601号室の中で、私は鼻歌を歌う。
彼に許しをもらったので、彼と自分の服を洗うために洗濯機を回し――
合間に食器を洗って、部屋を掃除して。
お昼は自分だけだし適当でいいかな……
っていうかこれ、なんか新婚夫婦みたいじゃない……!?
「あはは……」
愛してるぜ、というあの言葉が頭の中でリフレインする。
耳に焼き付いた強烈な一言は、何度思い返しても、私をたちまち蕩けさせてしまう。
「あいしてる……愛してる、だって!
うそ……、うそだぁ…………
リップサービスすごい……冗談だって分かってても嬉しい……
もうダメ、ダメだよ……思い出すと蕩ける……
家事に集中できないよ……
いやーん、家事に集中だって……!
なんか専業主婦みたい……あはは……」
どうしよう、自分がものすごく気持ち悪い。
「だってバクラがあんなこと言ってくれたから……
『愛してる』だなんて……!!
うそ、だって『愛してる』だよ……??
泣きそう……嬉しすぎて泣きそう……
奴隷でもオモチャでも嬉しいけど、愛してるって言われたらやっぱり嬉しい、というか正気を保てないよ……!!
だって、うんわかってる、あれはバクラの策略でリップサービスで、だから――――」
あれ。
浮かれて有頂天になっていた私は、はたとあることに気付く。
策略……リップサービス……?
それゆえ私に甘い愛の言葉を囁いたならば。
ならば…………それは、何故だろう……??
予期せず頭が冷えてきた私は、静かにソファーに座って彼について考えることにした。
冷静に考えてみよう。
今までバクラは、私に面と向かって『好き』だの『愛してる』だの、告白してくれたことは無い。
いや、愛してるぜくらいはあっただろうか。
互いにふざけていて、彼も機嫌がいい時に、冗談めかして軽く。
けれど、今朝のあれはそういう感じとは明らかに違っていた。
まるで、映画の中で夫が仕事に出かける際に、妻にごく当たり前に『愛してるよ』と言うような、真摯さと思いやりが滲んでいるような――
だが、彼に限ってそんな温かな恋愛感情を、それも私に抱くことなどきっと無い。
人間と人間の、真剣で真心のこもった恋愛関係、深い結びつき。
そんな機能はきっと、私のような夢見がちな人間の小娘にしか備わっていないものだ。
であれば――今朝の愛の言葉はやはり、ある種の思惑に沿って放たれたとしか思えない。
問題はそこだった。
であれば、である。
であれば、バクラは一体何の思惑があって、それをしたというのだろうか……?
私に愛を囁き、私を良い気分にさせることで彼が得る『利』とは……?
「どういうことだろう……」
思わず口をついて出る疑問。
だってそうだ。
あの夜から今に至るまで、考えてみれば全てがおかしかったのだ。
帰り道を急ぎ、人けのない裏道を通るという軽率な行動をしたせいで、私は強盗の被害にあった。
頭を殴られ昏倒し、荷物を一切合切奪われて――
それで、その時に感じた恐怖をリングを通じて察したバクラが、現場に駆けつけて私を見つけてくれたという。
そして救急車を呼んでくれて…………
それで??
彼はずっと『獏良了』になりきって、救急車に付き添ってくれたのだろうか。
病院に着く頃に目を覚ました私は、自分の携帯で親に連絡して……?
駆けつけた親に、私が『家には帰らず彼の元にいたい』と言ったのか、それともバクラがリングのオカルトパワーを使ったのか……
どちらにしても、問題はそこだ。
私は、未だにその時の記憶が曖昧なままだ。
もし私のワガママを受け入れる形で彼が助力してくれたとしても、それは何故だろう……?
彼の性質上、『夜道を襲われて不安だから一緒にいて欲しい、自宅じゃなくあなたの傍に居たい』なんてトチ狂った私に言われても、きっとにべもなく拒絶するだろう。
甘えてんじゃねえ、元はと言えばオマエが悪いんだぜ、等々……
だってそうだろう。
彼にとっては、わざわざ親を押しのけてまで私を601号室に連れて来て、夜通し頭をヨシヨシしてやるメリットはどこにも無いのだ。
彼は私に、「助けられなくて悪かったな」と言った。
なるほど確かにある意味それは彼らしいかもしれない。
悪かったなぁ……! と、皮肉めいた口調でヒャハハと嗤う彼の茶目っ気。
けれどそれは、本当に私を強盗の魔の手から助けられなかったことに対する後悔から来ているとは思えない。
ましてや、そこに罪悪感などあろうはずも無いのだ。
バクラにとって一連の事件はきっと、『自分のモノに無断で手を出された不愉快な出来事』だったに違いない。
そこに何か思うところがあるとしたら、後悔でも罪悪感でもなく、きっと犯人に対する強烈な怒りだろう。
にも関わらず、彼はずっと私に優しい。
まるで、『事件の被害に遭って怯えてしまった彼女をいたわる優しい彼氏』のように。
私はここ2日間のそんな優しい彼が大好きで、嬉しくて――
でもやっぱり、こうして一人になると、浮かぶのはとめどない疑問ばかりだった。
「バクラはなんで…………
罪悪感とか後悔なんて感じないはずのバクラはなんで、腫れ物に触るように私を甘やかしてくれるの……?
