【日曜日の行進】


3



 片山の頭が潰れるのを見ました。片山というのは私の同級生です。アメフト部に所属していた私と違い、片山は囲碁・将棋部に籍を置いていました。しかしうちは県内で一、二を争う体育大学だったため、文化系の部活動に精を出す人間は一握りしか居ません。片山が囲碁・将棋部に入ったのは理由がありました。推薦で入学が決まった春休みに、免許を取ったばかりのバイク事故で聴力を失ったのです。


◆◆◆3◆◆◆


「お父さん!」

 私は咄嗟に振り返りました。人間、本当に驚いたときというのは言葉が出ないものです。娘の名前は紗智といって、私が名付けました。妻と私は親子ほど年が離れていた上に、なかなか子供ができなかった。私が還暦を過ぎて、ようやく授かった娘でした。

 周囲の大人が私のほうを見て、訝しげな眼差しを寄越します。そういった視線には慣れていました。私と紗智はどう見ても親子には見えません。もとより年以上に老けて見られるせいで、整形手術も真剣に考えたほどです。しかし特にどうしようもないのが、髪の毛でした。父も祖父も曾祖父も薄毛でしたので、私の学生時代の渾名はザビエルでした。後にイエスズ会は剃髪の慣習がないと知るのですが、なんの慰めにもなりませんでした。

 それが娘のためになると本気で信じていたので、古希が来る前に決行に移そうと、妻に内緒でへそくりを貯めていました。植毛は時間もお金もかかるのです。娘が中学校に入学する日を最終期限と決めていました。もうどうしようもないのであれば、水死以外で死ぬ方法を考えようと思いました。生え際の魔術師としての異名は、定年後に入った会社では広まっていなかったからです。水死は絶対駄目です。ワカメのようになるのです。

 二度と馬鹿な考えを起こさないと決心したのは、紗智が小学校に上がってからでした。紗智の同級生に、それは可愛らしい女の子が居て、名前は美憂ちゃんというのですが、生まれつき腎臓が悪く、週に二回も透析を受けておりました。

 美憂ちゃん自身も可哀想な身の上ではあるのですが、娘の幼友達と私の頭髪に対する劣等感は、何ら関わりはないのです。私の考えを変えたのは、私にとって初めての日曜参観でのことでした。

 一年目こそ紗智が不憫なので行きたくない、と妻に言いましたが、二年目は断れませんでした。妻がPTAの役員になってしまったからです。私の名字は一風変わっているため、昔から投票の類いでは何かと不利でした。よく知らない間柄では、皆さん適当な人間に投票しているつもりなのですが、変わった名字は票が集まりやすいのです。妻が困りきった顔で、

「私が行けないときの伝聞管理は貴方に頼まなきゃならないから、役員の方の数名だけにでも顔を見せておいてほしいの」

と言うので、私は日曜参観に参加しました。もちろん一番年上らしいお父さんは私でしたが、家庭の事情で祖父が来てくれたという人もいたり、年の離れた兄弟が学生服で現れたりするケースもありました。

 私は心底、安堵しました。奇異だという負い目や偏見は、私自身の問題だったのです。なにより紗智が嬉しそうでした。

「失礼します。遅れました――二年三組はここで間違いありませんか」

 後ろ扉は開け放してありましたが、普通の参観より参加者が少ないからでしょう。そっと挨拶をして入ってきたスーツ姿の若いお父さんに、「パパ!」と黄色い歓声をあげたのは美憂ちゃんでした。それと同時に、子供たちが一斉にざわつきました。

 彼はどこからどう見ても30代そこそこの若者なのですが、頭髪が真っ白でした。

「美憂ちゃんところも、おじいちゃん?」
「違う。パパだよ!」
「ああいう頭のひと、テレビで見たよ。歌をうたうの」
「違うよ。カイシャインだよ。美憂のパパだよ!」

 担任の先生が静止するのですが、子供たちの好奇心は止まりません。美憂ちゃんのパパは気を悪くした風でもなく、にっこり笑って説明しました。

「おじさんはね。この頭は生まれつきなんだ」
「わかった! 絵の具で染めてるんでしょ」
「うちのママもそう」
「うちのパパはシュッてするやつ!」
「アメリカジン!」

 暴露される度にあちこちで悲鳴が飛び交います。笑いもありましたが、私は自分の番がいつ訪れるのかとヒヤヒヤしていました。しかし紗智は口を開きません。私のほうをチラッチラッと横目にするばかりです。

 いつまで経ってもやまない質問に、美憂ちゃんのお父さんがポツリと言いました。

「おじさんも染めたいんだけどね。そういうのも出来ないんだ。子供の頃から病気で薬を飲んでいて、それのせいなんだよ」

 その声に、教室は一瞬で静まり返りました。

 困った顔をしたのは美憂ちゃんとお父さんです。はりつめた空気の中で、美憂ちゃんが下を向きます。紗智が何か言いたそうに私のほうを見ます。私は必死で顎をしゃくりました。紗智はうなずきました。紗智には私がわかっていたのです。

「うちのお父さんはね」紗智は美憂ちゃんのほうを向いて、言いました。「頭の端から毛を被せてるの。吹くとすっごく怒るんだよ……」

「嘘をつくんじゃない、コラ!」

 私は赤面しながら慌てて自分の頭を押さえました。内心、(グッジョブ紗智!)と手放しで娘を褒め称えました。

 しかしその言葉に、大人の冗談が通じない我が子が、裏切り者を見るような目で私を睨みつけます。私はしまった、と思いました。

「ホントだもん! 紗智、嘘つきじゃないもん!」

 すっかり涙目になりました。私の慌てかたは今思い出しても悲惨でした。慌てて額をかき上げて証拠を見せ、娘に自分が悪かったと頭を下げます。「ごめんなさい。紗智は嘘つきじゃないんだ。嘘つきは私です!」

 一瞬静まり返った教室。しまった、ますます空気が――と思った次の瞬間、なぜか沸き起こる「おおおおお」という歓声と拍手。

 その日のヒーローは紗智と私でした。私はたくさんのパパ友を手に入れました。髪の悩みのみならず、アンチエイジングの仕方までレクチャーする羽目になりました。

 さすがに妻は大恥を掻いたと怒るに違いないと思っていましたが、「顔が好きで結婚したから、頭や年齢は見て見ぬフリをしちゃったのよねぇ」と笑いこけました。

 私は顔が好き、という妻の言葉を反芻しながら、髪の毛を吹いて遊ぶ紗智をギュッと抱き締めました。もうそんな些細なことなど、どうでもよくなっていました。

 紗智が私のほうに向かって走ってきます。

 そのとき私は、紗智を抱き締めようと膝をつきました。自分がなぜそんな場所にいるのかわからず、周囲から聞こえてくる嗚咽や叫び声に怯えている娘をあやしたかったのです。これからは何度でも髪の毛を吹かせてやろうと思いました。この頭は最後の一本が無くなるまで、紗智と私のためにあるのです。

 娘の腕が宙をかき、転けた彼女にすがりつかんばかりに妻が地面に倒れこみました。そのとき初めて、私はこの騒々しい葬儀所がなぜ人で溢れているか気づいたのです。紗智は妻に抱き締められながら、私の顔をハッキリと見ました。その表情は、あの日曜参観と全く同じでした。

 紗智、吹け。いいから吹け!

 私は顎をしゃくりました。涙が次から次へとこぼれます。紗智の目が潤みました。愛らしい桜色の唇がすぼまります。最期だとわかっていました。紗智は吹くのをやめました。

「――大好き」



prev | next


data main top
×