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「家事レベル上がったんじゃないの」


綺麗さっぱり片付いた事務所を見回し、雪緒は含み笑った。性格の悪い男だと睨みつけて、ジャッキー・トリスタンは「頼まれた分は終わったよ」とそっけなく返した。
雪緒は、各国から回ってきた書類の翻訳や回答を彼女に仕事として頼んでいた。もちろん守秘義務の範囲を超えないものに限られたが、彼女の丁寧な仕事ぶりは予想を上回り、このまま雇ってしまった方が双方にとって得だと考えている。それほど彼女を買っていた。


「いつまでもヒモじみたことしてないでさっさとボクの会社入ったら?きみの席ぐらい用意できるよ」
「そりゃあ助かるねぇ」


皮肉っぽく返したが、雪緒は気にする素振りも見せなかった。
3日前、雪緒の前にふらりと現れたジャッキーは「少しの間でいいから住む場所を貸してくれないか」と頭を下げてきた。死神に敗北した日以来顔を合わしていなかった2人の再会にしては、ずいぶん唐突で味気なかったが、雪緒はジャッキーについてある程度の情報を掴んでいたので、ああ上手くいかなかったんだなと内心小馬鹿にしていたのである。
彼女は、ある起業家の女と同棲していた。
その女は相当面倒臭い性格で、リルカをさらに酷くしたようなメンヘラであるという。そして、理由は分からないが2人の関係は破綻したらしい。そう思わせるだけの深刻さがジャッキーの暗い顔からうかがえた。詳しく聞くのも面倒だったので、仕事を頼む代わりに事務所に住まわせてやることにしたのだ。雪緒の事務所兼自宅は、ジャッキーが来てくれたおかげで清潔を保っている。
埃ひとつないソファに倒れ込み、雪緒はお気に入りのゲームをしながらあくびを噛み殺した。


「はあ…あの女がまだ気になる?どうせ今頃死んでるよ」
「よしな。縁起でもない」
「だってそうじゃん。君がいなきゃ生きていけないってタイプだろ」
「知った口きくね。だいたいあの子は仕事も金も持ってる。ひとりで十分生きていけるさ」
「でも愛は持ってなかったろ」


愛だって?ジャッキーの目が丸くなる。雪緒は、ディスプレイに視線をやったまま淡々と続けた。


「分かるんだよ。きみにべったりだったんだろ。そういうのって常に誰かに好きだとか愛してるとかを言われなきゃだめなんだ。つまんないことですぐ不安になったり怒ったりするけど、子供の試し行動だよ。要するに馬鹿なんだ」
「よく知ってるじゃないか」
「まあね。…鍵ぐらい返してきたら?メンヘラと縁が切れたら正式に雇ってあげる」
「メンヘラねえ…」


ジャッキーは、きっと本人が気に入らないであろう名前を胸で転がしながらポケットに突っ込んだままの鍵を握り締めた。これを渡してくれたとき、なまえは珍しく顔を赤くして俯いていた………。甘い記憶を振り払い、ジャッキーは黙って部屋を後にした。


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彼女のマンションへ帰るのは3日ぶりだ。直接顔を合わせるのは気まずいが、この時間ならきっと仕事で空けているだろうから、置き手紙を残して鍵は郵便受けに入れるだけでいいだろう。エントランスを通って12階へ上がるエレベーターに乗ると、3日前のことが頭の奥からぐんぐん湧いてくる。

『ジャッキーは私がいなきゃだめじゃない』
『知らない、そんな女。名前出さないでよ』
『じゃあリルカのところにいけば?』

金切り声がよみがえり、胸が重たくなる。
タイミングが悪かったのだ。
彼女の繁忙期と重なったリルカとの約束は、思う以上に事態を複雑にしてくれた。いつもより帰宅が遅くなり、慌てて帰ると見るからに荒んだなまえがジャッキーを睨みつけていた。

『どこ行ってたの』
『このあいだ言ったろ、リルカに会ってきたんだ』
『そんな女知らない』
『あたしの友達だよ』
『知らないわよっ。なんで家にいてくれないの、なんで私を待っててくれないの』

なまえは、そういう女だ。雪緒の言うとおり子供なのだ。若くして起こした会社が上手くいき、外で気を張っているから家では見事に何もできない女だった。そこにジャッキーが転がり込んで2人の凹凸はぴったり合っていたのだが、繁忙期に入ると機嫌が悪くなりジャッキーに嫌な甘え方をした。

『ごめんよ。何か食べるかい、今から…』
『ねえ!ジャッキー!』
『大きな声出さないでよ…』
『やだ、こっちきて。そんなのいいから』

早口の大声で捲し立てられ、少し、ジャッキーもイライラした。なまえが女王様のように振る舞うのはよくあることなのに、その日は気が立ってしまった。

『その女と何してきたの』
『話をしただけさ。ねえ、それより部屋が散らかってる。少しは整理しなよ。あたしがやるにも限界がある』
『なにそれ。私がいないと生活できないくせに』

