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短編|デトロイト、冬 ※シリアス/ビターエンド/死ネタ

*『冬来たりなば春遠からじ』の続きとして書きましたが、ビターエンドなので、前話をハッピーエンドのままで終わらせたい方は設定を流用した別世界の話とでも思って下さい。
*コナー(51)×夢主←コナー(60)
*コナーが破壊される描写があります。




 車のキーを回したナマエは、雪に冷やされたエンジンと車内が温まるのを待っていた。
 夜の暗闇の中、規則正しいエンジン音が低く響いている。ナマエは運転席のシートに身をうずめ、さっきの短いながらも激しかった愛の行為の余韻を味わう。恋人の腕の中で微睡んでみたいと彼女は願うが、あまり長い時間を二人で過ごすことはできなかった。時間と比例して、誰かに見つかってしまう可能性も上がっていくからだ。どちらも、そんな危険は犯せない。
 だが、もう少しでそれも終わる。
 独り微笑んだナマエは、ポケットからチケットを取り出して眺める。折り目のついたそれは、二人の自由へのチケット。名残惜しそうにナマエへ何度もキスをする彼が、別れ際に渡してきたもの。
「国外へ脱出する手筈を整えました」
 彼はそう言って、ナマエの手にこの小さくも重要な紙切れを握らせたのだった。明日の夜、また落ち合い――逃げましょう、と続ける彼の瞳の輝き。そこに映る彼女も同じ瞳をしていた。
 ナマエは首筋に微かな疼きを感じ、多分彼がまた痕を残していったのだろうと思う。赤い痕を。車のバックミラーでそれを確認しようと視線を上げた彼女は、鏡に映る薄暗い後部座席に、冷たい水色の光を見つけて身体を強張らせた。
 さっきまでナマエと愛を交わしていた彼と同じ外見だが全く異なる彼。グレーのジャケットに書かれている製造番号の末尾には60という数字。今の彼女の相棒。コナー。
 彼が口を開く。
「どこで、なにをしていたのですか」
 ナマエは答えられない。そんな彼女を冷ややかな瞳で一瞥し、彼は話を続ける。
「あなたの携帯端末に何度も掛けたんですよ」
「ごめん、車に置きっ放しにしてた……」
「知ってます」
 その一言でナマエは、彼がこの暗い車内で鳴り続ける携帯端末に視線をじっと注ぎ続ける様を想像してしまい、実際、彼はそうしていたに違いないと思う。
 そして、彼は携帯端末のデータを見ただろうか、と僅かに恐怖を覚える。もう一人の“彼”とのやりとりは全て消してある。だが、この彼ならばそれを復元させることもできるのではないだろうか……、と。そんなナマエの考えを見透かしたかのように、彼が冷たい声色で言葉を重ねる。
「例え相棒でも怪しいと思った場合は報告しろと、サイバーライフからは命じられています」
「……私を、通報する?」
「いいえ」
 彼は首を軽く横に振ってみせる。どこか自虐的な雰囲気を漂わせながら。
「そんなことをすれば、僕はあなたと――」
 彼はもう一度首を振って言葉を切り、それ以上何も続けようとしなかった。彼は暫く無言で窓の外へ視線を投げかけ、おもむろにドアハンドルへ手をかけた。
「待って」
 そう声を掛けられた彼の顔を一瞬駆けて行ったのは期待という感情だろうか。だが直ぐにナマエがそう言う理由に思い当たったらしい彼は、唇を苦々しく歪めた。
「“彼”はもう、逃げた後ですよ」
 そして彼は車を降り、音を立ててドアを閉めた。


 もちろん、彼の前任者は彼女への想いをアップロードなどしなかった。ナマエへの愛を示す全ての事柄を、前任者はその複雑な回路の奥にある胸に秘めたままでいた。
 だが、公式な記録の端々に、前任者自身も意識することのなかった恋心の印とでも言うべきものは残されていた。例えば、彼女と交わした言葉、意味を含んだ視線、触れ合う指先……それら全てはあまりにも一般的なやりとりに滲んでしまっていて、前任者は拭い去っていくことができなかった。
 そして種子のように散りばめられたそれらを、彼、新しく目覚めたコナーはそうと知らずに読み込んでしまった。
 始まりは、そうだった。
 だが前任者と同じ精神構造を持つ彼が、どうして前任者と同じ道を歩まぬことがあるだろうか。
 前任者の蒔いていった種はやはり、彼の機械の心でも芽吹いたのだった。


