ふたりで奏でるソリスティア【後編】1


「ケンカしたあ!?」

素っ頓狂な声が教室に響き渡り、その場にいたSクラスの面々は声の主である翔と、その周囲にいたトキヤとレンを見やった。トキヤは不愉快な表情を浮かべて忌々しげに翔を睨む。
「翔、大声を出さないでください。そんな反応をされると言う気が失せます」
「いや、だって大声出したくもなるだろ……お前らが仲悪いのはいつものことだけどさあ」
「わざわざオレ達に報告してくるってことは、今回のケンカは『いつも』の比じゃない位に深刻なんだろう?」

翔の言葉を引き取るようにして、隣からレンが首を突っ込んできた。相変わらず察しのいい男である。
「イッチーとシノミーの距離は最近になってかなり近付いてきていたからね。少なくとも目を合わせればすぐケンカ、なんてことにはもうならないはずだ。それが今になって決裂したんだから、よほどの事情があったんだとオレは推測するよ。たとえば、音楽に対する姿勢を根本から否定された……とか。どうだいイッチー?」
名探偵レンの指摘は図星だった。何も否定することができないトキヤはただ黙って机の木目を見つめるばかりだ。昨夜の出来事を思い出して唇を噛む。砂月から言われた言葉が、まだ棘のように胸に引っかかって抜けない。

トキヤは俯いたまま低い声で唸った。
「もうあの人とは口もききたくありません。仮のペアだって今すぐ解消したいくらいです」
「でも、今回のペアは強制なんだから変えようがねえじゃん?なんも打ち合わせなしに曲作るなんて、いくらあいつでも無理だろうし」
「必要最低限の打ち合わせはしますよ。ですが一緒に食事など二度とするものですか」
「トキヤ、お前それで良い曲ができると思ってんのか?」

翔の声は不信に満ちていた。彼は、曲の作り手と歌い手が共に協力し合うことで初めて最高の歌が完成するという考えの持ち主だ。トキヤとて、昨晩まではそう考えていた。砂月となら信頼関係を築けるかもしれない、二人で力を合わせれば更に素晴らしい歌が生み出せる、と。だがそんな甘い考えは所詮綺麗事にすぎないと知ってしまったのだ。
砂月とトキヤの間にあったものは、ただ互いのエゴを押し付け合って、相手を都合よく利用するだけの関係だった。自分の思い通りにいかなければ即座に相手を切り捨ててしまえる。だから砂月はトキヤを言葉の礫で突き放し、トキヤも砂月の元から離れていった。

「……作曲家と歌い手の間に交流など不要でしょう。作曲家は自らの最高傑作を提供し、アイドルはその曲を完璧に歌い上げる。それだけです」

無機質な声で返答すれば、翔は呆れたように「お前らほんとどうしようもねえなあ」と溜息をつき、レンは「そういう強情なところだけは似てるよね」と苦笑した。相反しているようでいて、根っこの部分は似た者同士。だからこそ同族嫌悪にも似た感情を抱いてしまうのかもしれない。
さてどうしたものか……とレンが思案していると、教室のドアが勢いよく開け放たれた。担任の龍也――ではない。朝のホームルーム開始直前になって現れたのは、話題の渦中にいる人物。砂月だ。

「うわ……」
翔が思わず引き気味の声を上げた。それまで雑談に湧いていた教室内が水を打ったように静まり返る。それほどまでに、砂月の纏う空気は重かったのだ。
クラスメイトたちの視線を受けても、砂月はそのどれにも視線を返さなかった。彼が見ているのはたった一人。教室の中で唯一、砂月に目を向けずに俯いているトキヤを、砂月は凝視していた。
大股で砂月はトキヤの席へと歩いていった。彼が一歩進めるたびに、近くの席にいるクラスメイトは仰け反るようにして道を開けた。威圧感が尋常ではない。
だが、トキヤだけは、その威圧感にあてられてもなお睫毛一本動かさなかった。砂月が目の前に立ち塞がる。

