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京楽さんに彼女ができたと聞き、全員が秘書課の花森さんを思い浮かべた。しかし彼女は黙って首を振るので、じゃあ人事課のあの人かなとか、販売企画部のあの人かなとか、じゃあもしかして総務のあの子かなとか、それはもうさまざまな憶測が飛び交い飛び交い、結局彼の恋人という華々しいポジションにこぎつけた人は誰もいなくて、みんなハテナと首を傾げた。私を除いて。
京楽さんは社内恋愛なんかしないだろうな、と、私ははそう予想していたのだ。そりゃあまあ、若い頃は違っただろうけど。今はすっかり落ち着いた元遊び人という絡みやすい肩書きを持つ管理職だし、好き勝手に女の子に手を出せばどうなるか分からない人じゃない。この春入社したばかりの私には彼のわざとらしい奔放さが馬鹿丁寧に映ってみえたし、なにより下心のないところがとても素敵だったのできっとこの男は身近な女で手を打ったりしないだろうというのが私の考えだった。


「ねえ、誰だと思う?」
「京楽さんの彼女ねえ」
「どうせ若い女よ。男って結局若い女が好きなんだわ」
「京楽さんもそっちかあ」
「一度遊ばれてみたかったのに。もっと早く声かけといたらよかったあ」
「来るもの拒まずって感じだし今からでも行けば?どうせ若い女に遊ばれて終わりか、すぐ飽きて別れるでしょ」


広々とした女子トイレはまさに噂の花園だ。高級なデパートコスメで顔をぴかぴかに整える女子社員たちは
鏡にめり込みそうなほど身を乗り出して化粧直しをしている。艶やかなプラムのリップを丁寧に唇へ落とし、たっぷりとしたボリュームのマスカラを塗り直し、コンシーラーやパウダーで肌を整える彼女たちの声は、抑えているつもりもないのかよく通った。7センチのピンヒールで支える細い足を所在なさげにパタパタさせながらお喋りする姿はまるで女子高校生のようだ。ここを出ると素知らぬ顔で京楽さんに挨拶する顔は、今だけは見ていられないほど醜悪だが、気持ちは分かる。髪をカールさせたあの先輩は京楽さんとよくランチに行きたがっていたし、スタイル抜群のあの先輩は京楽さんが通りかかると欠かさず声をかけていたし、最近彼氏と別れたあの先輩は飲み会で常に京楽さんの隣を狙っていたし。みんな、あんなオジサンいやよと言いながら、噂の伊達男に誘われようと必死だったから。


「でもさ、なんかねえ…俗っぽくなって魅力半減したな」
「それわかる。人のものに収まる程度か、ってがっかりしたかも」
「京楽さんも普通の男ね」
「アプリで会ったとか聞いたよ」
「アプリ?うそ、マジで?なんか急にきもくなった…」
「意外と必死だったんだ、ウケる」


歯磨きを済ませて口をゆすぎながら、彼女たちの気持ちが分からないでもなかった。私だって、先輩たちほどではないけれど京楽さんに期待したりときめいたりはほぼ毎日していたもの。それほど京楽さんは特別で、遊んでくれそうで、優しくて穏やかで、同期の浮竹さんと話すときだけ砕けちゃう喋り方のギャップがたまらない色男だったのだ。火遊びやワンナイトの相手は誰がいいなんて話題では彼の名前が必ず出たし、昔付き合っていた相手は元女優なんて噂もあったし。京楽さんは特別だった。だから彼に選ばれた女がいるという事実が彼女たちは許せないのだろう(もちろん私もそちら側だ)。私たちは勝手に被害者意識に苛まれ、傷を舐め合い、笑い合って彼を貶し、汚れたコットンと一緒に思い出やきらめきをゴミ箱にぶち込んですっきりするほかないわけだ。


「あ、京楽さん」
「お疲れさま」
「昨日頼まれてた各店の在庫金額とか回転率とか、メールしておいたんですけど」
「ああ、見たよ。ありがとう。助かったよ」


トイレを出て曲がった先、京楽さんの後ろ姿を見つけた。癖のある長い髪を流した背中は他の誰かと見間違えることなどなく、呼び止めると、程よく着崩したシャツの隙間からごつごつと逞しい鎖骨が目に飛び込んできた。ぶわ、っと顔が熱くなる。その上の、太い首筋といったら───……。