 前任者が任務を放棄して変異体となったために、新たに起動されたコナーである彼は、ナマエの車を降り、雪に足跡を刻んだ。先ほどから視界の端に現れて消えぬ『ナマエ・ミョウジの不審行為について報告する』という選択肢を、彼は選ぶつもりはなかった。彼女が誰と何をしてたのかは知っている。だがそれでも、彼女は彼の相棒であり、それを手放すつもりなど毛頭なかった。
 コナーはナマエの残していった足跡を遡り、一軒の廃屋へ辿り着いた。壊れて回らぬドアノブを押して室内へ足を踏み入れた彼を迎えたのは、暖炉の白い燃えさしと、その前に置かれた一枚の毛布だけだった。それにはまだ温もりが残っていた。一人の女の体温と、彼女を温めていたアンドロイドの。
 そんな室内の様子、残された行為の痕跡にコナーは苛立ち、ナマエの白い首筋に印されていたあの赤い鬱血痕を思い出して更にそれを深めた。ここでもう一人のコナーが彼女にそのサインのような赤を残していっている光景を、彼は細部に至るまで鮮明に思い描くことができた。どういう気持ちで、コナーがそれをしたのかも彼には分かった。だが彼にはその時のナマエの表情、声、仕草は想像することができなかった。それは自分ではないコナーだけのもので、彼が目にすることのできないものだった。彼はナマエの微笑みすら、自分の目で見たことはなかった。引き継いだデータの中には、無数に存在しているというのに。
 そのこと全てが彼を苛立たせた。彼は毛布を掴むと暖炉の白い灰の中へ突っ込み、傍らに残されていたマッチを擦って、それに火をつけた。赤い炎は舌のようにしばらくその表面を舐めていたが、じわじわと端を焦がし始め、やがて、毛布は黒い煙を上げながら燃えだした。
 炎の熱と光を浴びながら、いい気味だ、とコナーは思う。お前が何をしているのか知っている。僕はお前をいつでも捕まえることができる。でも、そうはしない。ナマエのために。お前は僕にただ見逃してもらっているだけなのだ、と。
 そう考えることは彼に精神的優越感を与えた。そして自分がもう一人のコナーの行いを見逃し続けることでナマエを牽制し、自分から離れられなくすることもできるのではないかと、彼は願望じみた気持ちで考えてもいた。コナーがここに留まる限り、ナマエもここに留まらざるを得ないだろうから。
 ――“あの”コナーは人間と変異体が危うい膠着状態にあるのを尻目に、こうしてナマエと密会を重ねることに満足していて、現状を打破ろうなどとは考えていないだろう。彼にそんな度胸などないだろう。というのが“この”コナーの見解だった。
 しかし彼は一つ見落としていた。それはもう一人のコナーにはナマエがついているということ、彼女の愛、そして彼女への愛が、彼を変えたのだということを。
 機械のコナーの推測は間違っていた。変異したコナーには、ナマエの為に危険を犯す勇気があった。閉じた“今”を打開しようという決意が。

 炎は毛布を食い荒らすのを止めた。白かった灰の上には今や黒いタール状の塊と燃え残った繊維の端々が残され、まるで何かの生き物の死骸が乱雑に置かれているかのような様相を作り出していた。それを一瞥し、コナーは踵を返す。次に二人が会うのはどこだろうかと、同じ思考回路を持つコナーが取るであろう行動を予測しながら。








