ふたりで奏でるソリスティア【後編】2


「失礼します。Sクラスの一ノ瀬トキヤです。レッスンルームの鍵を取りに来ました」
優等生らしい折り目正しい挨拶だ。職員室で事務作業をしていた龍也が顔を上げる。
「おう、一ノ瀬か。鍵ならそこに――いやちょっと待て、先約が入ってるな」
トキヤが借りようとしていたレッスンルームは、既に誰かが使用中らしい。もうそろそろ陽も沈む時間だ。レッスンルームの使用は許可されているが、この時間まで練習をするのはそれこそトキヤのように熱心な生徒くらいだった。
「先に使ってた奴もそろそろ終わるだろうから、そいつと交代してやってくれ」
「……分かりました」
先約がいるなら、代わりに空いている部屋を使わせてもらってもよかったのだが、龍也がそう言うなら断る理由もない。
では、と出ていこうとするトキヤの背中を、龍也が呼び止めた。

「一ノ瀬。お前、大丈夫か?」
……大丈夫か、とはどういう意味ですか?
喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。この人にまで余計な心配をかけてしまっているのかと、自分の不甲斐なさに嫌気が差す。龍也は具体的な明言を避けたが、どうせ砂月とのペアについて訊いているのだろうということは容易に察せられた。誰も彼も、どうして自分たちのことをこうも気にかけるのか。砂月とトキヤのペアはもう形だけのものになってしまった。これ以上何かが変わることは無いというのに。
そんなに、今の自分の歌は魅力がないということだろうか。――少しだけ、訊いてみたくなった。
トキヤはくるりと振り返ると、心配そうな顔をしている龍也を見上げた。

「日向先生は、私の歌を聴いてどう感じましたか?」
「どうって……言っていいのか」
「ええ。正直な感想をお願いします」
今日の授業では歌のレッスンがあった。トキヤの歌を、龍也もその場で聴いていた。あの時はしっくりこないような表情をしていたから、きっと龍也なりに思うところがあったのだろう。

「じゃあ率直に言わせてもらうが……一言で言うなら『完璧』、だな。整いすぎてていっそ不気味だ。聴く側の人間に全部委ねてるような……お前自身の感情が全く見えてこない。そういう表現方法もアリっちゃアリだがな、お前の場合は無理して変えようとしてるだろ」

龍也らしい、歯に衣着せぬ物言いだ。これが林檎であればオブラートに包んで伝えるのだろうが、龍也は「正直な感想を聞きたい」という教え子の申し出に真っ向から答えたのだった。
トキヤは表情を動かさなかった。酷評も想定通りだったからだ。「完璧」と評された歌の裏側にひそむ空虚さを、龍也は決して見逃さなかった。さすがは教師というべきか――すべて見通されている。

「俺たちアイドルは、曲がなきゃ歌えない。そしてどんなに良い曲でも、それを活かすも殺すも歌う側次第だ。お前はあいつの曲をどう歌う?」
あいつの曲――それが誰を意味するのかなど、考えたくもない。トキヤは背筋を伸ばした。
「誰が作った曲かは関係ありません。どんな曲だろうと私は完璧に歌いこなしてみせます」
「……アイドルと作曲家の心が通じ合っていない曲でもか?」
「…………」
「そんな状態でトップを狙えるほど、早乙女学園は甘くねえぞ」

龍也の表情は険しい。爪先立ちをして精一杯自分を高く見せようとも、ひとたび肩を押してやればすぐにバランスを崩れてしまう。その危うさを、教師である彼はよく知っていた。
作曲家コースとアイドルコース、それぞれの成績トップ同士によるペアだ。龍也とて期待していなかったわけがない。だが相性というものは確かに存在する。どれほど優秀な生徒であっても、壊滅的に反りが合わないのであれば、無理に引き止めることはない。中間試験の後にペアを解消する生徒は今までに何組も見てきた。
だが――砂月とトキヤを、その類型に当てはめてしまっていいのか。本当に彼らの相性が悪いというなら、ここまで気を揉むこともなかった。今は仲違いしているが、それを乗り越えた先に、もっと大きな可能性を見い出さずにはいられないのだ。

