3.甘い生活



バクラが学校へ行ったあと。

一瞬だけウトウトしてしまった私は、目を覚ました後もボーッとしたまま獏良君の家でくつろいでいた。

携帯端末も、財布もない。
服はと言えば、今着ている童実野高校の制服だけ――朝起きた時には、上着のブレザーだけは脱がされていたけど。
私はそれを、自分で脱いだのかそれとも寝づらいだろうと思った彼が脱がしてくれたのかさえ、ろくに覚えていないのだ。

頭の方はもうほとんど痛みはないが、なんとなくまだ頭の中が重苦しいような気がする。
元々バクラのように聡明なわけではないが、それでもいつもよりさらに思考回路が鈍い感じだ。

気がつくと、まるで疲れすぎてやる気が出ない時のように放心してしまう。
……もしくは、バクラのことを考えて頭がいっぱいになってしまうか。
どちらにしても良い傾向とは言えなかった。

彼との出会いや、交わした言葉、行った場所。
誰にも気付かれないように、息を殺して、体温を共有した時のこと――

(だめだめだめ、何を考えてるの……!)

まるで炎に照らされたようにカッと頬が熱くなり、私は誰も居ないリビングルームで一人かぶりを振った。

他に考えなければいけないことは沢山あるはずなのに……思考がまとまらない。

覚束無い足取りでソファーに体を投げ出すように座った私は、何となくTVをつけることにしたのだった。


学校がある平日の朝――ほどなく昼になろうとしている時間帯。
視界を素通りするだけのTV番組。

気付けば座っていたはずの体がずり落ちて、ソファーの上で横になってしまっていた。

ダメだ……本当に、私。
このままではいけないと、ムクリと体を起こす。
その時、ふとソファーの隅に服のようなものが畳んで置いてあることに気がついた。

「あ……」

バクラの――というか、獏良君の服だろうか。
彼がいつも着ているボーダー柄のシャツ。
口元を綻ばせながらそれを手に取れば、シャツの下にはまだ服があった。

「これは……!」

もう一枚の服を広げた私は、驚きの声を上げる。

スカート、だ。言わずもがな女物の。
心なしか、私がいつも穿いている私服に似ているような気がした。

それから、女性ものの下着――ショーツだけでなく、ご丁寧にブラジャーまである。
それもまた、私がいつも身につけているものと似たような柄形の……サイズまで一致しているではないか。

「まって、待ってまって……!」

TVの音だけが響く中、私は動揺しながら無意味な言葉を繰り返した。
バクラのもので間違いないシャツだけを鼻に押し当ててスンスンと控えめに匂いを嗅けば、頭の芯が一瞬で痺れる。

「この服に着替えろってことかな……
はぁ……、嬉しい…………!
じゃあ、お風呂入ろ……」

彼の匂いがついたシャツを、合法的に着られるなんて。

どうやらここは楽園らしい!!




「ふんふんふん〜♪」

上機嫌で鼻歌を歌う私は、バクラが用意してくれたボーダーシャツとスカートを身にまとっている。

お風呂上がり。
洗面所にあったドライヤーを拝借し髪を乾かした後。
私は、洗濯をした自分の服を抱えてベランダへ向かった。

獏良君の洗濯機を勝手に使うのも悪いし……
けど、せっかく着替えたのなら元着ていた制服のシャツなどは洗っておきたいし。
そう考えた私は、浴室で手洗いをした後、ベランダにシャツを干そうと思ったのだ。

物がほとんど無い、こざっぱりとした生活感のないベランダ。
雨の気配が全く無い、穏やかな空模様。
今頃みんなは普通に学校で授業を受けているのだろう。

ちょっとハンガー借りるねと独りごちて、私はシャツを手に取り広げようとした。

まさにその時。
ざぁっ、と予期せず風が吹いた。

髪がばさりと煽られ、毛先が目元を直撃し、反射的に目を庇う私。

しかし。

「あっ……!」

気付いた時には手遅れだった。
髪の毛を制御しようとしたせいで注意力が疎かになった手元から、持っていたシャツがするりと逃げて行ったのだ。

捕まえる間もなく、風に煽られた白いシャツは空へと一目散に羽ばたいていく。

「あーっ!! 待って〜!!」

叫んでみても意味がない。
私はベランダの手すりから身を乗り出すと、必死になってシャツの行方を目で追いかけた。

そして。


薄手のスクールシャツが、空気の抵抗を受けつつも重力に従ってひらひらと落ちていき――
やがてマンションから少し離れた広場の方へと消えて行ったのを見届けた私は、慌ててベランダから飛び出したのだった。




「……起きろ」

ん…………

「起きろ、桃香」

私に呼びかける声は、私の『全て』だ。

「――クラっ、」

彼の名を呼び返して手を伸ばした私は、そこで初めて自分がまた眠っていたことに気付く。


「ごめんなさいバクラ……
私、やっぱり変かも……だって、寝るつもりなんてなかったのに……

お風呂に入って、自分の服洗濯して干して……
それで、お昼ご飯に冷蔵庫にあったお弁当を食べて、それで……
バクラが帰って来る前に、何か作ろうと思ったのに……なんで私、」