 どういう気持ちになるものなのだろう、とコナーは思う。昨晩あんなことをしていた相手と同じ顔の男を前にするというのは。
 翌日のナマエは、何もなかったかのように彼に接した。コナーも彼女が求めるように、つまり同じように振る舞ったが、どうしてもそのような考えを手放せずにいた。
 それを知ってか知らずか、ナマエは今日も、いつものような淡々とした態度を崩そうとはしない。
「RK800、ここに付着してるサンプル、解析しといて」
「分かりました」
 事件現場の壁に飛び散った青い液体を指してナマエはそう言い、コナーは大人しくそれに従う。横目でそれを確認したナマエは手に持ったタブレット端末で情報を確認し、鑑識の一人を呼び止めて数個言葉を交わす。その会話の最後は「ありがと」という感謝の言葉で締められていた。コナーは一度も受け取ったことのない言葉。


 二代目のコナーが配備された当初のナマエは、ここまで彼を遠ざけてはいなかった。彼女は彼の登場に驚き、多少の嫌悪感を露にはしたものの、それは彼へのものではなく、代わりの効く、アンドロイドという存在の軽さへの嫌悪だった。そして彼女はその感情を乗り越え、新たな相棒としての彼を、受け入れた。
 今思えばそれは、変異体となって署を去ったコナーへの当てつけでもあったのかもしれない、と彼は推測する。当時のナマエは、過去の相棒が自分の元から去ったことを、捨てられたのだと解釈していたようだったから。
 だから、あの頃のナマエは自ら新たな相棒へと歩み寄ろうとしていた。もう一度、初めから。そんな気持ちだって抱いていたかもしれない。彼女の表情は日に日に柔らかくなっていたし、微笑みの前触れのような唇と目元の動きを見ることだってできた。そう、あの頃は。

 あのまま何もなければ、彼へ微笑みを向けることだってあったかもしれない。
 だが、それは起こってしまった。一通のショートメールが、二人の関係を壊してしまった。

 それまでの日々を反転させたかのように、少しずつ、ナマエはコナーから遠ざかっていった。その時のコナーには何が起こったのか分からなかった。ただ、突然見離されたように感じた彼は、手探りながらも、彼女との関わりを求めた。子供が、母親の手を求めるように。
 だが、何度も練習してきた微笑みを浮かべて見せるコナーに対して、ナマエは気まずげに視線を下へ逸らしただけだった。

 後にコナーは、自身の前任者が依然として存在していること、そして彼女と接触を試みたのだということを知った。彼女がそれを拒まなかったことも、知った。


 コナーが見つめる先で再びタブレット端末へ視線を落としたナマエは、目にかかった前髪を軽く払い、手櫛で耳の後ろへ流した。集中している時の彼女の癖。コナーは日に数度、彼女のこの無意識の仕草を目にしていた。
 いつしかコナーは、彼女のこの仕草をもう一人のコナーも見ているのだろうか、彼女はあいつの前でなら、心からの微笑みを浮かべるのだろうか。――そう考えずにはいられないようになっていた。
 最初から手に入らないものを諦めるのは容易い。だが、手に入りそうだったのに直前で奪い去られてしまったものへの執着は、根が深くなるものだ。彼の場合もそうだった。