「あらあら龍也、トキヤちゃんをいじめちゃだめよ〜?」

重苦しくなった空気を壊すように、明るい声が割って入ってきた。月宮林檎その人だ。軽やかにトキヤと龍也の間に体を滑り込ませ、龍也に向かって「メッ!」と人差し指を立てる。
「……いじめてない」
「でも説教臭かったじゃない。廊下までぷんぷん臭ってきたわよ」
「ぷんぷんってお前な……」
どうやら廊下で二人のやり取りをずっと聞いていたらしい。林檎の賑やかさに、龍也は毒気を抜かれたように脱力した。そんな龍也を横目で見やって、林檎はトキヤに向き直る。

「トキヤちゃん、言い方はちょっときつかったかもだけど、龍也の言ったことはアタシ
もその通りだと思うわ。アイドルと作曲家、まずはちゃんと向き合わなくちゃよね」
言われなくても分かってるでしょうけどね? そう言って林檎はウインクをした。アイドルのお手本のような完璧さだ。
「……はい」
「うんっ、上手にお返事できました!そんなトキヤちゃんに、アタシから贈る言葉がありま〜す!」
うなだれるトキヤを元気付けるように、林檎はトキヤの背中をぱしぱしと叩いた。

「『誰があなたを輝かせるの あなたは誰を輝かせるの』ってね――アタシの好きな映画のキャッチコピーよ。悩めるトキヤちゃんにぴったりの言葉だと思って。アイドルは自分ひとりの力で輝けるわけじゃないのよね〜」

そうでしょ龍也、と同意を求められ、龍也も不本意そうに頷いた。自分の言いたかったことを林檎に全部持っていかれて、釈然としない様子だ。
そんな教師二人のやり取りを見て、トキヤは思わず笑った。久しぶりにこぼれた、自然な笑いだった。





廊下を歩きながら、トキヤは先ほど林檎から言われた言葉を頭の中で反芻していた。
誰が自分を輝かせるのか。自分は誰を輝かせることができるのか。
その答えはもう、随分前からこの手のひらの中にあったはずだ。人に言われずとも自分が一番よく分かっている。けれどもまだ認めることができなかった。邪魔をするのはちっぽけなプライドと意地だった。自分から離した手を、もう一度繋ぎ直そうとするなど。どんな顔をして言い出せばいいのか分からない。

悩んでいるうちにレッスンルームの前まで来ていた。音は聞こえないが、明かりは扉の隙間から漏れている。邪魔にならないようにゆっくりドアノブを回そうとして――向こう側から急に扉を開けられた。
「うわっ……!?」
バランスを崩して足がもつれる。倒れそうになる体を、扉の反対側にいた人物が受け止めた。広い胸。強い力で掴んでくる手。この感触を知っている。
「あ……」
「…………」
トキヤが慌てて離れると、砂月は無言で溜息をついた。お前か、と言わんばかりに。トキヤは即座に視線を逸らした。どうしても目を合わせられない。

「……気を付けろよ」
「す、すみません……そうだ、鍵は」
「鍵? お前、ここ使うのか。こんな時間から?」
「ええ、ボイトレは毎日しておきたくて……」

そこまで言ってしまってから、トキヤは言わなければよかったと後悔した。ペアとして曲作りもままならない状況だというのに、ボイストレーニングだけはご丁寧に毎日欠かさずやっているのか。中間試験で落第になったらそれも全部無駄になると分かっていながら? いいご身分じゃないか、その余裕を分けてもらいたいくらいだ。
――そこまで言われることを想像して身構えていたのだが、どれだけ待っても砂月の暴言は降ってこない。代わりに、レッスンルームの鍵がトキヤの胸に押し付けられた。

「……あまり遅くなるなよ」

すれ違いざまだった。ほんの一瞬、砂月の大きな手のひらが、トキヤの頭にぽんと載せられた。えっ――と思う間もなく手は離れてしまった。トキヤが状況を把握しようと努めている間に、砂月は暗い廊下を歩いていき、その背中はみるみる小さくなっていった。
何が起こったのか分からない。トキヤは目を白黒させるしかなかった。覚えているのは、砂月の声が思いがけず柔らかかったことと、頭の上に載せられた手のひらの温かさだけ。トキヤの頭を混乱させるにはそれで充分だった。





――いったい何だったのだろうか、あれは。
自分の手のひらを頭の上に載せたまま、トキヤは未だ混乱の中にあった。砂月からあんなふうに優しくされたのは初めてだったのだ。まして自分たちは今、決裂状態だというのに。
砂月が何を考えているのか分からない。目を見ればそれも少しは分かったかもしれないが、トキヤは結局一度も砂月と目を合わせることができなかった。あの時、彼はどんな目で自分を見つめていたのだろう。