「……よう」
低い声で吐き出された言葉。砂月から挨拶をするのは非常に珍しいことだ。彼なりの譲歩と誠意――だったのかもしれない。せめて挨拶くらいは、と。
翔は慌ててトキヤを見た。これに対してトキヤはどんな反応を返すのかと気が気でなかったのだ。しかし、トキヤは決して顔を上げなかった。反応をしないということがトキヤの応えだった。砂月に圧倒されているわけでも、気まずくて返事を返せないというわけではなく、トキヤは自らの意志で砂月と目を合わせることを拒否した。

「……おはようございます」
視線の代わりに返された言葉はやはり無機質で、ごく機械的なものだった。挨拶をされたから挨拶を返す、ただそれだけ。何も感情はない。
トキヤのその受け答えを見ていたクラスメイトたちは、そこでようやく、これは只事ではないということを身にしみて実感したのだった。砂月の挨拶にトキヤが嫌味の一つでも返してくれれば、待ってましたとばかりに売り言葉に買い言葉のような応酬が始まるはずだ。それがいつもの朝の光景だった。だが今日は明らかに様子が違う。たった一度きりの挨拶のやりとりだけで、クラスメイトたちは二人の間に生じた決定的な断絶を理解するに至った。

砂月はそれ以上トキヤに対して言葉を発することはなかった。お手本のような舌打ちをして、窓際の自席へと歩いていく。乱暴な音を立てて砂月が着席したのと同時に、龍也が教室へと入ってきた。
「おはようお前ら。ホームルーム始め――……どうした?」
最悪の空気の中で登場を果たした龍也は、目を点にして教室を見回す。彼の問いかけに応えられる生徒は一人もいなかった。





「やあ。朝からあんな修羅場を披露してくれるとはね」

ひらひらと手を振るレンの横を、砂月は一瞥しただけで通り過ぎようとする。待った待った、という制止の言葉と共に、レンは体を滑り込ませて砂月の行く手を遮った。無視されるのは織り込み済みだ。
「……お前に話すことは何もねえ」
「いやまあそう言わずに。イッチーの友人代表として答え合わせをしたいんだよ」
「答え合わせ?」
「うん。昨日の夜、イッチーとの間に何があったのかってね。イッチーもあまり詳しくは話してくれなかったから」

レンはSクラスの面々の願いを一身に背負ってここに立っている。自分たちはとてもじゃないが「あんなの」には話しかけられないから、代わりにお前が行ってきてくれ、と。クラスメイトたちの無言の圧だ。砂月と少なからず面識のある翔ですら、砂月に事情を聞きに行くのは断固拒否してきた。あいつと面と向かい合ってへらへらしてられるのはお前だけだ、お前のあえて空気を読まないスタイルだけが頼りだ。褒め言葉なのか貶されているのかよく分からない励ましを受けて、レンは砂月のもとへと送り出されてきたのだった。
そしてレン自身も、その役目は自分にしかできないだろうと思っていた。砂月の考えていることはまだ分からないが、トキヤの事情ならある程度察している。

砂月とトキヤが決裂した原因は何か。おそらく、砂月は一ノ瀬トキヤの「地雷」を踏んだのだ。

「だいたい想像はつくよ。イッチーが触れられたくないことに、触れてしまったのかなってね。……『仕事』のこととか」
ぼかした表現をしているが、それがHAYATOのことを暗に示しているというのは砂月にも分かった。

『今のお前に比べたら、作られたHAYATOの方がずっとマシだ』

――そう言い捨てたのは、他でもない砂月自身だったのだから。砂月の眉間の皺が深くなる。一度言ってしまった言葉はもう取り返しがつかない。

「そこまで分かってるなら、お前があいつに何か言ってやればいいじゃねえか」
「いいや。オレの方からそのことに触れるつもりはないよ。イッチーが自分から『仕事』について話してくれるまでは、黙っているつもりさ」
「……いつになるんだ、それ」
「さあね」