なんであんなに、衝撃的な愛の告白までして、私に優しくしてくれるの……?」
ずっと胸の中で燻っていた疑念を、はっきりと言葉にしてみる私。
それは、確かに事件以降ずっとバクラに感じていた違和感であり、解明出来ない謎だった。
どく、と心臓が少しだけ不穏な音を立てる。
バクラは、「家から出るな」と私に念押しした。
それも、一度じゃない。何度もだ。
昨日、バクラ不在の間にベランダから落ちた洗濯物を回収するためだけに外に出た私は――
しかし、どういう訳かそれを彼に知られ、もうするなと強めに念押しされた。
私はそれを、彼が『学校も住所も知られているから601号室に居た方が安全』と判断した彼自身の言葉から勝手に拡大解釈して、バクラが私の身の安全を危惧して外出を禁じてくれたのだと勝手に思っていた。
けれども。
けれども、その解釈が、間違っていたら…………
強盗犯に見つかることを危惧することとは別に、バクラには私を外出させたくない理由があるとしたら――
「………………、」
ゴクリ、と息を呑む。
気付けば喉がカラカラに乾いていて、痛みさえ感じるほどだった。
ふらつく足取りで、キッチンへと向かう。
途中で壁にもたれかけるように置かれた袋が視界に入り、唇を噛んだ。
『リビングにある袋の中身を勝手に使え』
バクラは今朝そう言った。
袋の中身は全て女物の服や下着だった。
それも、私の私服と似た傾向、同じサイズのものばかり。
一方で、寝室のベッドに置かれていたのは、バクラがかつて私の前で着て見せたことがある服の数々だった。
微妙に柄が違うボーダーTシャツに、ストライプの襟つきシャツ、中には上品なセーターなんかもあった。
それらを、彼は『好きに着ていい』と言ったのだ。
これはあまりにも異常で、大盤振る舞いすぎるではないか!!
冷蔵庫を開け、私のために買ってきてくれたらしいジュースをコップに注ぎ、勢いよく飲み干す。
けれど、いくら喉を潤しても本質的には何も満たされないような気がした。
不安……、もっと言うなら嫌な予感というやつが、お腹の中で膨れ上がり、私の胃を押し上げていた。
「…………」
コップをシンクに置いた私は、足をそっと玄関へと向けてみる。
見慣れた玄関ドア。
揃えて置かれた私の靴と、獏良君のものである何足かの靴。
「…………」
それは、一種の誘惑だった。
不自然なバクラの行動と、過剰なまでの外出禁止令。
私は、なんとなく……なんとなく、自分が恐ろしいことをしようとしていると分かっていた。
だが、その行動を自分で止めることは出来なかった。
ゴクリと喉を鳴らして唇を引き結んだ私は、意を決して一歩を踏み出す。
自分の靴に足を滑らせ、ゆっくりと靴を履いた。
そうして、いつでも外へ出られる体勢になったところで――そっと玄関ドアに手を伸ばしてみる。
内側から掛けられた
『外へ出るな』というバクラの声が脳裏に蘇る。
外……たとえば、ドアのすぐ外の共用廊下はどうだろう。
昨日はエレベーターで下まで降りて、マンションのエントランスを出て洗濯物を取りに行った。
その行動はどういうわけか彼にバレて、二度とするなと念を押された。
なら。
マンションの敷地から出ずに、共用廊下をちょっと歩くだけなら……?
いいやもしも、それさえ許されずにまた怒られても、バクラは『言いつけ』を破った私を、どんな風に罰するんだろう……??
(っ、ダメダメ変なことを考えてる場合じゃ――)
いつかの『お仕置き』を思い出し、反射的に下半身が甘く蠢いた。
目隠しをされ、後ろ手に縛られて――
それで、口に指をねじ込まれながら、強引に後ろから――
ぶんぶんと強く頭を振り、あられもない煩悩を脳内から追い出す。
甘美な妄想は後だ。もし身体の疼きが収まらなかったとしても、あとからゆっくりと自分で自分を慰めればいい。
――どのみち、時間はたっぷりとあるのだから。
そんなことを考えながら、ゆっくりとドアの鍵に触れた時だった。
「――――ッ」
ズバチィィッ!!!! と、指先に衝撃が走る。
それはまるで電流のようだった。
何が起きたか分からず、反射的に後ろへ飛びすさる私。
静電気なんかとはレベルが違う。
文字通り、痺れるような、意思を無視して強制的に弾かれるような感覚だった。
「なに…………」
この601号室はただの民家だ。
何の変哲もない一般向けのマンションの一室。
そんなマンションのドアに、触れたら殺すと言わんばかりの電流
常識ではとても考えられないことだった。
「どういうこと……」
震える声で絞り出し、玄関ドアをじっと見つめる。
やはり、見た目では特に何も変わったところなどない、普通のドアでしかなかった。
「気のせい……じゃないよね」
もはや自分を奮い立たせるためだけに、言葉を紡ぐ。
ギュッと痺れた拳を握った愚かな私は、性懲りも無くもう一度、鍵に触れるつもりなのだ。
そして。
「――――っ、ああッッ!!!!」
つんざくような衝撃が、再び全身を容赦なく貫いた。
――が、我慢できない程ではない。
私は歯を食いしばり、
このつまみを、ぐるりと回せば……!
