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*本編終了後


*本物の音


 会ったときから少し変だな、とは感じていた。
 耳に心地いい少し低めの声には時折聞き取れない単語が混じっていたし、こちらの言っていることが理解できないのか、眉間にしわが寄せられることもたびたびあった。
 そのたびにアカギは耳に取り付けた小さな機械を調整していたから、その機械の不調だということはすぐに分かった。通信機と翻訳機の役割を兼ね備えているそれは、イヤホンよりも小さく目立たない造りながら、他プレート――異世界の言葉にも対応したハイテクな機械だ。
 多少の不便さは感じながらも、特に支障なく会話を楽しんでいた午後に、その瞬間は訪れた。

「え? あの、アカギさん? すみません、もう一度言ってもらえますか?」
「――――」
「えと……?」

 放たれる声は変わりないのに、その意味はまったく理解できない。ドイツ語に似ている気もするが、仮にドイツ語だったとしても穂香にはヒアリングは不可能だ。
 アカギはこれでもかと眉間にしわを刻み、一度耳の翻訳機を取り外して手元で弄っていたが、元に戻したところで結果は同じだった。おそらく悪態であろう言葉が吐かれたが、それすらなんと言っているのか分からない。
 外見は日本人とそう変わらず、今の今まできちんと日本語でやりとりできていたものだから、その口から放たれる多言語にひどく違和感を覚える。

「――」

 言葉尻の雰囲気からなにかを訊ねられているのは分かったが、それ以外はさっぱりだ。首を傾げる穂香の目の前でアカギが舌打ちし、彼は頭を掻き毟りながらポケットに仕舞っていた携帯端末を取り出した。手早く操作したかと思えば、サイドテーブルに置きっぱなしにしていた穂香の携帯が軽やかな着信音を奏でる。
 目で「見ろ」と告げられて、困惑したまま画面を開くと、そこにはアカギからの新着メッセージが表示されていた。

『翻訳機が壊れた』

 特別臨時登録端末としての扱いを受ける穂香の携帯は、アカギ達との端末とも連絡が可能になっている。メールは自動的に互いの言語変換されるため、言葉が通じなくなったとしても、これを使えばやりとりに支障はない。
 目の前に相手がいながらメールで会話する不思議さを感じながら、穂香もいそいそと返信した。

『私の言っていることも分からないんですか?』
『まったく』

 リビングのソファにどっかり腰を下ろしたアカギが、不機嫌そのものでメールを打つ。相手の端末画面を覗き見てもなにが書いてあるか分からないのに、受信されればちゃんと分かるようになっているのだから、テールベルトの機械はとても便利なものなのだと実感した。
 久しぶりに会えたというのに、どうやら今日は筆談で会話するしかないらしい。
 話したいことはたくさんあった。聞きたいことも、同じくらいたくさん。
 それが、こんな小さな機械の故障で阻まれてしまうのか。あれほど重ねてきた言葉達は、すべて機械の助けを得てのものだったのか。自分達の繋がりがとても脆いもののように感じ、寂寥感と不安が押し寄せる。
 改めて考えずとも、現実はいつも目の前にあったのに。
 今でこそ携帯を通じて連絡できるが、他プレートに暮らすアカギと連絡する手段など以前は存在しなかった。会うことができるのも、アカギがこちらに来てくれなければ叶わない。穂香からテールベルトという国に行く手段などなく、彼側から断ち切られればそれまでのものだ。
 二人の間に繋がるものなど、アカギの裁量一つで容易く失くすことができる。
 そう気づいたとき、穂香は撃たれたような衝撃を覚えた。何度も何度も翻訳機を調整して耳に押し込んでは何事かを呟いているアカギに、無意識のうちに導かれるようにして手を伸ばしていた。
 驚いたような顔が見下ろしてきて、言葉などなくてもその感情が理解できたことにかすかな喜びを覚える。

「……アカギさん、ほんとに、分かりませんか?」
「――――」

 耳に装着されていた小さな機械をそっと奪って、サイドテーブルに置いた。隣に座るアカギが怪訝そうな顔をして距離を離そうとしたが、穂香の手がそれを許さない。逞しい太腿に手を置いて、乗り上げるようにして腰を浮かせれば、鋭い眼差しが至近距離に迫る。
 昔はこの目が怖かった。常に責められているようで、自分の弱さを見透かされているようで、堪らなく怖かった。けれど今は、もう怖くない。この目はいつだって自分を見守り、助けてくれると知っているからだ。
 胸の内で心臓が暴れている。アカギが身じろいだ拍子に手が滑って身体が傾いたが、ソファからずり落ちそうになった瞬間に腕と腰が支えられた。
 反射的に身体が縮こまるような舌打ちが降ってきたけれど、優しく膝の上に抱き直されてじんわりとした熱を持つ喜びが全身を駆け巡っていく。この熱はなんなのだろう。胸が苦しい。悲しくもないのに涙が出そうで、締めつけられる胸の痛みと同時に吐息が唇から滑り落ちる。
 恥ずかしさから目を合わせることなどできず、穂香は逃げるように太い首に腕を回して抱き着いた。一瞬動きを止めた逞しい身体が、なにかぼやいてからゆっくりと力を抜いていく。

「――」

 どうした、とでも言ったのだろうか。分からない。分からないけれど、聞き慣れない言語の合間に挟まれた「ホノカ」という自分の名前だけは零すことなく拾い上げることができた。言語が違っても、名前を表す音は変わらないらしい。
 そのことがとても嬉しくて、肩口に頭を埋めてにやける顔が見られないようにした。


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