子に座らせた。俺がやる、と立ち上がりかけた砂月を叱りつけて、那月は手早くお茶の用意をした。
ほかほかと上る湯気を受けて、砂月がぱちぱちと目を瞬かせる。那月がいれた温かい紅茶をことさらゆっくりと嚥下した。疲れた体に紅茶の温かさが染み渡っていく。

「本当にお疲れみたいだね?」
「単に寝不足だ。三徹目だからな……」
日曜日の午後とは思えない疲労感は、木・金・土の睡眠を犠牲にした代償だったのか。那月は驚きで飛び上がった。
「ええーっ!?徹夜!?さっちゃん、あんまり無理しちゃダメだよ!」
「いや、無理させてくれ。もう少しで完成できそうなんだ」
「……それって、トキヤくんが歌う曲のこと?」

那月の問いに、砂月はゆっくりと頷いた。
「お前のパートナーに言われたんだよ。とにかく曲を作れ、俺たち作曲家にできることはそれだけだ、ってな。……あいつを俺のところに寄越したのはお前か?那月」
次に頷いたのは那月の方だった。
「……うん、正解。僕がハルちゃんに頼んだんだ。さっちゃんに話を聞いてほしいって」
「なんでそんな回りくどいこと……お前が直接話してくれればよかっただろ」
「ダメだよ。僕の前だと、さっちゃんは気を遣ってちゃんとお話してくれないでしょう?」

図星だ。那月に心配をかけたくないあまり、どんなに大変な状況であろうと隠してしまう悪癖が砂月にはある。那月が春歌を派遣したのはそれを見越してのことだったらしい。実際、砂月は春歌の前では素直に自分の思いを語ることができた。作曲家という立場を同じくする者同士で通じ合うものもあった。那月の判断は正しかったと言える。

「……でも、その感じだと、悩みはもう消えたみたいだね?」
「おかげさまでな。曲作ってたら吹っ切れた」
砂月が笑った。空元気でも強がりでもない、自信に満ちた笑みだ。那月は安心して息をつく。口の中に放り込んだマドレーヌは甘い甘い味がした。





夕食を終え、そろそろ風呂に入ろうかと音也が思い始めた頃。洗い物を済ませたトキヤが、おもむろに外出の準備を始めた。
「あれ、またトキヤ外いくの?いつもの練習?」
「ええ。この時間だとレッスンルームも閉まっているので」
トキヤが外で歌の練習をしているらしいということは音也も知っていた。夕方までボイトレをして、夜は外で練習。いくら中間試験の期日が迫っているとはいえ、そこまでしなくてもいいだろうにと思う練習量を、トキヤは平然とした顔でこなしている。

「練習熱心なのはいいけど、頑張りすぎて体壊さないようにね」
「心配しなくても大丈夫ですよ。……楽しんでいますから」

ふわ、とトキヤが笑った。思わず音也は目を細めてしまった。……眩しい。いや、今は夜なのだからおかしいのだが、確かに音也はトキヤを見て眩しいと感じた。まるでトキヤ自身が輝きを放っているかのような錯覚に陥る。瞬きをするとその煌めきは消え失せていて、いつものトキヤがそこにいた。おかしいなあ、と音也は首をかしげた。

「……トキヤさあ、なんかここ数日できれいになったよね」
「はあ?何の話ですか」
「いやほら顔は元からきれいなんだけど、なんていうかその、きらきらしてるっていうか……」

その感覚を一生懸命伝えようとするが、当然ながらうまく言語化できない。だがトキヤは褒め言葉として受け取ったのだろう、おかしそうに「ありがとうございます」と笑った。
――あ、まただ。トキヤが笑うたびにきらきらしたものが視界いっぱいに広がる。だがトキヤ自身にはそれが見えていないらしい。
星のような煌めきを舞い散らせながら、トキヤはいつものように「いってきます」と言って外へ出ていった。





柔らかな月の光が照らす夜、四ノ宮砂月はあてどもなく学園内の庭をさまよい歩いていた。
徹夜続きの頭ではまともにメロディーを思い描けもしない。気分転換に散歩をするくらいなら寝た方がいいと分かっているが、あと少しで終わりの形が見えそうなのだ。もうほんの半歩ほど進むことができれば、曲は完成するはずだった。
パズルの完成形は見えている。だが足りない。最後の1ピースがどこを探しても見つからない。庭のどこかに落ちてはいないかと、足元を覗き込みながら歩いてしまう。実体のないパズルのピースなど、落ちているわけがないというのに。

あてどもなく歩いているはずが、足は無意識に裏庭の池の方へと向かっていた。入学式前夜、トキヤと初めて会ったあの場所だ。
あの夜からまだ数か月ほどしか経っていないのに、二人の関係は随分と様変わりしてしまったように思う。まさか一ノ瀬トキヤにここまで振り回されて心をぐしゃぐしゃにされるとは思ってもみなかった。一曲のためにこれほど時間を費やしたのも、曲を作るために徹夜したのも、これが初めてだった。何もかもトキヤと出会ってから変わった。その変化を好ましいと思う自分も、きっと大きく変わっているのだろう。

歌声が微かに聴こえる。今から向かおうとしている先から声は聴こえた。砂月が欲し続けた歌声だ。確信めいた足取りで先へ先へと進んでいく。まるで全てがあの夜の再現のように思えたが、ただ一つ違うのは、砂月がこの声の主を知っているということ。