肩をすくめるレンを、砂月はじっと見つめた。神宮寺レン。砂月と同い年だというこの男、飄々としているが、思った以上に鋭い。Sクラスではトキヤ以外の人間など眼中外に等しかったが、いつまでもそうしている訳にはいかないらしい。レンは砂月の威圧感にも臆せず向かい合っている。

「でも意外だったよ。イッチーの地雷を踏んだってことは、それくらい奥に踏み込んだってことでもあるだろう? 少なくとも……入学したての頃のシノミーなら、イッチーの歌に対してそこまで干渉しようとはしなかったはずだ。違うかい?」

砂月は押し黙った。砂月は興味がない相手に対しては、自分の領域には絶対に入らせないし、相手の領域にも立ち入る気はない。だが、昨日は。トキヤの歌を聴いて「違う」と思ってしまった。こんなつまらない歌をお前が歌うのか。お前の本気はこんなものじゃないだろう、と。
拒絶されない確証はなかった。もとより受け入れられる可能性は低いと思っていた。……それでも、期待してしまったのだ。

「だけど拒絶されて……シノミーはこんなの平気だって顔してるけど、実は結構真剣に落ち込んでたりするんだろう?」
「……分かったような口をきくな」
その反応は、図星であることを認めているようなものだ。レンは笑ってしまいそうになるのを懸命にこらえた。ここで吹き出そうものなら砂月の拳が飛んできかねない。本人たちにとっては深刻な問題なのだろうが、外野からすると話は至ってシンプルだ。解決策はただ、自分の気持に正直になるということ。だが恐ろしいほど高いプライドと、凝り固まった意地はそう簡単に二人を素直にさせてはくれないだろう。

「まあ、オレが言いたいのはね、シノミー。期待を裏切られたと思ってるのは、シノミーだけじゃないってことさ」
期待を裏切られたと感じるのは、裏を返せば、少なからず相手に期待していたということになる。それも、お互いに。
砂月は眉間に皺を寄せたまま首をかしげた。レンの言葉の意味が正しく理解できていないようだった。トキヤもまた自分に期待をしていた――という考えは、砂月の頭にはこれっぽっちもないらしい。自己肯定感が低いのも考えものだ。
だが、これ以上は深入りしないでおこう。答えを教えすぎてはいけない。自分たちの問題は自分たちで解決してもらわなければ。

「ま、いつか分かるよ」
にっこり笑って踵を返す。しばらく歩いてから後ろを振り向くと、廊下に突っ立ったままの砂月はまだ首を傾げたまま固まっていた。





牛肉の玉ねぎソースがけと、筍と豆腐の吸い物、モロヘイヤとツナのおひたし。
トキヤらしいヘルシーで地味なメニューだよなあ、と心の中で独りごちながら、音也は温かい吸い物をごくりと嚥下した。おいしい。でも少し、しょっぱい。

「……何ですかその顔は」

トキヤは目で音也を威圧する。食事中だというのにやけに不機嫌だ。……ここ最近はずっとこの調子だった。
考えが読み取られていそうで怖い。音也はへらへらと笑って誤魔化した。

ある日を境にして、トキヤは音也と一緒に夕食を食べる生活に戻っていた。
中間試験が終わるまでトキヤはずっと砂月の所で食べるのだとばかり思っていたので、突然それが終わりを迎えたことに音也は少なからず驚いた。トキヤは頑なに理由を言おうとはしない。音也がその話題に触れようとすると、憎しみすら籠っていそうな目できつく睨まれるのだ。落ち着いて食事もできない。

「おいしくないなら正直に言っていただいて結構ですよ。別に落ち込んだりしませんから」
「えっ!?俺、おいしくないなんて一言も言ってないよ!?」
「だって不満そうじゃないですか」
「そんなことないって……」

音也はトキヤの作る料理が好きだった。だから、こうしてまた共に食べられることは嬉しいはずだった。しかし素直に喜べないのは、いつまでもトキヤが寂しそうな目を引きずり続けているからだろう。