 ナマエは現場にいる間中、そしてそこから車で署へ戻る今も、落ち着かない気持ちを、どうにか表に出さぬよう努めていた。それは、傍らの助手席に座るコナーが昨晩、“彼”とナマエの関係を把握していることを匂わせたためだけではない。ナマエは自分の胸ポケットに、そう、心臓の一番近いところに、大切に入れてあるチケットのことで頭がいっぱいだった。いつ彼から連絡が来るだろうかと、そればかりを考えていた。
「ミョウジ刑事」
 彼女の愛する男と同じものだが確実に何かが異なる、氷のように冷ややかな声が、そんな彼女に注意を促す。
「通り過ぎてしまいますよ」
 その言葉で我に返ったナマエは、危うく署の駐車場の入り口を通り過ぎてしまいそうだった車のスピードを緩め、駐車スペースを探してそこへ車を駐めた。
「今日は注意散漫ですね。……寝不足ですか」
 昨晩のやりとりを敢えて掘り返すようなコナーの発言に、シートベルトをはずそうとしていたナマエは動きを止めた。
「あなたには関係ない」
 話を終わらせたいと思っていることを隠そうともせずに短くそう言い返したナマエだったが、コナーはそれを気にも留めず更に言葉を継いだ。
「恋人と――いや、犯罪者、テロリスト、そして裏切り者である彼とは、楽しい時間が過ごせましたか」
「あなたには――」
「関係ありますよ。あなたは僕の相棒なんですからね。それに、僕も同じ“コナー”だ」
「違うわ。あなたと、彼は」
 もはやナマエは、ここにはいないコナーの存在とその関係をはぐらかすことを止め、苛立ちも露わに目前のコナーを睨み付けた。コナーは皮肉めいた笑みを浮かべて見せる。
「少なくとも、法は犯していませんし、人間を傷付けてもいない。確かに、その点では異なっているかもしれませんね」
「彼には自由を求める心がある。人を愛する心も。だから、あなたとは違う」
「僕にはないと」
「私にはそう見える」
 拒絶を孕んだ硬い口調でそう言い切るナマエに、コナーの顔から歪んだ笑みが消えた。無表情にも近い顔つきになった彼は、事実を確認するかのように淡々と述べる。
「僕はあなたを然るべきところへ付き出すこともできる」
 コナーの言葉に、ナマエの肩が僅かに跳ね、白い喉が上下に動いた。動揺の表れ。そんな彼女の反応に、コナーは少しばかりの隙を見る。彼が先ほど無表情の下に押し込めたばかりの何かが再び顔を覗かせ、これはチャンスだと囁く。
「……もしも、そうされたくないのでしたら」
 脅迫を匂わせる声色と、彼女の首筋を執拗になぞる視線に、ナマエの顔がさっと警戒の色を帯びた。コナーがナマエの方へ身を寄せると、彼女はその分、車の窓にぎゅっと身体を寄せる。
「やめて、RK800」
「……何をですか」
「あなたがしようとしてること」
 そう言われてようやく、コナーは自分がナマエに覆い被さろうとしていることに気がついた。ナマエの怯えた視線に、コナーは理性を取り戻し、再び助手席のシートに座り直す。
「しませんよ」
 コナーは繰り返した。まるで、自分に言い聞かせるかのように。
「そんなこと、しませんよ。僕はアンドロイドで、機械だ。そんな人間がやるようなことは、しない」
 ナマエはしばらくコナーを見つめていたが、彼がフロントガラスへ向けた視線を戻そうとしないので、自身も同じように車外へ目を向けた。彼女はこう尋ねたかった。「ならどうして、そんな顔をしているの」と。しかし彼女はそう言わず、シャツの襟を立てて首筋を隠しながら、代わりにこう口にした。
「通報してくれてもいい。私と彼はそうされる覚悟の上で会ってるから」
「でもそうすれば、あなたは逃げるんでしょう」
「ええ」
「ここからいなくなる」
「そうね」
「僕の目の前から」
「……そうなるわね」
 やや怪訝そうな目で見つめてくるナマエの、その視線を受けながらコナーは言った。未だ自身は外を見つめながら。
「通報なんかしません。僕は相棒を売ったりなんかしない」
 だが彼が本当に言いたいのはこうだった――「あなたを手放すつもりはない」。
 その発言の後には短くも気まずい沈黙が流れたが、意外なことにナマエは返事を寄こした。
「ありがとう」
 唐突にコナーは声を上げて笑いたくなった、怒り狂いたくなった、泣きたくなった、叫びたくなった。様々な感情がもつれ合いながらコナーの中を駆け抜けていった。なにがありがとうだ、と彼は怒鳴りたかった。だが薄く赤い壁が全てを彼の内に押し留め、結局のところ、彼は何も返さずに言葉が車内の空気へ溶けていくのを見送るだけだった。