「どうかしたかい?」


見すぎていたせいだろうか、彼は小さく首を傾げて私を覗き込んだ。最悪、いい匂いがする。この男を仕留めた女は、きっと相当いい女なのだろう。


「…今日、デートですか?」
「え?」
「なんかおしゃれだなあって」


京楽さんは少し気まずそうに顔を歪めた。でもしっかり笑っているから、アンバランスさはアンニュイに磨きがかかり、余計魅力が増している。
横にずれた視線はとうに違うところへ向いているのか、私の方を見ない。


「はは。まあ今日、金曜日だしね」
「デートなんですね」
「よしてくれ、恥ずかしいなあ」


この、深く身震いするほどいい声を間近で聞ける女がいるなんて。私の心は一瞬、憤るように燃え上がった。入社以来、恋とも呼べないままの中途半端な心の行き場がなくなって───でも、女子トイレにいた先輩たちの細い足首がふっと思い出されて、気持ちが凪いでしまった。彼の嬉しそうな顔をたっぷり堪能し、この気持ちは推しという言葉に言い換えることで決着をつけることとする。

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少しの残業を終えて会社を飛び出し、特に予定もない花の金曜日を真っ直ぐ自宅へ戻るのもなんだか味気ないなと悩む私は、いつもの駅へ向かう道をちょっとだけ遠回しすることにした。そしてすぐ後悔することになる。にぎやかな商店街の手前、きれいな並木道に寄り添うベンチに腰掛けた京楽さんが、女と待ち合わせをしていたのだ。


「春水さん、遅くなってごめんね」
「大丈夫、そんなに待ってないよ」


京楽さんが待ち構えていた女性は、とても普通のひとだった。
普通といっても、女子トイレでメイク直しのついでに誰かの悪口を言うかもしれないし、もしかしたらメイク直しなんてリップを塗り直すだけで済ませるようなタイプかもしれない。そこまで背は高くないしピンヒールも履いていない、大きなバッグを抱えた若い女(若いといっても私よりかは年上だ)。印象的だったのは、彼女の体のラインが目を引くほどきれいだったことだ。スタイルが際立って良いとかではなく、ツンとしたバストシルエットが様になっていたりお尻がきゅうっと上がっていたりとか、なんかバランスがいいな、なんていう感じ。堂々と胸を張って歩く姿は京楽さんと並ぶと絵になった。かといって気取っている雰囲気はない。会社の女子社員たちが見たら、きっとすぐトイレへ集合して普通だの地味だのどうせ金目当てだのと非難轟々かもしれないが、私は、彼女のすっきりとした服装がとても華々しく見えたので、たぶん、彼女らの横でのんびり歯磨きしてると思う。
彼女は京楽さんの右腕へぴったり寄り添い、へらりと脱力した顔つきで「久しぶり」とほほ笑んだ。


「やっと会えたね。長かったあ」
「ほんと、お疲れさん」
「あ…」
「なまえ?」
「ちょっと待って、メッセージひとつ返したくて……」
「そこ座ろうか」
「ごめんね」
「ん、大丈夫」


へえ、ベタベタしないんだ。隣でちょっとそわそわしているけど、いちゃいちゃしたりもしないんだ。京楽さんは手を組んで大人しく待っていた。


「……よし、おわり!」
「まだ忙しいのかい、仕事」
「引き継ぎが終わってなくて。変な時期に異動なんかあったせいだよ。でもやっとゆっくりできる」
「大変だったねえ」
「お腹すいたね、今日飲める?」
「もちろん。でもなまえは無理しちゃだめだよ」
「大丈夫だって」
「そこまで強くないだろう」
「気をつけますから」


それ以上は、聞き取れなかった。
2人はとても自然に手を取り合い、人混みの中へあっという間に消えていってしまった。いいな、羨ましい。もし本当に彼らがアプリなんかで出会ったなら、彼女にどういったプロフの書き方をしたのか、それだけを教えてほしいと思った。

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