広いレッスンルームを見渡す。ピアノの椅子に腰掛けると、まだほんの少し温かった。ついさっきまで砂月がそこに座っていたのだ。砂月の体温を意識してしまって、思わず椅子から立ち上がる。その拍子に、椅子のそばに置いてあったごみ箱が倒れた。
「ああもう、これだから……」
動揺する自分を叱咤しながら、散乱したごみ箱の中身を元に戻そうとする。ノートの切れ端、飴の包み紙、丸められた紙屑――その中の一枚に、五線譜を見つけて手が止まる。
見覚えのある紙だった。砂月が作曲をする時によく使っていたものと同じ種類。心臓が強く脈打った。一度ごみとして捨てられたものを拾い上げてもいいのか。その中身を見ることは、隠された秘密を暴く行為に他ならない。だが、トキヤの指は止まらなかった。くしゃくしゃになった紙をゆっくりと広げていく。

「これは……」
砂月の筆跡で書かれた音符たち。メロディーと、簡単な伴奏だけが記された楽譜だった。至るところに消しゴムで乱雑に消された跡があった。何度も書いては消し、書き直しては消したのが見て取れる。そうまでしても最後まで納得がいかず、結局くしゃくしゃに丸めてごみ箱に捨てた――そんな楽譜だった。

次の瞬間、トキヤは無言でごみ箱の中身を床にぶち撒けた。綺麗好きの彼からは考えられない行動だったが、トキヤは汚れるのもお構いなしにごみを漁った。散乱するごみの中に、やはり同じように丸められた楽譜を見つける。その度にトキヤは床に突っ伏し、丁寧に丁寧に皺を伸ばした。食い入るように楽譜を見つめる。捨てられていた楽譜は計8枚。綺麗に広げられた楽譜を、曲の流れに沿って並べ替える。トキヤの頭の中では曲のメロディーが流れ始めていた。

楽譜を並べ替え終わると、残ったごみを片付けることもせず、トキヤは一目散にピアノに向かった。楽譜に記された旋律をピアノが奏でる。トキヤの唇から、無意識のうちにハミングが漏れ出た。歌詞はない。だが、歌わずにはいられなかった。

始めはシンプルな旋律だった。美しいが、どこか寂しい。トキヤの脳裏に浮かんだのは、広いステージの上で一人で歌う自分の姿だった。どんな曲であろうと、一人で完璧に歌いこなすことが正しいと思っていた自分だ。
途中で急に曲調が変わる。不協和音と変拍子。ぶつかり合うような音と音。聴く者の不安を煽るような激しさ。
しかし不協和音は少しずつ形を変えていく。互いにぶつかり合いながら、美しい旋律を生み出すために藻掻いて、藻掻いて、その先に――

――楽譜は、サビの直前までで終わっていた。どんなに探しても、8枚目から先の楽譜は出てこなかった。曲は未完成だった。
曲半ばで途切れたハミングの残響が、行き場を失くしてレッスンルームに余韻を広げていく。トキヤは口を半開きにしたまま、呆然と楽譜を見つめていた。題名もなく、途中で終わっている曲。それでも分かる。トキヤは歌を歌う人間として本能的に理解していた。

これは、「一ノ瀬トキヤ」が歌うために作られた曲だ、と。

ひとすじ、涙が頬を伝った。どんな言葉よりも雄弁に、その涙はトキヤ自身の感情を表していた。
震える指が楽譜に触れた。砂月によって記された音符ひとつひとつを確かめていく。くしゃくしゃになった紙の皺さえも愛おしむようになぞる。無駄なものなど一つもない。それらすべてが砂月からトキヤに向けられたものだからだ。

――あなたは、諦めていないのですか。繋ぎとめようとしているのですか。先に手を放したのは私の方なのに。「トキヤ」を消そうとしたのは私だったのに。
それでもまだ、必要としてくれていますか。私の声を、私の歌を、――私自身を。

夜のレッスンルームで、トキヤはひとり静かに泣いていた。
歌いたいと思う。彼が自分のために、幾度も書き直しながら作った曲を。
『誰があなたを輝かせるの あなたは誰を輝かせるの』
その言葉の答えが今、確かな実感を伴って心の中に染み渡っていく。

―ー砂月さん。
あなたが私に輝きをくれたように、私もまた、あなたの曲を誰よりも輝かせたい。




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