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「せぇらん……?」
 
 急に眉根を寄せ、セイランが言いにくそうに目線を彷徨わせたかと思えば、柔和な顔立ちに似合わない舌打ちが飛び出した。短い付き合いではないはずなのに、セイランが舌打ちするところなど初めて見た。一体なにに対して舌打ちしているのかさっぱり分からない。
 得体の知れない居心地の悪さを感じるナグモを向かい合うようにして抱き直し、彼はやっと覚悟を決めたような顔をして言ったのだ。

「――結婚しましょう、ナグモ」

 ここは埃っぽい、薄暗い倉庫だ。
 セイランの後ろには「整理整頓」と書かれた張り紙が貼られた掃除用具の棚があって、その腕に抱かれている自分は泣き腫らした顔で間抜け面を晒している。
 一体どういうシチュエーションだ。
 そんな中でなにを言われているのかさっぱり分からない。今、セイランはなんと言ったのか。

「は……?」
「……本当はもっと、色々考えていたんです。君の好きそうな場所や、シチュエーションを。指輪だってもう準備していたというのに、よりにもよってこんなところで言うつもりなんて微塵も、」

 どこか慌てたように言い訳するセイランが珍しく、またしてもナグモはぽかんと口を開けることになった。その視線に気づいたのか、背筋を正したセイランが一つ咳払いをして自分の言葉を呑み込む。
 次に降ってきたのは、いつもと変わらぬ優しいくちづけだった。

「僕と結婚してください。必ず君を幸せにすると“約束”します」
「っ……」
「仕事は続けたければ続けてください。しばらく一緒には暮らせないかもしれませんが、たとえ距離が離れていたとしても、傍にいることができないとしても、君を一人にはさせません」
「で、でも、ほら、まだ、その、」

 湖上艦隊内の恋愛は禁止されている。ナグモは表向き、その軍規を破ったことによってヴェルデ基地に移動になったのだ。そんな二人が一年かそこらで結婚するとなれば、印象がいいはずもない。自分はともかく、艦長という立場で多くの部下を率いるセイランには悪影響を及ぼしかねない。
 だから、と自然と断る方向に向かっていたナグモの左手が掴み上げられ、指の付け根に強烈な痛みが走った。短い悲鳴が飛び出るほどの痛みだというのに、セイランはナグモの指を口に含んだまま離そうとしない。
 それどころか、彼はよりきつく歯を立ててきた。ぎり、と骨と歯が擦り合わさって痛みが増す。

「ちょっ、もうっ! 痛いってば!!」

 無理やり引き抜いた指を撫でさすろうとしたそのとき、ナグモの身体は見えない糸に絡め取られたかのように不自然な体勢のまま固まった。
 じくじくとした痛みを訴える左手の薬指の付け根に、真っ赤な歯形がついている。
 それはまるで、指輪のようだった。

「なに、これ……」
「ここにもっと立派な輪っかを填めて、君に最も似合うドレスを着せて。君の愛する人達の前で、君を世界で一番幸せな女性にしたい。そんな僕の我儘を、叶えてくれませんか」

 震えるほどの痛みではないのに、左手が小刻みに震えた。赤い跡が走る薬指にセイランの唇が触れる。こんなところでなにをしているんだろう。まったくもってセイランらしくない。
 止まっていたはずの涙がまたしても滲んでいく。今の自分がどれほど不細工な顔をしているか、もはや想像するだに恐ろしい。

「ナグモ、返事は」

 促されて、思考が停止した。もうなにも考えられなかった。お互いの立場、世間体、その他諸々。
 いい大人なのだから考えなければならないことは山積みのはずなのに、じくりとした痛みが布を掛けて遮っていく。
 残ったのは、純粋な自分の感情だけだ。

「……しあわせに、して」
「もちろん」

 望んでもいいのだろうか。
 この人の笑顔を独り占めする未来を。

「もう、離さないで」
「当然でしょう」

 手放されたあの瞬間の痛みを、もう二度と味わいたくない。

「一人に、しないで」
「ええ」

 傍にいて。
 たった一人で過ごすのは、あの三ヶ月で十分だ。

「私を、おいていかないで」
「最大限の努力をしましょう」

 失いたくない。
 だって、貴方がそう言った。
 奥歯を噛み締めても嗚咽が漏れる。
 大丈夫。今度はもう、痛くない。

「“約束”、して――」

 幸せにして。離さないで。一人にしないで。おいていかないで。
 痛みも恐怖も不安も、すべてを塗り替えるほど、愛して。

「約束しましょう」

 その笑顔に、傷ついた翅が一瞬で広がったような気がした。腕を伸ばしてセイランの首にしがみつき、すっかり枯れた声でわんわんと泣きじゃくる。背中をさする手の優しさに、耳に届く心底嬉しそうな溜息に、涙が止まらなかった。
 幸せになってもいいのだろうかと不安になったのは一瞬だ。ただそう思いたいだけなのかもしれないが、ナグモの知るリュウセイならば盛大に祝福してくれるだろう。呆れて肩を竦め、「やっとかよ」とでも言うかもしれない。


 風に揺れる蜘蛛の糸は、どれほど細くとも驚くべき強度を持っているのだという。
 芸術的なまでに美しく張り巡らされた蜘蛛の巣は、雨上がりには宝石を包んだようにより輝きを増す。

「――大好き」

 優しい蜘蛛の待つ巣に、ふわりと羽ばたいて蝶は帰る。
 その日の夜空に星が流れた。


(→SSS「蜘蛛と蝶」)
(2015.0527)

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