【日曜日の行進】


2



 手を放さなければ、とすぐに思ったので、俺は死んだ。的場の目を見たからであった。あのまま静かにしていれば、俺自身は助かったかもしれない。代わりに的場が死んだだろう。俺には妻がいるが的場にはいない。的場には子供がいるが俺にはいない。それだけが理由ではないが、一瞬の判断である。手を開いた理由など追っても仕方ない。どうしようもないのだ。俺は的場を心底嫌いでいられなかった。


◆◆◆2◆◆◆


「お悔やみを――」

 誰かの言葉に妻の聡子が顔を上げた。葬式の参列者が通りすぎた後で、引いた顎から垂れて落ちる汗を香典で拭った。気の強い女である。

 病室で対面したとき、俺の体はまだ息があったらしい。彼女の肩に手を回し、こんな事態を引き起こしてしまったことを泣きながら謝ったのだが、もちろん聡子には届かない。掴んだと思ったのは肩をすり抜けた首もとだった。グッと握った瞬間、聡子は眉をしかめた。俺はうわあと叫んだとたん天井に頭を打ち、痛みを感じなかったことで自分の状況に気づいた。

 幽体離脱というやつである――酔ったり熱を出したりしたときに経験したことがあった。本来あるべき体の重みというものが一切感じられず、不調もしんどさも滝行か何かで流されたかのように、気持ちがいい。俺は聡子に自分の存在を伝えようとしたのだが、彼女の前に降りたと同時に、

「早よぉ死にィや。あたし、シモの世話ようせんで」

と呟くので愕然とした。そのとき俺の母親は病室に轟く声で泣き叫んでいたため、聡子の非情な眼差しは、背中で受けるに留まった。俺はこの嫁姑が水面下でどれだけの戦を繰り広げてきたか、初めて合点がいった。

 おいサトちゃん。ここやで。全部聞いとるで! と叫びながら肩をポカポカと叩く俺の手を、聡子は虫に刺されでもしたかのようにペッと振り払った。

「お養母さん」聡子は視線を和らげて、母親の肩に手を置いた。「徹さん、苦しんではるわ。先生の言うとおりにしましょう」

 苦しんでいるも何も、俺の魂はここにある。体に戻るような自由は利かなかった。見覚えのない病室で見覚えのあるアホ面をさらしたまま、完全に死にかけていることだけは理解できた。俺は聡子の出した情報から素早く推察した結論をまとめた。

 俺。殺されんのとちゃうか。

「いやや……徹……徹ゥ」
「お養母さん」
「いややぁァァ」
「二千万」

 聡子が囁いた。俺の母親は「ウ?」と猿のような声を発した。

「徹さんの保険満額です。受け取りは私宛てになってますけど、半分差し上げます」
「うゥ」
「年金月々四万五千円じゃあんまりでしょう。受け取りも来年からだと言うじゃありませんか。お可哀想なお養母さん」

 聡子は畳み掛けるように母親の肩を揺すった。俺は説得されかけている母親の小さな脳ミソが、時代遅れの算盤をならし始めた事実に泣いた。

 三十年以上前に死んだ親父も、脳死判定だった。母親の姑、つまり俺の祖母が管を繋がれ二十年。息をしてくれているだけでいいと言う親父の代わって、面倒を見続けた直後の事故である。あのとき母親は五歳の俺の指を握りしめ、自分は仕事仕事でロクに病室に顔を出さなかった親父を見下ろし、

「お父ちゃん。お養母ちゃんのとこ逝きたがってるなあ」

と確かに呟いたのである。

 そして今の母親の目は、あのときと同じ鈍い光を放っていた。諦めという光である。

「わたし。昨年、肝臓壊したん」
「はい」
「一生、管で繋がれたないの。と貴女に言ったん」
「はい」

 母親は俺の顔を撫でた。「貴女。わたしの足を撫でながら、『寝たきりになって、どうしても死にたなったら。二回瞬きして、一回閉じるを繰り返してください。私が殺してあげますから』と言ったんや」

 聡子は微笑んだ。「やっぱりやめるとなったら、何度も何度も死ぬ気で瞬きして、とも言いました」

 俺は両手の指を使って、薄ら笑いを浮かべている自分の小さな丸い目を開かせようとした。死ぬ気でどころか、このままだと死ぬのだ。

 女ふたりは俺の前で胸の呼吸を合わせた。俺は騒ぎながら賢明なる判決の木槌を全力で阻止しようとしたが、静寂の中でなんの拍子か、動かないはずの半開きの目蓋が閉じて開いて閉じた。母親と妻の視線はベッドに横たわる白雪姫のような俺に釘付けだった。

「春日井さん」

 俺の主治医らしき男が、ノックをして病室に入ってきた。禿げ散らかしている。連れてきた男の看護士は連日の勤務で不精髭である。どちらでも構わないから、熱いベェゼで起こして欲しいという願いは終ぞ叶わなかった。

 睫毛の長さだけは美青年と謳われた俺の目蓋は、肉の厚みのせいでパチリと開いた。本気を出せばいつでも痩せられると慢心していた報いである。二度の瞬きの後は目を瞑るだけ――そのときアホな看護士がカーテンを引いた。俺の目は眩しさから反射的にしっかりと閉じられ、その後二度と開くことはなかった。

「先生――」

 母親は決意が鈍る前に頭を下げた。俺は聡子の言った言葉に激怒して彼女を振り返った。しかしそこには、嗚咽を漏らしながら鼻水を垂らす、惚れた女が一人立っているきりだった。

 俺は聡子を赦した。



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