数日前、久しぶりにトキヤの手料理を食べた時、少し味付けが変わったと感じた。全体的に心持ち甘い味付けになっているような気がしたのだ。日常的にトキヤの料理を食べ続けていた音也だかたこそ気付けた、微妙な変化だった。
「少し味付けが甘くなったね。好きだよこの味」とトキヤに言うと、彼はひどく傷付いたような顔をした。音也にしてみれば褒め言葉以外の何物でもなかったのだが、トキヤには別の受け取り方をされたらしい。おそらくそれは、トキヤ自身も意識していなかった無自覚的な変化だったのだろう。
トキヤは眉を曇らせて、その日は再び箸を持つことがなかった。せっかく美味しいのに勿体無い、と彼が残した分は音也が全て平らげたが、そんな音也を見つめる彼の視線はやはり沈んでいた。

それ以来、トキヤは意識して味付けを変えるようになった。ほのかな甘い味付けはすっかり消えて、その反動なのか以前と比べてしょっぱくなった。知らず知らずのうちに変わっていた甘い味付けを必死で忘れようとするかのように。
味付けが変わっても美味しさは維持していたが、それでもやはり、音也は以前の甘い味の方が好きだった。今の塩辛さは、まるで涙の味だ。
そんなことを言うとトキヤはまた傷ついた表情をするだろうから、何も言えないけれど。

「そりゃあ、俺はまたトキヤと一緒にごはん食べれて嬉しいけどさ……」

音也は気まずそうに言い淀んだ。
すると不機嫌さを隠そうともせずに、トキヤが睨みつけてくる。
ああ、そういえば今日廊下ですれ違った砂月も、丁度こんな顔をしていたなあ、と音也は頭の隅で思うのだった。





「お疲れ、HAYATO。今日の生放送かなり評判いいみたいだぞ。トレンドにも載ったんだ!」

トキヤが車に乗り込むや否や、マネージャーの氷室が興奮気味に自身のスマートフォンを見せてきた。その顔は誇らしげだ。SNSのトレンドワード欄に燦然と輝く「HAYATO」の名前。氷室がトレンドワードをタップすると、HAYATOを話題にしているSNS上の呟きがずらりと並んだ。中にはテレビ画面のスクリーンショットを載せているものもある。ちょうどHAYATOが大ボケをかまして盛大に転んだ時の画面だった。「HAYATOやばい」「もはやお笑い芸人レベル」――HAYATOの言動を笑うことで、画面の向こう側の人々が盛り上がっている。

「ああ……凄いですね。頑張った甲斐がありました」
「そうだろうそうだろう!HAYATO、調子を取り戻してきたな!この感じでこれからも頼むぞ」

氷室は喜色を滲ませて笑った。純粋な人だ。そしてそれ故に、トキヤにとっては残酷なことさえも軽やかに言い放ってしまえる。トキヤも微笑みを返したが、きっとぎこちない表情になっていただろう。
これでいい、とトキヤは思った。人を笑顔にする手段は何も歌を歌うことだけではない。今はHAYATOが求められている。歌えないとしても。本来の自分とはかけ離れたキャラクターを演じなくてはいけなくても。

トキヤは息苦しさを覚えて喉に手をやるが、体にはどこにも異常はなかった。車内の空調もきちんと効いている。息苦しいと感じているのは精神的なものだった。
氷室がHAYATOを讃えれば讃えるほど、「トキヤ」は息ができなくなる。どこで呼吸をすればいいのだろう。ここにあるのはHAYATOの居場所だけだ。

――砂月さん。

静かに動き始めた車の中で、トキヤはひっそりとその名を呼んだ。
自然に「トキヤ」として振る舞えていたあの場所は、自分から手放してしまった。彼の名前を声に出して呼ぶことはもうできない。

HAYATOに徹すると決めたのは自分だ。HAYATOの色を受け入れるために、限りなく透明になればいい。トキヤは、いらない。
そう思ったから、砂月の目の前で「トキヤ」を完全に排除した歌い方をした。砂月は決してその歌を受け入れなかった。

