2.運命の夜



「……じゃあまたね、バクラ。
今日は会ってくれてありがとう」

玄関で靴を履いた私は、笑って彼に手を振る。

それに対し、玄関まで見送ってくれた彼は
「送ってってやってもいいけどよ」と言った。

私は「ううん、」と首を振り、
「今日は私が無理に会いたいって言ったんだし。大丈夫」
と告げた。

私とバクラの、秘密の逢瀬。
そうして私は、601号室を後にした。



夜の帳が下りた童実野町。
日付が変わるほどではないが、高校生が一人で出歩くには遅い時間。

バクラ――獏良君が住むマンションを出た私は、自宅へと向かっていた。


同級生の友人である獏良了君の中に棲む、『バクラ』という精神。
古代エジプトの遺物である千年アイテムのひとつ、千年リングに宿った『邪悪な意思』。

私は人知れずそんな『バクラ』に恋をし、彼に片想いを見透かされ、あれよあれよと関係を持って今に至っている。

私とバクラ。
バクラにとって私は、玩具であり、奴隷であり、もっと言うなら『ただの暇つぶし』だ。

大いなる目的を胸に秘めた彼が、『その日』を迎えるまでの、ただの休憩。
件の601号室で、あるいは私の家で……時には学校の片隅だったり、人けのない公園だったり、その他諸々……

ともかく、私とバクラは時折、そんなふうに密やかに、二人だけの時間を共有している。
それは私にとっては何より幸せな時間で、大切な宝物だった。

――バクラ。

私は、バクラが大好きだ。



家路を歩きながら、私はふとあることを思い出し時計を見た。

「急いで帰ろ」

頭に浮かんだのは、好きなTV番組のこと。
その番組は、見る度に興味深い特集ばかりで、視聴者を飽きさせないその内容がとても面白いのだ。

番組が始まるまであと少し。
急ぎ足で向かえばまだ間に合うはずだ。
そう考えた私は、少しだけ歩を早めたのだった。


人影もまばらになってきた時間帯。
自宅付近に繋がる通りに差し掛かった頃。
私の視界が捉えたのは、見知った顔だった。

「わ……」

小声で呟き、思わず道路の隅へ寄って立ち止まる。
前方、やや遠目に見える人間たちを今一度確認すれば――

それは、同じ童実野高校に通う同級生の男女数人だった。
高校生らしからぬ派手な服に、周囲の迷惑を考えない大声と、地べたに座り込むという大胆な行動。
いわゆる、不良グループというやつだ。

(あー……)

別に彼らと特別仲が良いわけでも悪いわけでもない。
もし、彼らがたむろしている傍を通りがかったとしても、気付かれないか――
あるいは、チラ見される程度で済むかもしれない。

が、それはただ、そうである確率は高い、というだけの話だ。

私は童実野高校の制服を着ている。
手には通学用のバッグ――朝家を出てから、一度も自宅に帰ってないからだ。

学校を後にしてから、ゆうに何時間も経っている。
塾に通っていたわけでもなく、放課後ちょっと遊んでいたという言い訳で許される時間をとうに過ぎた今。

親が深夜まで帰って来ないのをいいことに、感情と欲望のまま、大好きな人の家に入り浸っていた……そんな不埒な私が。

もし、彼ら――俗に言う不良グループに、呼び止められたとしたら。
こんな時間まで何してたの?
彼氏ん家でも行ってたの? 誰、同じ学校の奴?
わかった、バイトでしょ。学校で禁止されてんのにいいの?w
等々……

そんな疑惑と好奇の目を向けられて。
別に、平然と適当な嘘でもついてしまえばいいのかもしれないけど。

(ちょっと面倒だなぁ……)

つまりはそこだった。

もう一度時計を確認する私。
そんな私の目に止まったのは、普段は通らない別の道だった。

(そういえば、こっちを行ったら近道だったような……)