果たして一ノ瀬トキヤはそこにいた。月に向かって静かに歌っている。月光がまるでスポットライトのように差し込んでいた。砂月は何度も瞬きをした。輝いているのが月の光のせいなのか、それともトキヤ自身が輝いているのか判別できなかったからだ。

《ひとりがいい ひとりでいい そう思ってたソリスト
広すぎる舞台 幕はいつまでも上がらない》

美しく、しかし寂しい声だった。
たった一人で歌い続けてきた誇り、一人であるがゆえの孤独、寂しさを分かち合う友を欲していながら拒絶する――たったワンフレーズの中に、物語が凝縮されて存在していた。砂月の脳裏に映画のようなストーリーが次から次へと浮かび上がってくる。砂月が曲を作った時にぼんやりとイメージしていた光景が、何千倍も鮮明な映像となって駆け巡る。これがトキヤのイメージなのか。曲に歌詞を乗せるだけではここまで膨らませることはできない。嫌になるほど聴き慣れたはずの曲が、トキヤによって歌われることで、まったく違う曲のように聴こえた。――声だ。トキヤのあの歌声が、曲の奥底に沈んでいた感情を掬い上げて輝かせている。

トキヤの歌声には色があった。透明だが、聴く者のイメージに寄り添ってどんな色にも変わる。かつて砂月が「ふざけるな」と切り捨てた、あの無機質な透明さとは違う。トキヤの感情が確かにそこに存在していた。トキヤの感情と、受け手の感情が結びついて、鮮やかな色彩へと変わるのだった。

――これが、俺の色か。
砂月はトキヤの歌声を聴きながら、同時に自分自身と向き合っていた。こいつは、透明であるということを、こんな形で昇華したのか。いつの間にここまで辿り着いたんだ。砂月はただただ圧倒されていた。一ノ瀬トキヤだけが表現できる歌の世界に。

「……砂月さん」

歌声はサビの直前までで途切れた。そこまでしか曲ができていないからだ。砂月がはっとして顔を上げると、歌い終えたトキヤがまっすぐにこちらを見ていた。喧嘩別れして以来、一度もまともに合わなかった視線が今、繋がった。トキヤは驚いた顔をしていたが、決して目を逸らさなかった。

「その曲……」
「あ……すみません、あの……、あなたが捨てた楽譜を勝手に見てしまって……でも私は、どうしてもあなたの曲を歌いたくて、それで」
「歌詞まで勝手につけて歌ってたわけか」
「……すみません」
「謝るな。――お前の歌を聴いた後じゃ、何も文句は言えねえよ」

降参だというように砂月は笑った。トキヤは目を見開いて砂月を凝視する。砂月がこんなふうに柔らかく笑うのを見たのは初めてだったのだ。
「あの時からずっと、曲を作り続けてた。なのに、何度書き直しても納得がいかねえ。何かが足りなかった。だから捨てた。……けど、違ったな。お前が歌わなかったから駄目だったんだ」
パズルのピースが綺麗に元の場所へ戻っていくように、ばらばらだった欠片が繋がり、ひとつの形を成していく。最後の一欠片、それが一ノ瀬トキヤだった。
「お前が歌うことで、俺の曲は完成する。……どうやら、俺にはお前が必要らしい」
他の誰でもない、一ノ瀬トキヤが必要だった。トキヤでなくては駄目だった。

「……私もです」

トキヤのまっすぐな声が応じた。
今まで、ただ「歌いたい」という茫漠とした思いだけを抱えて生きてきた。与えられた楽曲を歌いこなし、それでやっと歌への欲求に対する飢えを凌いでいる状態だった。何かが足りない。自分が本当に歌いたい曲はこれではない。そう思いながらも、欠落を埋めることはできなかった。

砂月が捨てていった楽譜を見た瞬間にトキヤの中の何かが変わった。これだ、と。探し続けていたものがそこにあった。一ノ瀬トキヤのために作られた曲。この曲を歌いたい。真っ先にそう思った。
それまで「歌いたい」と思うことはあっても、対象を意識したことはなかった。ただ歌える曲さえあればよかった。どんな曲でも完璧に歌いこなしてみせると、傲慢な思いさえ抱いていた。だが、これは違う。砂月の曲は、トキヤに明確な意志を抱かせた。この曲がいい。この曲でなければ駄目だ。――初めて、そう思った。

「トキヤ、」
何か言いかけた砂月を、トキヤは静かに制した。
「砂月さん。……どうか私に言わせてください」
背筋を伸ばす。砂月を一心に見つめる。

「私は、私の歌で、あなたの曲を誰よりも輝かせます。だからあなたにも、あなたの曲で、私をアイドルとして輝かせてほしい。
――お願いします、砂月さん。私のパートナーになってください」

迷いのない目で、そう言い切った。
砂月は眩しさに目を細めた。――俺のパートナーは、こんなにもきらきらと輝いている。その輝きを引き出したのは自分だということが俄には信じられなかったが、信じないわけにはいかないだろう。当のトキヤがそう言っているのだから。
「……今更遅いんだよ、バーカ」
砂月は照れ隠しに悪態をついた。そうでもしなければ、次から次へと感情が溢れ出して止められそうになかったのだ。

「俺は最初から分かってたぜ?――お前を輝かせるのは、俺しかいない」

かつて二人がペアを組むことになった時、砂月は「お前の方から俺にパートナーになってくれと頼み込むようになる」と宣言した。その言葉は今、期せずして現実のものとなった。
柔らかな月の光が二人を照らす。再び繋がった彼等の関係を、今一度祝福するかのように。




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