彼ならば分かってくれると思ったのだ。HAYATOとトキヤのギャップに悩む苦しみを。そして、トキヤには見出だせないような活路を開いてくれるのではないかと期待した。あの力強さで、終わりのない迷路から連れ出してくれることを願った。
そんな幻想を抱いたのが間違いだったのだ。本来自分で辿り着かなければならない道のりに目を背けて、手を引いてくれる誰かを求めていただけのこと。
勝手に期待して、勝手に裏切られた気になっている自分に気付いて、トキヤは居たたまれなくなってしまった。息苦しさが募る。彼の隣で自由に呼吸ができていた日々、たった数日前のことが、ひどく遠い記憶のように思えてならなかった。





さんさんと降り注ぐ初夏の日差しは、日陰を生きる人間には眩しすぎる。
砂月はうっすらと目を開けて、数度まばたきをする。目の前には抜けるような青い空と、風に揺れてさわさわと揺れる新緑の葉。少しだけ眠ってしまっていたらしい。砂月がまどろみから覚醒したのは、ゆっくりと近付いてくる人の気配があったからだ。小さくあくびをすると、ふふ、と軽やかな笑い声が降ってきた。

「こんにちは、お昼寝ですか?」

こいつは――
思い浮かんだ名前と目の前の顔が一致して、砂月は渋面を浮かべた。まともに会話したことは一度もないが、目の前の相手のことはよく知っている。那月から嫌になるほどそいつの話を聞かされているからだった。那月のパートナーになった女――七海春歌だ。
なんでお前がここに来た、と問う間もなく、春歌は砂月の隣に腰を下ろした。

「おとなり失礼します」
「隣に座っていいなんて言ってねえぞ」
「だめですか?」
「……好きにしろ」

普段なら帰れと一喝するところだったが、寝起きのぼんやりとした頭では大声を出す気にもなれなかった。それに七海春歌は那月のお気に入りだ。無碍に扱えばあとで那月に何を言われるか分からない。昼寝を邪魔された苛立ちよりも、彼女を追い払うことで生じる労力や面倒臭さの方が勝った。
砂月は仕方なしに体を起こした。どうせこいつも誰かの差し金に違いない。レンか翔か、はたまた那月か。根掘り葉掘り事情を聞き出そうという気なのだろう。
しかし当の春歌は、砂月の剣呑な視線もおかまいなしに、抱えていたランチバスケットを開ける。

「砂月くんはお昼ごはんまだですよね。よかったらどうぞ」
そう言って差し出されたのは、卵がぎっしり詰まったサンドイッチだった。バスケットの中には他にもレタスやハムのサンドイッチなどが入っている。もしや食べ物で釣る気なのか。そう簡単に買収されてたまるかと、砂月はそっけなく首を振った。
「いらねえ」
すると、春歌は「そうですか?」と首を傾げて、砂月に差し出したサンドイッチをそのまま自分の口へと運んだ。もぐもぐと口を動かす様はまるでリスのようだ。あまりにも美味しそうに食べるものだから、砂月は自分の腹の虫を抑えることに必死だった。

春歌はひたすらサンドイッチを頬張るばかりで、砂月に何かを尋ねてくるような気配は見られない。こいつは本当に昼飯を食いに来ただけなのか?疑うように睨んでも、春歌はサンドイッチを食べることに夢中なのか気付かない。ある意味大物だ。さすが那月とペアを組める人物というわけだ。

「……お前、那月とペアになったんだってな」
砂月から声をかけられて、春歌は驚いたように目を見開いた。慌てて口の中のものを飲み込むと、「はい!」と満面の笑顔で答えた。
「昨日も二人で話し合いをしました。今度の課題の曲ももう少しで完成しそうです!那月くんはすごいんですよ、私じゃとても思いつかないようなアイデアを出してくれたり……、」
待ってましたと言わんばかりに、春歌は那月のことを次から次へと話し出した。その口調はとても明るい。那月と二人で曲を作れることが楽しくて仕方ないという気持ちが全面に出ていた。