街頭がポツ、ポツとだけ設置されている細い路地。
人通りが少ない道だが、ここを行けば不良たちを回避できる上に自宅までの近道ということで、私の心は一瞬で決まった。

くるりと体の向きを変え、力強く一歩を踏み出す。
そうして私は、裏道へと向かったのだった。


夜の童実野町はあまり治安が良くない。
そこそこ人口が多いのと、港や繁華街があるせいで人の出入りが激しく色々な人間が集まるからだ。

それでも、繁華街なんかは防犯カメラの設置が進んで来ており、前よりはだいぶ風通しが良くなったように思う。

なんでも噂では、あのKCが防犯カメラの設置を後押ししているらしく――そのうち童実野町は、KCに支配されるんじゃないかなんていう話もある。

「……海馬君、すごいよねぇ」

ふと脳裏に若き天才社長のシルエットが思い浮かび、私はふふふと笑いながら歩を進めた。

海馬瀬人――誇り高き決闘者であることを自負する彼は、とある少年をライバル視している。

武藤遊戯という少年。
ううん、正確には、遊戯君が持つ千年パズルに宿った『もう一人の遊戯君』だ。

古代エジプトのファラオだというその魂。
ファラオとしての記憶を失った彼が持つ、千年パズル――七つの千年アイテムのうちのひとつ。

同じく、千年アイテムの所持者である別の少年。
獏良了。彼の首から下げられた千年リング。
そこに宿るのは、『バクラ』という意思。

ファラオを倒すべき敵と定め、暗躍を繰り返す一方で……けど、『暇つぶし』と称し、取るに足らない『小娘』とも遊ぶ余裕のあるバクラ。


「バクラ……」

吐息と共に呟いた声は、人けのない夜闇の中に吸い込まれるように消えていった。

バクラ――私の『全て』。

何があっても、どんな状況に陥っても、共に在りたいと――
前だけを見ている彼の傍で、ただ彼の横顔を見ていたいという渇望に駆られる相手。

私は、バクラが好きだ。
たとえ彼に殺されても本望だと思えるくらい、彼を愛している。

「バクラ、」

(バクラ……、バクラバクラバクラ……!
さっき会って別れたばかりなのに、もうあなたに会いたいよ……!)

感傷が胸に迫り、たちまち呼吸が出来なくなる。

胸がドキドキして苦しくなった私は、思わず立ち止まると、深呼吸を繰り返した。

愛しさだけが胸を支配する。
今すぐ踵を返し、601号室に舞い戻り――
怒られることをものともせず彼に抱きついて、強く強く抱きしめたい。

(バクラ)

たとえ何があったって、私はあなたを、愛して
――――、


「――――ッ、」


ゴッッ、という鈍い音がした。

何の前触れもなかった。
揺さぶられた視界、後頭部を襲った衝撃。

一瞬遅れてやってきた、痛み。

「――――ぁ、」

声も出なかった。

自分の体が勝手にふらつき、意思を無視して膝から崩れ落ちた。

それでも、倒れる瞬間に何とか手をつき、少しばかり殺された勢いのまま、何事かと後ろを振り向く。

……振り向いて。

ちょうど街灯の真下、闇の中で浮かび上がったのは、人間の両足だった。

スニーカーを履いた足。
を、起点として。

そのシルエットを、ゆっくりと、見上げてみれば…………

私を見下ろしていた、その顔は――――――





「……きろ」

ん…………

「起きろ、桃香」

バクラの、こえ……

「起きろ」

バクラの、バクラの声だ!!

どんなに深い闇の底に在っても、私を呼んでくれるバクラの声。
バクラ……!!

「……ようやく起きたか。
桃香、オレが分かるか?」

わからないはずもない。
目を覚ました私は、小さくコクリと頷いたのだった。


見覚えのある部屋。
ベッドの上にいる私、そんな私の顔を覗きこむバクラ。
窓から差し込む光――もう夜ではない。
ここは、例の601号室だ。

「何があったか覚えてるか?」

私を探るように吐き出された一言。

私は。私は……、そうだ、確か――――


……何も、わからなかった。

「……覚えてない」

「そうか。
……結論から言ってやる。
オマエは誰かに背後から襲われた。
頭、まだ痛むだろ」

え、と疑問が沸いたと同時に、頭がズキリと痛んだ。
頭に手をやる。そこには、髪の毛ではないざらついた感覚があり……頭を締め付けられている感じもあいまって、それが包帯であることを悟った。

