手を伸ばして掴み取る
「一緒に帰ろう」
突然現れたアルヴィンは、それだけ言うと私の右手をとって走り出した。
全速力で走る彼に引かれながらでは、どうしたのという言葉すら上手く発することができない。足がもつれて転ばないようにするので精一杯だ。それに街の賑やかな喧騒の中では、自分の小さな声など掻き消されてしまうに違いない。
アルヴィンと会うのは、もう随分と久しぶりになる。
記憶を失い、眼鏡も壊れて視界もあやふや、そんな状態の私をここーーカラハ・シャールまで連れてきてくれ、現領主であるドロッセル様の元で働けるように取り計らってくれたのは彼らだ。
最後に会ったのはそうだ、乗っていたワイバーンの事故で彼らが空から落ちてきたときだった。生憎、急いでいるらしく、それほど話す時間はなかったが、私としては恩人に再会できたというだけで胸がいっぱいだ。
多くの時間を共有していたわけではない。それでも私にとって、アルヴィンという人はとても大事な人になっていた。
ふざけた物言いが多いが、本当はすごく優しい。病気のお母さんの為に頑張っている。意外とお洒落さんで、今私が付けている眼鏡もアルヴィンが選んで買ってくれた。彼に頭を撫でられると嬉しい。
私がアルヴィンについてわかっているのはそれだけ。たったそれだけなのだ。
「……あいつらを……せば、俺たちは……」
周囲の音に揉み消され、私の耳にまで届いたのは極一部だったが、それすらも私の中にあるアルヴィンという人間を形取るすべてからすれば、非常に大きなものだ。
前を行くアルヴィンの表情はよく見えない。それでも、私からすれば十分だった。
「アル、ヴィン」
中央通りから一本逸れた脇道で、ようやくアルヴィンは足を止めた。建物の影になっていてすこしひんやりとした空気が漂っているが、背後からはまだ人々の営みの声が聞こえてくる。
掴まれていた手はそっと離された。アルヴィンの指の形がわかるほど、くっきりと跡が残っているが、不思議と痛くはない。
未だに前を向いたままの背中に、もう一度呼びかける。
「アルヴィン!」
音に肩を跳ねさせ振り返ったアルヴィンは、まるで必死になにかを耐えているような、見ているこっちが苦しくなるような表情をしていた。
そのせいで続けて出るはずだった言葉は引込み、意味を持たない音ばかりが喉から飛び出す。
「あ、あの……わ、私……」
「なまえ、」
「あのね、私……私は……っ!」
「……連れてきて悪かったな」
上手く言葉を紡げず、必死な私の姿にアルヴィンは何を感じたのか、一言だけを残し、一人ですたすたと歩き出してしまった。
彼が何をしたかったのか、またこれから何をしようとしているのかは分からない。それでも、自分が何をすべきかはわかっている。
「待って!」
前を行くコートに手を伸ばし、掴む。力無い声が離せと叫んだが、逆に力を込め、絶対に離さないと伝える。
「はやく戻れよ。お前には帰る場所があるだろ」
「い、嫌だ……離したら行っちゃうでしょ?」
「たり前だ。用もないのにガキの相手なんてしてられるか」
いつも優しい言葉しか貰っていなかった自分の胸に、それは鋭く食い込んできた。
アルヴィンの様子がおかしいことなど、誰が見てもわかる。ならこれだって彼の本心ではないかもしれない。仮にそうだとしても、自分がこれまでに受けた恩は消えはしない。
ーーわかっている。わかっているのに、目の端から涙が溢れてとまってくれない。
「…………たく。なんでお前が泣くんだよ」
「だって、アルヴィンが」
情けない顔を見せたくなくて、下を向いて必死に涙を拭う。袖口が雫でぐちゃぐちゃになるまで何度も。
今のうちに振り切ってしまえばいいのに、なぜかそうしないのは、おそらくアルヴィンも迷っているのだろう。何をかはわからない。それでもアルヴィンは迷っていて、私よりも泣きそうな声で喋るのだ。
「私は……アルヴィンと、一緒に行きたい」
分厚いコート越しにでも、アルヴィンの体が一瞬強張ったのが伝わってきた。
私の手を取った彼は間違いなくそれを望んでいたはずなのに、反面それを恐れてもいる。小さく震えているように思えるのはきっと勘違いではない。
「…………俺がこれからなにするかわかってもいないくせに」
「うん。わかんない」
「俺はミラを…………した……」
「それでも、アルヴィンと一緒がいい」
「……ガキは本当に馬鹿だな。着いてきてもなにもねえってのに……」
ドロッセル様は見ず知らずの私にも優しかった。それでもどうしてだろうか。アルヴィンと一緒にいるときとは違う。どんなに優しくされても私の孤独感が癒えることはなかったのだ。
いつか彼がしてくれたように、そっと背中から腕を回す。振り払われはしない。言葉の代わりに、私のものより大きな手が静かに重ねられた。
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