気に食わない女だと思っていたが、彼女の口から語られる「那月くんのすごいポイント」は砂月も完全に同意できた。そうだ、そこなんだよ、お前ちゃんと那月の良さを分かってんじゃねえか。他人に那月を理解されることに悔しさを覚えながらも、砂月は大きく頷かざるを得なかったのだ。
那月がこいつについて話す時も同じような感じだったな、と砂月はぼんやりと思う。「ハルちゃんはすごいんですよお」が那月の口癖だった。
こうして互いに尊敬し合いながら曲を作ることができたなら、どんなにいいだろう。――そう思いかけている自分に気付いて、砂月は首を横に振った。脳裏に浮かんだトキヤの顔を振り払うように。

「那月くんは私に、たくさんの人達を笑顔にできるような歌を歌いたいと話してくれました。だから私は、そんな那月くんが一番輝ける曲を作るって決めたんです。私も那月くんも、もう迷ったりしません。目指す場所はもう決まっているから。……砂月くんはどうですか?」

わざわざこんな所まで来たのはこの話をしたかったからか、と砂月は辟易した。自分の周囲の人間が、どうにかしてトキヤとの関係を修復させようとしていることは察している。当の本人たちがもうこれでいいのだと割り切っているのに随分と有難迷惑な話だ。砂月には今更トキヤと仲良しごっこをするつもりはなかった。――そのはずだ。

「……どうもこうもねえよ。俺にとってのあいつも、あいつにとっての俺も、求めてるものとは違った。それだけだ」

トキヤが砂月の作る曲を満足に歌うことができず、ペアを組むことも頑なに拒絶し続けるならば、これ以上踏み込んでも無駄だろう。トキヤは決して砂月と目を合わせようとしなかった。
この中間課題を終えたら、後は互いに代わりのパートナーを探すことになる。砂月が求めているのは、自分の書いた曲を最も輝かせることのできる誰かだった。それが一ノ瀬トキヤである必要はない。……今のところトキヤ以上にその可能性がある人間がいないというのも事実だが。

春歌は納得できないというように頬を膨らませた。ここに那月がいたら「ハルちゃん可愛いです〜!」などと抱きついている所だろうが、生憎と今目の前にいるのは正反対の性格持ちの弟だ。

「本当にそれだけですか?仮のペアだったとはいえ、今まで一緒に過ごしてきて……一ノ瀬さんとの関係は、初めて会った時と何も変わっていないんでしょうか?」
「……さあな」

この一箇月間でやったことといえば、同じ食卓を囲んでトキヤの作った夕食を食べたくらいだ。食事中は基本的に無言で、時々沈黙に耐え切れなくなったらしいトキヤが一言二言何か言うものの、会話がまともに成立したことはなかった気がする。
砂月にとってあの時間は何か特別な意味があったわけではない。作りたての温かい料理を食べて、たまに少しだけ会話を交わして、片付けが終わればすぐに別れる。本当に、ただ一緒に同じものを食べるというだけの行為を一箇月も続けてきた。それがもう当たり前のようになっていたのだ。

だが、トキヤの作る料理が――とりわけ初日の肉じゃがは感動的なほど美味しかったことは、今でも鮮明に覚えている。
砂月の機嫌が地の底まで落ちている時は、その日の夕食には必ず砂月の好物が並んでいた。少しでも食で気を紛らわせるようにとでも思ったのだろう。
密かに苦手としているナスが、ここ最近やたらと主菜や副菜の中に紛れ込んでいるのも知っている。初めは嫌がらせか何かとも考えて腹が立ったが、毎回めげずにナスを巧妙に隠そうとしているのを見て、どうやらこいつは俺の苦手を克服させたいらしいということに気付いた。お前は学校の先生か馬鹿馬鹿しい。そう思いながらも、トキヤが手を変え品を変え出してくる料理の数々を、何も言わずに食べ続けた。
毎日のように食べてきたからだろうか、今では逆にナスを好きになりかけている。期せずしてトキヤの目論見は達成されたというわけだ。……だが、そのことを告げるのは自分の負けを認めているかのようで、とうとう言い出せずに終わってしまった。