「わた、し……襲われた?
誰かに……」

バクラの口から出た衝撃的な言葉を反芻する。
痛む頭はきっと、その時の傷だろう。
――そう言えば、なにか後頭部にすごい衝撃を受けたような……

「……荷物が無くなってたぜ。
手ぶらで倒れてたんだよ、オマエは。
この家から帰る途中で、道端にな」

バクラが淡々と事実を羅列する。
私はポカンとしたまま、返す言葉さえ思い浮かばずに固まっていた。

「財布に、携帯電話に……?
身分証もか? あとは何を持ってた」

「ぁ…………、うん、うん……
学生証、入れてたはず……バッグに。
あと、いつもの赤い首輪と……前にバクラがくれた指輪とか……
ねぇ、バッグごと無くなってた、ってこと?
私だけ倒れてた、って」

「そうだ。
オマエは道端で強盗に突然頭を殴られて、痛みと衝撃で何が起こったかわからず混乱したんだろ。
そして恐怖……強い感情がオレ様に伝わってきたから、わざわざオマエを探しに行ってやったんだよ。
そしたら、オマエが手ぶらで倒れてるのを発見した。
辺りには何もなかったぜ」

ベッドに腰掛けたバクラは、そうして私を見据えながらすらすらと事態を説明する。

彼が当たり前のように発した『強盗』という単語に、キュッと心臓が不穏な音を立てた。

「ごう、とう……」

「まぁそうだろうな。
一人歩きの女を殴り倒してバッグを奪うなんつー奴は、強盗以外の何者でもねぇだろうよ」

「…………」

次々と突きつけられる事実に、ただでさえ痛む頭がさらに痛むような気がした。
強盗? 道端で頭を殴られた? 持っていたものを全部奪われて、それで……

「……っ」

浮上したとある可能性に、再び心臓が冷たく収縮する。
まさか、私……

「私……、私…………
もしかして、もしかして……その人に…………」

全身から血の気が引いていく。
まさか、そんな。

一人歩きの女からバッグを奪うだけでは物足らなかった犯人が。
ついでに、気を失った女に手を伸ばしていたら――

いいや、逆だ。
もしかしたら、最初から『そっちが目的』で。
事が終わったあと荷物を奪ったのは、あくまでも『ついで』でしかなかったとしたら――

心臓が凍りつく。
それが本当なら、私はもう生きてはいけない。


「バクラ、私…………」

「安心しな。別に妙なことはされちゃいねえよ」

震える声で口にしようとした『可能性』は、彼によってあっさりと否定された。

「え……」

「病院で診てもらっただろ。
頭の傷もその時に手当してもらってよ。
でかいコブが出来ちゃいるが目立った外傷もねえし、すぐ治るって……
ハッ、やっぱ覚えてねえのかよ」

鼻で嗤ったバクラが、やれやれとばかりに肩をすくめる。
私は、明らかになった新たな事実についてさらに首を傾げる羽目になった。

「……オマエは犯人に襲われて気を失った。
そこへオレ様が行って揺り起こしてやったが、全然目を覚まさねえ。
仕方ないから救急車を呼んでやったんだよ!

……それで、病院につく頃にはオマエ、一度は目を覚ましたんだぜ。
オレの携帯電話で自分で親に連絡して……それで、検査と手当てをしてもらった後、夜中のうちに歩いてこのマンションまで来たんじゃねえか。
そこでまたすぐ寝ちまいやがって。

……本当に何も覚えてないのか?」

彼の説明によって判明する衝撃的な事実。

私……、自分で親に連絡した……??
それで…………そんなことがあったにも関わらず、自宅ではなく彼の家――601号室で夜を明かして。

彼、バクラは、獏良君にも戻らずに私をずっと家に置いてくれて――!?