これも、いつものことだった。しかしなまえの言い方はたっぷりと悪意や嫌味が乗っていたし、リルカに対する当たりの強さもあって聞き流すことは難しく、ジャッキーは『そんなことないさ』と鍵を持って部屋を出て行ってしまった。

『ど、どこいくの?ねえ!他に行くところなんてないでしょ』
『あるよ』
『ど…、どこ?』
『あんたに関係あるかい』

背中を向けていたから、なまえの顔は見えなかった。狼狽えた声だけが、ジャッキーの中で後悔となって足踏みを続けている。
部屋へ入ると、玄関にはなまえがいつも仕事で履くブルーのパンプスが無造作に転がっていた。中にいるのだろうか。ジャッキーはそうっとリビングを覗いた。すると、足元に転がっている何かに躓いてバランスを崩してしまう。カーテンの閉め切った室内は暗く、それが部屋の主であることにやや遅れて気が付いた。


「…なまえ?なにしてるんだい。ほら起きて。…ちょっと、熱でもあるのかい?」
「……ジャッキー?」
「な、泣いてるのかい」
「…………だ、っ…だって、だってジャッキーが……」
「部屋もめちゃくちゃじゃないか。何があったんだい」
「…掃除機使えないし、食器洗うにもスポンジのどっち側を使ったらいいか分からないし。洗剤もないし、どこにあるか分からない。洗濯機の使い方も知らないし、ご、ご飯もね、コンビニに買いに行ったら味が濃すぎて食べれなかったの。だから捨てちゃった」
「はあ?じゃあなにも食べてないのかい?」


そう、彼女は絶望的に家事ができない。食にも全く興味がない。彼女曰く、1人が長いと何もかもがどうでも良くなるらしく、ジャッキーと同棲するまでハウスキーパーを雇って生きていたぐらいだ。
荒れた部屋をぐるりと見回す。脱ぎ散らかした服、下着、許容量を越えたごみ箱、スナック菓子の空袋、ひと口齧ったまま床に放置されたオールドファッション………よくもまあここまで汚したものだ。いつもジャッキーが片付けて整理していた部屋は、たった3日で巨大なごみ箱と化していた。真ん中でうずくまる主はよれたメイクを直しもせず、涙で滲んだアイメイクやマスカラで目元をパンダのように黒くしてうなだれている。


「あんた、仕事は」
「ごめんなさい…ジャッキーごめんね」
「だから仕事はって」
「もういやになった?出ていく?それは、別に、と、止めないけど、でも、でも嫌いにならないで…」
「……」
「お、お願い…分かってるでしょ、ジャッキーに愛されてたいだけなの、私のことだけみててほしいの…他の子の名前呼ばないでほしいの…………」
「…ひとりでも生きていけるようにならないと」
「や、やだやだやだっ!やだ!ジャッキーがいなきゃだめ、やだよ、なんでそんなこというの?やっぱり怒ってるんだ、私のこと嫌いなんだ」
「違う。生き方の話をしてるんだ」


こんな自分が誰かに生き方を説く日が来るなんて想像もしなかったので、ジャッキーは自分でも驚いていた。
あんな生い立ちのあんな能力を持っていた女が真っ当に生きる人間の時間を奪うことに、遠慮があった。
自身を不名誉と思っているわけではないが、華々しい彼女の隣を堂々と歩けるほど立派な人間である自信もない。そういう後ろめたさがある。背徳感がある。だから彼女と離れるきっかけを得てほっとしたというのも、あった。
しかし泣いて縋り付く彼女を見ていると罪悪感がみぞおちから込み上げてくるのも事実だ。
いつか彼女をたっぷり愛せる真っ当な誰かが来たら、自分はお払い箱になるかもしれない。その方がなまえにとっていいのではないか。そう、思っているのに。キスしてしまうのはどうしてだろう。艶のない薄い唇へ吸い付き、ついばみ、愛したいと願ってしまう。


「…もっとして。そんなのじゃ足りない」
「そんじゃどうしようか」
「もっと……」
「あんた、あたしのこと好きだね」
「うん……大好き…ごめんね、好きでごめんね」
「なんで謝るのさ。もっと言いなよ。なまえの声…大好きなんだ……」
「ジャッキー……だいすき…他の女のところに行かないで」


か細い声だ。弱々しくもある。名前を呼んでやり、力一杯抱きしめて、濡れた頬にキスをする。気づけばなまえを慰めるために学んだ手順を一つ一つ追っていた。もうすっかりこの女に染め上げられている。能力のない自分でも誰かに頼ってもらえる日が来るなんて。もちろんいい関係とは言い難いだろうが、それでもジャッキーにとっては安らげる心の拠り所だった。


「全く、とんでもない女に拾われちゃったよ」
「うん…だから、まだしばらくはここにいてね」
「あんたが許してくれる限りはね」
「ずっと一緒がいい」
「そうなったらいいね」
「…そうなるの」


ポケットの中で、ジャッキーのスマートフォンがぶるりと震える。雪緒からだ。『メンヘラによろしく』と短いメッセージ。抱き心地のよい柔らかな体の感触を味わいつつ、察しの良い少年に揶揄われる日を思って苦笑いをこぼした。


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