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Morning coffee
ジョシュアは皿の上のクラッカーへ視線を落とした。ところどころ端の欠けたそれは、戦前のものではなく、キャラバンがおそらくニューレノ辺りから運んできたものだ。飾り気のない見た目の通りの薄い塩味で、ぱさついている。
ナマエはこれを嫌いだと言っていた。死ぬまでに摂れる食事の回数は有限なのに、どうしてこんなものにその貴重な一回を費やさないといけないのか、と。彼女の主張は正しいとジョシュアは思う。
だが、質素な食事は自制心を育むという。
ジョシュアは自分には既に充分な自制心が備わっていると心得ていたつもりだったが、所詮つもりはつもりであり、本当に心から欲するものが現れたとき、それまで育んでいたはずの自制心などというものは皆無に等しかったのだと思い知った。
だから今、彼はこのクラッカーを食べている。再び自制心を取り戻すために。
松明の煙る洞窟の中の一室、ナマエ曰く“リビングルーム”で彼の着く朝食の席に、いつもならあるはずのナマエの姿はない。ジョシュアが目を覚ましたのはまだ日も出ていないような時間帯だったのに、既に彼女はベッドの中にいなかった。
――とうとう愛想を尽かされたか、とジョシュアは嘆き、後悔する。昨晩の振る舞いは、とても褒められたものではなかった。モハビから帰って来たばかりのナマエは疲れていただろうに、自分は気遣いの心も忘れて、獣のように彼女を求めてしまった。本当は、彼女の土産話に耳を傾け、ゆっくりとした夜を過ごすつもりだったのに。
彼女と離れていたのはほんの数日なのに、まるで数年間も引き離されていたかのように、彼女の愛と身体を貪ってしまった。……だがナマエは健気にもそれに応えようと努めてくれた。言葉を求められればそれを返し、行為を求められればそれを返した。
昨夜のことを思い出すと、常に心の内に渦巻いているナマエへの愛が一層うねりを増して、ジョシュアは痛烈な罪悪感を覚えた。
直接的な行為に走ってしまうのは、自分の経験が少ないせいだからなのだという自覚はあった。他に愛の伝え方を知らないからだと。言葉では足りない彼女への愛を、他にどうやって伝えたらよいのか、ジョシュアには分からなかった。
ナマエは自由に生きてきた人間で、自由な恋愛をしてきたことだろう。色を知る彼女の目に、自分はどう映っているのだろうか。暴力と血しか知らぬ、つまらない男だと、そう思われても仕方がない……。
ジョシュアは深々とため息をついた。ナマエは今どこにいるのだろう。本当に機嫌を損ねた時の彼女の居場所を探ることは、経験を重ねたデッドホースの斥候にも難しい。だが逆を言うのならば、斥候に探し出せるならばそこまで怒ってはいないということだ。
皿の上のクラッカーへ再び視線を落としたジョシュアは、これを食べ終えたら、彼女を探しに行こうと決意する。自分に否があるのは分かっているが、話し合う機会を彼女が与えてくれるよう、願うばかりだ。
ジョシュアはクラッカーを齧り、その無味に近い味を自身への戒めのように思う。
アルコールやカフェインの類いは摂らず、このクラッカーのような質素な食事に、必要最低限の触れ合い。どれもニューカナーンの民が守らなければならない教義だ。人を堕落させるものたちに依存するな、求め過ぎるな。
ダニエルは教義を重んじ、節制を美徳とする。一方ナマエは異教徒で、快楽主義的な一面があり、しばしばダニエルはナマエのことを「人を堕落させる存在」と評した。その“人”というのは主にジョシュアのことを指しているようだったが。そういうこともあり、二人は意見が合わぬことが多々あった。
以前までのジョシュアはダニエル寄りの考えを持っていた。だが最近は、自分も彼女の影響を受けつつある、とジョシュアは思う。しかし同時にそれを喜ばしくも感じる。
ナマエは人生を楽しむべきだと言う。そしてその“楽しいこと”に自分が含まれていること、そして彼女と共に人生を楽しめるということは、ジョシュアにとって何事にも変え難い喜びだった。荒涼としたリージョンでの時代を経て、初めて得たかけがえのない存在――ナマエ。沢山の妻を所有するよりも、一人の人間を愛し、愛されたいと思うことは、教義に反していることかもしれないが、それでも構わないとジョシュアは改めて思った。