こちらを拒絶するように流れ続ける電流のような感覚を無理矢理抑えこみ、指先に力を込める。
そして、鍵を回し。
カチャンと音を立てて、鍵が開いた瞬間、
「――――ッ!」
爆発するような烈しい反発力が、私を体ごと室内に吹き飛ばした。
音はない。だが圧倒的な力だった。
踏ん張る余裕すらなかった。
後方へ体を投げ出された私は、背後の壁に叩きつけられて悲鳴を上げる余裕もなく床に沈んだ。
「……ぁ、く」
何故。
明らかにこれは常軌を逸している……!
――出られ、ない。
この601号室から出られない。
バクラが、私を部屋から出さないように封じている……?
つまり私は、バクラに監禁されているのだ!
監禁、という単語が脳裏に浮かんだ瞬間、胸の奥がどくりと高鳴った。
――何故。
再び浮かび上がる疑問。
何故、ここまで徹底的に。
彼は何故、私を監禁したのだろうか……?
ふらふらと立ち上がる。
唇をわななかせながらドアを見つめれば、回された内鍵だけが解錠状態で佇んでいた。
私は、たった今起きた衝撃的な出来事に対し完全に沈黙していた。
気力がごっそりと削り取られ、疑問ばかりが胸中に溢れかえる。
(なんで……監禁なんか)
答えの出ない質問。
そのまま私は、何の気なしに視線をゆっくりと下へ向けた。
ドア――玄関のタイル。
何足か置かれている、獏良君の靴。
そこで私は、ふとあることを思い出す。
靴……獏良君の靴。
彼がよく履いているスニーカー。
当然バクラも同じスニーカーを履いてるわけで……
今は彼が履いて登校しているため、ここにはないもう一足の靴。
だが確かに見覚えのあった、とあるブランドのスニーカー。
それは……
――そう、私はあのスニーカーを、どこかでぼんやり見たような……
もちろん今朝バクラを見送った時の話ではない。昨日の朝でもない。
もっと、暗くて……そう、夜だ。
夜闇……明かりがなければほとんど何も見えない、夜更けの野外で。
私は……、私はたしかに……!
そう、あの、街灯の真下で!!
あの晩、わけもわからず地に伏した私が、必死で振り返って!!
誰だ、誰だと正体を探ったあの暴力的な影の――
その足元は、何度も見たあのスニーカーではなかったか!!!
いつも、彼が履いていたあの靴では!!!
心臓は完全に凍りついた。
だって繋がってしまったのだ。
外出禁止を念押しし、学校へも行かせずに妙な仕掛けまでして私を『監禁』したこと。
連絡手段も金銭も全て失った私は、バクラ以外何も頼るものがなくなってしまったこと。
私が当夜の記憶をほとんど失っていること。
一連のいきさつは、全てバクラの説明頼りなこと。
私のことが迷惑であるはずのバクラが、やけに私に優しいこと。服や食料の用意が周到であること。
そして。
彼と同じスニーカーを履いた人物が、暗闇で私を襲ったこと――!
それらを総合するならば。
つまり、つまり、つまり。
私を、襲ったのは、――――!
「………………、」
言葉は出なかった。
ただ――ただ。
まるでパズルのように、一連の事件にまつわるピースをかき集め、並べ替えた。
そうして組み上がったパズルから浮かび上がって来たのは、
事実に気付いてしまった私は、口元を手で押さえて目を見開くことしか出来なかった。
だって。
もしそれが本当なら、恐らく私はもう、
押さえた手の下で、震えた唇が勝手に弧を描く。
それは笑みで、
同時に、彼へのとてつもない愛しさが込み上がる。
彼は憶えていてくれたのだ。
たとえどんな形になっても、ずっと傍に居たいという――私の悲願を。
バクラが帰って来たら、確かめなければならないことがある。
それは、
もしかしたらバクラは激昂するかもしれない。
そもそも第一に、『言いつけ』を破った私を、彼は帰宅するなり頭ごなしに叱るかもしれない。
――けれど、それでいい。
だって、私はもう…………
唐突に眠気が訪れる。
ああ、そうか。
この不可解な眠気も、きっとそういうことなのだろう。
完全にバクラの掌中に収まってしまった私の。
彼に生殺与奪の全てを握られてしまった、私の魂の――……
だから、もういい。
次に目が覚める時、真っ先に視界に映るのは誰でもない、バクラのはずだ。
それはとても光栄で、幸福なことなのだろう。
――だって私は、バクラを誰よりも何よりも大切に思っているのだから。
……きっと、自分の命よりも。
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