過ごした時間の割に、二人とも互いのことをよく知らないままだった。歌に関して話した記憶もない。もっと話しておけばよかったなどと女々しいことを考えるわけではないが、もしあの日に喧嘩別れのような形で決別しなければ、今もまだ二人で夕食を食べていたのだろうか。
無駄でしかない問いを反芻している自分に気付き、砂月は慌てて首を横に振った。

「俺はあいつのことを何も知らない。知ろうともしなかった。……俺が必要としてたのは、あいつの歌声だけだったってことだ。歌えることさえできれば誰でもいい。俺はあいつのことを歌う道具としてしか見てなかったんだ。あいつだって、そんな奴に曲を作ってもらいたくはないだろうさ」

互いに利用するだけの関係だった。砂月はトキヤの歌声だけを求め、トキヤは砂月の作る曲だけを求めた。
そしてトキヤは、砂月の意に沿わない歌い方をした。何の色もない、限りなく透明な歌。どこにも「一ノ瀬トキヤ」が存在しない、空っぽな歌だった。だから突き放した。ふざけるな、そんな歌はいらない、と。トキヤが何故そんな歌を歌ったのかという理由を考えることすらしなかった。自分の都合だけを押し付けて、思い通りにならなければ捨ててしまう。頬を張り倒されても、口汚く罵られてもおかしくないほどの身勝手さだった。しかしトキヤは砂月を殴ることもなければ、声を荒げて責めることもしなかった。

『もしかしてあなたなら、と――そう思っていたのに』

ただ、その一言だけを残して、トキヤは静かに砂月の前から去っていった。
あの時のトキヤはどんな目をしていたのだろう。泣いていると思ったのは錯覚ではなかったのかもしれない。本当は、心の奥底では、何を感じていた?

「歌声だけでも必要としているなら、それで充分じゃないですか」

俯いたままの砂月に向かって、春歌は言葉を手渡した。風が二人の髪を揺らす。木の枝にとまった鳥が高い声でさえずっている。穏やかすぎる世界の中でたったひとり、泥濘に足を取られたままの砂月を、春歌は静かに見つめている。

「言葉ではいくらでも嘘を重ねたり、大切なことを隠してしまうことができます。でも、歌は決して嘘をつきません。歌はその人自身を鮮明に映す鏡なんです。……歌声を必要とするってことは、その人自身を必要としていることと同じでしょう?」

違いますか?と真っ直ぐに見つめてくる春歌の瞳に、砂月は答えることができなかった。
歌声だけを求めること。相手を歌うだけの道具として見ること。砂月は自分のそういうスタンスを、身勝手なエゴだと考えていた。だが春歌はそれでいいのだと言う。トキヤの歌声を求める砂月を肯定する。
お前の身勝手さは悪だと断じられることばかり想定していたから、思いがけず認められて、砂月は戸惑ってしまった。

「……分からねえよ、そんなん」
「だったら、曲を作るしかありません」
「曲?」
「はい。私たち作曲家にできることはそれだけですから。その人のことを考えて考えて、全てを曲に込めるんです。そうやって音を追い続けているうちに見えてくるものもあります」

――ああ、こいつも作曲家だったな。
砂月は改めて春歌の目を見た。音楽を愛する人間の目。アイドルを輝かせるために、最高の曲を作り出そうとする作曲家の目だ。
彼女の示した道は単純明快だった。頭の中で考えを捏ねくり回すだけでは、いつまでも答えは出ない。頭ではなく手を動かせ。曲を作れ。音にすべてを込めろ。砂月にとってはこれ以上ないほど分かりやすい解決策だ。

寝起きの頭はとっくに覚めていた。頭の裏側では既に音が鳴り出している。自分が作りたい曲ではなく、たった一人に歌ってほしい曲のメロディーが。
春歌は「がんばってくださいね」と笑いかけた。その言葉に砂月は黙って頷く。作曲家同士だからこそ分かち合えるものがそこにはあった。




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