【日曜日の行進】


4



 名前を尋ねるとタカフミと言うので、手のひらに書かせたら貴文という字だった。児島さん。あなたの弟と同じ名前じゃないですかと声をかけたが、僕の上に重なっている足が、再度動くことはなかった。僕の下敷きになっている少年の息もやがて途絶え、僕は一人きりになった。孤独も長くは続かなかった。神様もそこまで非道ではない。寝たり起きたり、起きたり寝たり。僕は白い世界を夢見て漂った。


◆◆◆4◆◆◆


 教会のベンチに侑真が座っている。僕はおかしなこともあるものだと思った。侑真は宗教を嫌っていた。

 同じく肩を落としている誰かが前のほうに座っているほかは、静かである。僕は彷徨いたが、教会の外には出られなかった。半透明の幕が降りているみたいに外側が見えないので、僕は首を傾げた。侑真が振り返った。

「高砂君。チャオ」

 僕は苦笑した。まだ覚えていやがる。ナポリ生まれの侑真をからかって、お互いの挨拶はチャオで統一したのだ。侑真自身は自分が四分の一イタリア人だという自覚はほとんどなかった。日本で育った。明太子が好物だった。

「どうしたの。虚ろってるの」

 僕には意味が掴めなかった。近所に連なるバーの中でも、特別気に入りの店を思い出した。行こう、と袖を引いたつもりがうまくいかなかった。僕は自分の手を回しながら見つめたが、侑真は落ち着き払っている。

「君の体はまだ見つかっていないのだ。家族が遺品を探しているが、靴のひとつさえ判別できない。君は身につけるものにこだわりがなかったろう。俺もよくよく考えたけど、君の持ち物で覚えているものなんて本くらいだ。燃えてしまわないのは間に挟んでいた金属製のブックマークくらいのもので、君は最初の彼女にあれを貰ってから、ずっと好んで使っていたね――ところで高砂君、どうして」

 どうして俺の車に乗らなかったの、と侑真は聞いた。

 僕は急に居心地が悪くなって、祭壇の近くに座る人影を気にした。地元の小さな教会である。こんな妙な会話を聞かれたらと思って、僕は自分の小さな自意識を無視できないでいた。侑真は悪い男ではないが、ときどきおかしなことを言いだすのだ。

「あの老人は、君のご先祖だよ」侑真は座り込む小さな背中に向けて、指をさした。「君の親御さんがどうしてもと言うので、葬儀は寺で終えたのだ。しかし君自身は信仰に忠実でいなければという強い思い込みがあった。まだこんな場所でさまよっている。同じ宗派のご先祖が一人だけいたので、少しばかり無理をして呼び寄せたよ」

 どうして俺の車に乗らなかったの、と侑真は繰り返した。僕は記憶をゆっくり辿ってみたのだが、侑真と何を約束したのか覚えがない。侑真は何の話をしているのだろう。

「涼子ちゃんも泣いていたよ」

 涼子――僕の頬をなま暖かいものが伝った気がして、指をやった。僕の妹である。

 僕は礼拝堂の大仰なステンドグラスから差し込む、鈍いオレンジ色の光を見た。祭壇の前にいた人がゆっくり立ち上がると、後ろを、僕らのいる側を振り返る。和装だった。時代劇にでも出てくるような袴を履いていた。顔は逆光で見えないのだが、優しく微笑んでいる気配を感じた。高砂君、どうして――と侑真が繰り返したので隣を見たが、彼は靄でもかかったように、静かにたたずむばかりだった。

 侑真の髪が光って見える。やっぱり日本人の黒髪じゃなかったんだな、黒っぽく見える茶色だったんだ。深く沈んだ灰色の目の位置に指をやったが、幼なじみがその手を握ると、僕の指は空中で分解した。

 侑真、僕のポケットに紅水晶の招き猫が。

 あんな割れやすいものをお土産なんかにするんじゃなかった。僕はふいに思い出した。涼子はパワーストーンを集めていたし、時計台のやオルゴールの土産物は僕の財布事情としては高すぎたのだ。

 記憶をひとつ手繰る度に、侑真の色が薄れていく。あの日、あのときも――飛行場で別れる間際、僕を送ってくれた侑真の笑顔が凍りついた。

「高砂君」

 侑真はどこか遠くを見ていたので、僕は待った。子供の頃に片方だけ無くした靴を探しあて、掘り起こしてくれたのが最初だ。侑真は失せ物探しの名人だった。そんなに先の話は無理だけど、試験を受け終わった直後の僕の答案結果くらいは当てるくらいのことができた。

「旅行はキャンセルだ。安永さんに電話して」
「ここまで来て何を言ってるんだ。送ってくれてありがとう。戻ったら酒を奢るよ。久しぶりに飲もう」

 僕はキャリーを車からおろした。安永知世というのが僕の恋人で、大学院を卒業したら結婚するつもりだった。僕を待っている彼女のメールに気持ちが焦って、チケットを落とした。侑真はそれが風に吹き飛ばされる前に踏んだ。

「――俺の車に乗るんだ」

 自分で選ばせなきゃ駄目なんだ、と以前に侑真が言った。生死についての微妙な予感は画で見えるほど明確ではなくて、無理に引きとめようとすればするほど、引き寄せられるように明るいほうへと走ってしまう。今日それが起きるから予定を変えろと言っても、変えた先でそれが起こることもあるのだと。

 それが寿命というものなんだろう、と。

 侑真の視線の先には飛行場があった。人がせわしなく行き交っていた。僕は侑真の切迫している表情を確かにこの目で見たはずなのだ。彼の能力をよく理解して信じてもいたはずなのに、車には乗らなかった。

「決まっていたのだ」

 侑真がそう言うのなら、そうなのだろう。僕はまだ話したりないことがあったので、僕のご先祖とかいう人に頭を下げた。

 貴文くんのご両親に、青いゲーム機。児島さんの弟に、正露丸の瓶――。

 侑真はひどく困った顔をした。声が出ないかわりに、強く強く、心の中で、何度も何度も繰り返した。僕の体が見つかっていないと言うなら、僕を上下に挟んでいた彼らも見つかっていないはずなのだ。

 侑真の思念がとんできて、恋人や妹や両親や他の友人の顔でいっぱいになった。見知らぬ誰かの話ではなく、彼らに言い残すことはないのかと考えたのだろう。

 思い返す顔が浮かぶ度に、僕は満たされた。彼らが僕のことをどの程度想ってくれているかに関わらず、これまでもこれから先も、僕の中にある気持ちだけが僕自身を癒すからだ。

 僕を引っ張る糸が消えて、辺りは静けさを増した。侑真が引いている他にも糸の気配があったけど、顔を出すには執着の想いが強すぎて、侑真くらいの力になるまで時間が必要だと感じた。

「高砂君。チャオ」

 またな。という言葉に聞こえて、僕は喜んだ。疲れがとれたら、また。なのだと思う。僕の周りは光であふれた。



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