「ついでに言っとくとオマエ、親にも病院にも、自分で転んで頭を打ったって言ってたぜ。
その怪我以外、体の異変はねえともな。
警察沙汰にしたくなかったっつーオマエの意思を尊重して、オレも『友人である獏良了』になり切って余計な口出しはしてないぜ」

何もかもがわからなかった。
バクラが淡々と告げる事実は、荒唐無稽でいて――しかし、どこか説得力があった。

何故なら。
私は……、そう言われれば、たしかに……
夜の間に一度目を覚まして、親に連絡をしたような……
それで、なにか上手く説明をして、外泊を許してもらった……?

ううん、病院へ駆けつけてくれた親に、バクラが何か能力を使って……私が彼の傍に居られるようにしてくれた……?

朧げな記憶が、頭の中にぼんやりと浮かび上がる。
私は……、自分でワガママを言ってここに居させてもらっているのだろうか……?

「ま……学生証を盗まれたなら学校も住所も割れてるだろうし、オマエがそれ以上暴行されなかったのは、ただ単に犯人が人目を気にしたから、ってだけの理由かもな。
それならオマエはしばらく家に帰らない方が安全だろ」

「えっ……」

ごく当たり前のように言われ、しばし理解が追いつかず硬直する私。

「たまにはいいだろ。
ついでに学校も何日か休んじまえよ。
……二人で楽しく過ごそうぜ」

ニヤリ、と口元を釣り上げたバクラの不敵な笑み。
それはきっと、この世のどんなものよりも魅力的だった。




「バクラ……、でも…………
やっぱり、獏良君に悪いよ……」

「構いやしねえよ。
学校に行ってる間はオレ様は表に出ないからな。
……それよりも、まだ頭は痛むか?」

「ぁ……、ううん。
もうあんまり痛くない。
でも、なんかすごく眠い……」

「だろうな。
怪我を治すのに体力使っちまったんだろ。
好きなだけ寝てろよ、腹が減ったら冷蔵庫のモノ勝手に食え」

「でも、」

「オレ様がオマエのために買っておいたモンだよ、いちいち言わせんな……!
それより、今日はこの家から出るなよ桃香。
オレ様が学校から帰って来るまで大人しく寝てな」

「…………、」

「ま、オレ様も一緒に居てやりたいところだが……
さすがに二人揃って休んだら『お友達』が心配するだろうしな。
奴らにはうまく伝えといてやるよ」

バクラの声は、何故かとても優しかった。
口にした内容も、その声色も。
それから、行動も。

学生服に着替えたバクラは、私の相手をしていて既に若干遅刻気味なのだが、今から登校するらしかった。

「バクラ、もしかしてほとんど寝てない……?
ごめんね、迷惑かけて……
ありがとう、本当に嬉しい、…………っ、私、自分のせいなのに……!
私が、近道なんかしようとしたから……!
ぜんぶ、私が悪――」

「桃香」

私を見透かし、全てを制す彼の双眸。

「……行ってくる」

告げられた直後、ふわりと空気が揺らいで迫ってきた。

私を捕らえ、抱きしめた腕。

「っ、……!」

バクラは私をギュッと抱きしめ、それから宥めるように背中を撫でた。

体の芯が一瞬で溶けるような灼熱が胸の内から生まれ、炎が噴き上がる。
バクラに抱きしめられたという事実は、私から彼を抱きしめ返すという行動以外の選択肢をごっそりと奪っていった。

しかも抱き締めるだけで終わらない彼は、そのまま顔を動かすと、私の頬にすり、と唇を寄せたのだ。

どくりと心臓が大きく脈打ち、心地よい痺れが全身を駆け巡っていく。
次いで、耳朶を甘噛みされた時にはもう――
私は、立っているのさえやっとなほど興奮していた。

それからバクラは、本当に、本当の本当に私を殺すようなことを言った。
他の誰にも聞こえるはずのない声で、密やかに。
私の耳元で、囁くように一言だけ。

「助けられなくて悪かったな、桃香」

その声は、いつものバクラとは思えないほど、どこまでも優しかった。

私は、バクラの優しさめいたものを無条件でごくりと飲み干しながら、半ば放心状態で彼を見送ることしか出来ないのだった――


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