【日曜日の行進】


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 有澤佳歩をどれだけ憎んできたか知れないけど、座席にめり込みながら思ったの。私が無くした半身は、目に見える肉体の話じゃなくて、有澤佳歩という存在そのものだったんじゃないかって。だって使い果たした体のほうは有り難いことに痛みを感じないけど、心の寂しさや痛みはいつまでも続いてるんだもの。相手が消え失せても同じことよ。それが怨みってもんなんだから。


◆◆◆1◆◆◆


「そろそろ公表しないと世論が」
「報道はいつだって美談だから困るな。どうするんだよ、あのゴミ屋敷」
「親族が来ているそうだから丸投げして……」
「財産が――相続税――」
「やめなさい。他の遺族の前だぞ!」

 葬儀社の車と棺が交互に並ぶのを見て、ああ。ようやく死ねたのね、私らしい最期だわと思っていたの。

 みんな悲しんでくれてありがとう。あと二十歩歩けば百だったのに、毛嫌いしてきた乗り物を使うなんて馬鹿な考えだった。いくら世界で二番目に安全な移動手段といったって、致死率が高すぎるのよ。いっそ一年かけて青森まで歩いて、船で海を渡ればよかった。ラーメンが食べたくなっちゃったんだけど、よく考えたらラーメンなんて、日本中、世界中、どこにだってあるじゃない。

 私、だいぶボケてたのね。一人の時間が長すぎて、誰も教えてくれなかった。私が間違ってたわ。コックのほうを、こっちに呼び寄せればよかったのよ。お金なんて腐るほどあるんだから。

 マサオミ。

 狂った怒声に紛れている息子を見つけたわ。何十年ぶりかしら。すっかりオジサンだけど、父親譲りの突き刺さりそうな鼻と、落ち窪んだ目が印象的ね。隣に父親だったことにしてきた気の毒な元亭主がいるけど、全然似てもにつかないわ。

 でもたぶん、アンタもわかっていたはずよ。雅臣は春生まれ。前年の梅雨には仕込んどかなきゃ計算が合わない。私たちの時代には、雨が降ったら他にすることもないから励んだもんだけど。貴方。梅雨だけは持病のリューマチで、どうしても出来なかったじゃない。どう考えてもすぐわかったはずなんだから。わかってて判をついたアンタにも責任があるわ。

「父さん」
「うん」

 親族やご友人以外は困ります、という人間を捌いてくれたのは、私の大叔父だったわ。この人だけが、雅臣の実父が誰なのかを知る、現存する唯一の証言者になってしまった。どうせ叔父様だってすぐに私のところに来るんだし、ご自慢の樫の杖でこの親子を叩いて追い返してもいい立場なのに。妙に義理堅いところがあるから。本当に苦手なのよね。

「棺はもう開けられません。あらかじめ到着を知っていれば、あるいは――」

「私も葬儀社なのでわかります」雅臣は父親の腰に手を添えながら、きっぱりと言った。「ですが他のご遺族の中には、特別に最期の別れの時間を取ったという話も耳に……」

「雅臣。いいから」

 あの人が頭を下げたわ。これが腹立たしくらい大きな頭で、若い頃は叩き甲斐もあったのよ。

 現実的な話、私の体は上と下とで分裂してたから、こんなところで開けるわけにはいかないの。可哀想に、最初に私を確認しにきたのは若い社員だった。勤続二年で私につくとか、学歴はよくても運のない子ね。どうしても席を取れなかったから、次の便で後から来る予定だった。あら、それなら運があるのかしら。でも棺の前で吐きながら泣いてくれたわ。

 ……あの小娘。今日は来てないけど、どうしているのかしら。死んだら承知しないわよ。目覚めが悪いわ。もう目覚めないにしても、すっきりしない。

 早坂は棺を一個一個開けられる度に、むせび泣いていた。初めは私も状況がさっぱり飲み込めなくて、彼女の後ろから棺を覗いたわ。人間の腕によく似た形をしていたけど、あるべき場所に体がないもんだから、作り物だと思ったの。趣味のいい時計だわ、と感じているうちに、早坂は目的の棺を見つけたらしいのよ。

「会長、どうして会長なんですか。私が、私が乗ればよかった。ごめんなさい。ももう申し訳ありません。申し訳ありません。申し訳ありま」

 その肉の塊が貴女の大切な誰なのかわからないけど、みんな見てるからみっともなく叫ぶのはやめなさい。私はここにいるじゃないの。アンタがひとりっきりになったって、私がここにいてあげるから――って、あの娘の頭を叩いたのが最初ね。

 叩けなかったわ。

 私は気味の悪い棺をもう一度覗いて、自分の痕跡をなんとか探そうとしたの。でもやっぱり何がなんだかよくわからないし、わかりたくもないと思ったから、変な風に曲がっちゃってる鼻だけ直そうと必死になったわ。シリコンが入っていたのよ。

 今さらどうだっていいことだけど、女が女である限り無視できない業のようなもの。あと何人かは赤の他人が見るだろう。恥辱にまみれた我が人生だけど、飛び出した目玉より鼻のシリコンが気になった。メスを入れたことに後悔してたの。私の鼻ペチャを気に入ってた男もこの世にいたんだから。

 だって仕方ないじゃないの。そんなに深く考えてないわ、生きているほうがずっと苦しいんだから。早坂、顔を上げるのよ。アンタは私と違って美人だし、勘違いもしてない。うちの会社に入ったことだけがアンタの厄落としなんだから、退職届を出したらすぐに転職活動を始めなさい。そして私の下にいたら独身で終わっていたかもしれない人生を今すぐ立て直して、美男で羽振りのいい男を見つけるのよ。

 この棺に収まっているなかで、一番運がいいのはおそらく私ね。万が一、万が一よ。ラーメンに付き合わせたことで、私の代わりに早坂が死んでいたら。私の良心はそんなつまらないことで痛まないけど、それでなくとも薄暗かった私の残りの人生は、深い闇に包まれたでしょう。若く優秀な社員の休日を、自分の胃袋を優先したために殺した女。そんな汚名は汚名以外のなにものでもないわ。

「母さん――」

 アンタの母さんじゃないから。雅臣は大叔父に頭を下げに行ってるのね。棺に頭なんか当てないでよ。ズレたら困るわ。通常のように小窓はついていない、ただの箱なんだから。息子を連れて来てくれたことには感謝するけど、今は早坂についてだけ考えてやりたいし。

 私はそろそろアンタの親友のところに逝くけど。あの世に精神的な貞操なんてものがあるなら、今度は守ってあげてもいいわ。どうせ悪くても十年足らずでしょ。

「寂しい思いをさせて、すまんかった」

 アンタだけは、私のペチャ鼻を目印にするのよ。わかったわね。



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