「疲れてたんだろ。色々あったからな。
……それよりも、頭の怪我は平気か?」

「あっ」

私の疑問にあっさりと答えたバクラは、何気ない様子で質問を投げかけてくる。

彼に訊かれ自分の頭を触った私は、腫れや痛みがもう何処にもないことを確認してから「大丈夫」と返した。
どの道、包帯は既に入浴する際に外してしまっている。

私の返答に納得したのか、バクラが「そうか」とだけ口にする。
コクリと頷いた私は――けれど、次の瞬間呼吸を止めることとなる。

「ところでオマエ、外に出たな?」

ヒュッ、と空気を切り裂く刃のような音が聞こえた気がした。
きっとそれは、私が息を呑んだ音だったのだろう。

バクラはじっと私の目を見つめている。
その眼差しからは、一切の感情が読み取れなかった。

「うん……、ごめんなさい。
干そうとした洗濯物が、ベランダから落ちちゃったから。
……そのままにしておくわけには、いかないし」

何故だろう。
私は彼の目を直視することが出来ず、俯いて視線を外してしまった。

この態度はあまり褒められたものではない。
それは、分かっているのに。

「桃香」

スっと伸びてきたバクラの白い手が、私の顎をグイと掴む。
上を向かされ、半ば強制的に再び視線を重ねられた。

「もう外には出るなよ」

念押しするような一言。
その声は有無を言わさず強く、命令的で、呪縛めいたニュアンスを孕んでいた。

「わかった」

バクラの声には魔力がこもっている。
彼にそうしろと本気で言われたら、私には逆らう術はないのだ。

たとえ、普段いくら自分の意見を言ったり冗談を言ったりしていても。

「ならいい」

フ、と彼が薄く笑う。
その顔はどこか安堵してるように見えて、しかしどこか不穏なものが潜んでいるようにも見えた。


「ん、……」

音もなく寄せられる唇を、当たり前のように受け入れる。
少しだけ冷たくなったバクラの唇をそっと舌でなぞれば、応えた彼の舌が歯列を割って滑り込んできた。

すき、好き。

寝室へも行かず、ソファーに組み敷かれ、借り物のボーダーシャツをたくし上げられる。
学ランの前を開け、今の私とお揃いのボーダーシャツの上に千年リングを出したバクラが覆いかぶさってきて、胸の膨らみをまさぐられた。

「は、ぁん……」

全身がたちまち、甘い陶酔感の中へと沈んでいく。

「バクラ……、すき……、」

「ああ、知ってる」

素っ気ない返事には、けれどどこか熱がこもっていた。
目の前にいる女が自分のモノであると疑わない彼の、いじらしい自信と可愛らしい傲慢。

可愛らしいなんて言ったらきっと怒られるだろう。
だが、私の胸に顔を伏せたバクラは間違いなく可愛らしかった。

彼の頭をそっと撫で、白い髪の中に指を通す。

(ずっとこんな時間が続けばいいのにな)

そんなことを考えて微笑んだ直後、私は官能という名の深い沼の中へ全身を沈められたのだった。




「……起きろ。学校行ってくるぜ」

…………、

ガバリと跳ね起きる。

ソファーで眠ってしまっていたらしい私の体には、毛布が一枚掛けられていた。

外はすっかり明るい。
――いいや、今回はちゃんと記憶がある。
昨日、彼との蜜事に夢中になった私は……それでも、その後ちゃんと二人で夕食を取ったはずだ。
たしか、冷蔵庫にある食材を使って、私が食事を作って。

食後に、ソファーに並んでTVゲームをして……バクラがお風呂に入っている間、獏良君の部屋から読みたかった漫画を拝借して軽く読んで。

それで私は…………お風呂上がりのバクラと夜食を軽くつまみながら、ソファーでまたイチャイチャして……
あれ? もしかしてそのまま眠ってしまったのだろうか?

「おい。聞こえてるか? 桃香」

バクラが少し詰問するような調子で私の顔を覗きこんでくる。

「あっ、うん、……ごめんね、私爆睡しちゃってて」

寝起きの乱れた顔や頭を見られたくなくて、慌てて顔を伏せながら手で繰り返し髪の毛を撫で付けた。

「あの、毛布ありがとう。
朝ごはんとか何も用意できなくてごめんね……
次からはバクラが起きたタイミングでちゃんと起こして欲しい、かも」

玄関へと去っていく彼の後を追いながら、考えたことをポンポンと口にしていく私。

というか……待って、そんな呑気なことを言ってる場合じゃ……
だって、だって――

「桃香。今日も大人しく家にいろよ。
食いモンなんかは補充しといてやったからよ。
服も着替えたきゃリビングにある袋の中身を勝手に使え。
オレの服が着たけりゃ、ベッドの上に出してあるやつから選びな」

「っ……、」

一息に語ったバクラの口振りはやけに流暢だった。
まるで、私に疑問を挟ませないというか。

けれど、私には今、彼に訊いておかなければいけないことがいくつもあるのだ。
もう2日目だが、いつまでここに居ていいのか。学校や友達には何と説明してくれたのか。
そもそも、あんな事があった私に対して、親が何日も外泊を許してくれるのはどういうわけなのか――

何より、この601号室に居る時ずっと『バクラになったまま』で、つまり意識を奪われているに等しい獏良君に対して非常に申し訳ないわけで――

「桃香」

私の思考を、いつだって断ち切る声。
その声は、道標であり、基準点であり、暗闇の中に灯された決して消えない光のように思えた。

闇そのものな彼に、光なんていう喩えはおかしいけれど。

「バクラ……、私……」

吐き出した自分の声は揺らいでいて、今の私の心理を映し出しているように思えた。
私はきっと盲目で、もう彼以外何も見えないのかもしれない。

そんな私の不安を見透かしたのか、バクラはスゥッと息を吸うと、何よりも確かな声で告げた。
――まるで、呪文のように。

「行ってくる。
……愛してるぜ、桃香」

その瞬間、私の世界にはバクラしか居なくなった。

ずっと分かっていた事実が、再び現実感を伴って立ち上ってくる。

私は、不敵な笑みを浮かべ背を向けた彼に既視感を覚えながら、その姿を黙って見送るのだった――


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