元々味気なかったクラッカーが、更に味を失ったように思われて、ジョシュアは新たな一枚を手に取るのを躊躇った。その隙を突くかのように、ナマエに会いたいという思いが再び顔をもたげる。こんなことをして自分に自制を強いるよりも、ナマエを探して心の内を伝えるべきだと。ジョシュアは朝食を切り上げることにした。
椅子から立ち上がろうとしたジョシュアの鼻先を、香ばしい香りが掠めた。嗅ぎなれぬ香りだが、どこか郷愁を誘うような甘さがある。ふと、ジョシュアの脳裏をナマエの姿がよぎった。彼女の白い手と、マグカップと、朝日……。これはコーヒーの香りかと、ジョシュアは思い当たった。丁度その時、件のナマエが部屋の入口から顔を覗かせた。
「あ、もう起きてたの?おはよう、ジョシュア」
「……ああ、おはよう」
ジョシュアの心の内にどれだけの安堵が広がったかなどつゆ知らぬナマエは、そのまま軽い足取りでテーブルへ近付いた。そしてクラッカーの存在に気が付き、眉をひそめる。
「やだ、これが朝ごはんなんて言わないよね?」
「もう食べるのをやめようと思っていたところだ」
「まだお腹空いてる?」
唐突な彼女の質問の意図を掴みかねたジョシュアが、沈黙と共に言葉の先を促すと、ナマエは少し照れたような笑みを浮かべた。
「朝ごはん作ったんだけど……一緒にどう?」
「無論、構わない」
即答するジョシュアに、ナマエは心の底から嬉しそうな笑みを浮かべる。
「コーヒーも淹れたの」
香りの正体はやはり、コーヒーだったらしい。だが、ジョシュアは首を横に振らざるを得なかった。
「すまないが、コーヒーは飲めない」
「うん、知ってる。でも、コーヒーの中のカフェインが駄目なんでしょう?ダニエルからそう聞いたけど」
「ダニエル?彼に?……君はダニエルが苦手なのだと思っていたが」
「ええ、苦手。でもあなたたちの生き方について、私も学ばないと、と思って」
驚きを顕にするジョシュアに、ナマエは明るい声で続ける。
「だってこれから一緒に生きていくんだもの」
彼女からの歩み寄りを感じて、ジョシュアは包帯の下で微笑んだ。そして、気持ちを告げるのは今だろうと考える。気にしていない様子のナマエに自ら進んで思い起こさせるのは気が引けるが、いつかは謝らなければならない。
「昨晩はすまなかった」
「どうして謝るの?」
口ではそう言うものの、察しが付いているらしいナマエはジョシュアに近付くと、屈んで頬に軽いキスを贈った。コーヒーの香りがふわりと、ジョシュアの心をくすぐっていく。彼が反論を返す前に、ナマエは穏やかな口調で言葉を重ねた。
「昨日は楽しかったね」
「だが、君は疲れていただろう」
「そうね。でも、その時にしかできない事を私はしたい。あなたとできる事なら尚更」
そしてナマエはジョシュアの耳元で囁く。
「それに、嬉しかった。待っててくれたんだなって思えたから」
その肯定の言葉、ジョシュアを、ジョシュアの愛を肯定するその言葉に、彼は深い安らぎと愛おしさを覚えた。
ジョシュアはナマエの頬に手を添えた。二人は目を合わせ、どちらともなく唇を重ねる。かすかに残る昨晩の余韻を、二人はゆっくりと楽しんだ。
「……それでコーヒーの話だけど、カフェインが入ってないレシピをモハビで教わってきたの。それなら、あなたも飲めるんじゃないかと思って」
どう?と首を傾げるナマエに、ジョシュアは微塵の迷いもなく頷きを返す。ジョシュアが彼女の生き方に馴染もうとする一方で、ナマエもジョシュアの生活を尊重しようとしているのだ。それを拒絶など、できるはずがない。
「頂こう」
安堵と喜びのため息があった。
「よかった。私ずっと、朝日を眺めながらあなたとコーヒーを飲みたかったの」
「コーヒーを?なぜだ?」
「夜明けのコーヒーは特別な人と飲むものだから」
答えになっていない答えを返すナマエは含みのある微笑みを唇に浮かべていて、それ以上は何も教えてくれないようだ。だが彼女のそんな気の引き方を、ジョシュアは愛していた。
「ならば、もう行かなくてはな。そろそろ日の昇る頃だろう」
「ええ」
立ち上がるジョシュアの腕へ、ナマエがそっと触れる。そんな些細な仕草にも、彼女からの愛情が見え隠れしていて、ジョシュアは再び彼女と共にある喜びを噛み締めた。
洞窟の入口には朝の青白い光が差し込んでおり、冷たくも清々しい風がコーヒーの香りを二人の元へ運ぶ。
それは決して堕落への誘いではなく、愛する者との生活の新たな希望であることを、ジョシュアは知っている。
二人は並んで足を踏み出した。
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