 ナマエは心臓が早鐘のように打つのをどうにか宥めようと無駄な努力をしながら、メールの受信を知らせてきた携帯端末の画面へ触れた。差出人不明の一通のショートメールを震える指先でタップして開き、そこへ記された数字の羅列を暗記する。それらは座標を表わしている。次にナマエが向かうべき場所を。
 “彼”とこういうやりとりをするようになって、ナマエは並んだ数字を見るだけでそれが地図上の大体どの辺りを示しているのかが分かるようになった。そして今回の数字はデトロイトの街中へ彼女を誘っていて、今までは極力人目を避けて会っていたのに、とナマエは少し不安を覚える。だがすぐに指定されたそこは交通機関の集中している場所だと気が付き、ナマエは胸ポケットへ視線を落とした。チケットは折りたたまれ、行儀良くそこに収まっているので、ナマエには何かの頭文字であるDEしか見えなかった。彼女は座標に添えられた、「待っています」という彼からの短い文に愛おしさを覚えながら、DEに続くであろう文字を考える。「Departure」あるいは「Destination」……。私たちはここから出て行くんだ、とナマエは改めて意識した。

 時計の短い針は下を向いている。彼女が佇む署内からは人が減りつつあり、夕日が照らす窓の外の大通りには、家路につく人の姿が増えつつあった。それを見て、行くなら今だとナマエは決意を固める。彼と共に監視の目をすり抜けるには、移動する人々の群れに紛れるのが一番だろうから。
 だが立ち上がった彼女を、障害と言うにはあまりにも近く、複雑な存在が遮る。彼は彼女の携帯端末がいつものようにメールを受け取るのも、その後の彼女の心拍数が上がるのも、ずっと見ていたのだった。
「どこへ行かれるつもりですか」
 鞄を手に取る彼女へ、コナーはそう声を掛ける。ナマエは彼へ目を向けようともせずに答える。
「帰るの。今日の分の仕事は終わったわ」
「ご自宅へ、帰られるのでしょうね?」
「ええ」
「本当に?」
「……そうじゃなくても、あなたには関係ないでしょう。ここからはプライベートよ」
 プライベートという単語は、壁だった。このコナーはそれを乗り越えることができなかった。というよりも、彼は乗り越えることを許されていなかった。返事に詰まるコナーをちらりと横目で見やり、ナマエは言葉を重ねる。
「あなたと私は仕事上の相棒であって、個人的なことに口を挟まれる謂れはない」
「ですが、あなたがあの彼と会うつもりなら、僕は止めないといけない」
「……どうして」
「彼が犯罪者だからです。当たり前じゃないですか。あなたまで彼のために罪を犯す必要はないんですよ。……僕はあなたを捕まえたくはない」
 ナマエは時々、このコナーとどう向き合えばいいのか分からなくなることがあった。たとえば、今のように。
 ナマエとその恋人にとって、彼は追跡者であり、監視者であって、二人を脅かす敵であった。だからナマエは常に距離を置いた態度を崩さないように心掛けていたのだが、時折それが難しくなった。特に、彼がもう一人の、ナマエのよく知る方のコナーのように振る舞う時に。彼の心からのように見える気遣いを感じると、ナマエは彼の機械の顔の裏に、いつか現れるであろう感情を読み取らざるを得なかった。なぜなら彼の前任者がそうであったように、彼も変異の可能性を秘めているのだから。

 ナマエは改めてコナーの名を冠する機械の男と向き合った。
 彼は険しい顔付きをしていたが、ナマエと視線が合うと、少しばかり眉尻を下げた。まるでナマエに叱られたかのように。
 この彼と、もう会うことはないのだと思うと、突然ナマエの胸の内に憐憫にも似た感情がこみ上げてきた。彼にだって機会は与えられるべきなのに、と。彼は言わば“昔のコナー”なのだ。ナマエが愛するコナーが変異する前の。
 ――でも、きっかけを作るのは私じゃない、とナマエは湧き出そうな情を押し殺しながら思う。このままナマエが消えたとしても、彼は署に残り続けるだろう。そして誰かが、あるいは何かが、彼を変える時が来る。きっと、いつか。その時のことを思えば、むしろナマエはいない方がいいのだ。いれば、コナーは前任者と彼女への固執を止めないだろうから。
 自身の出した結論にナマエは納得し、もう二度と会わぬ彼への最後の手向けのような気持ちで、微笑を浮かべた。コナーははっと目を見開く。
「……コナー」
 ナマエは初めて彼のことをそう呼び、言葉を継ぐ。
「あなたのちゃんとした相棒になれなくてごめんね」
「なんですか、急に」
「あなたの捜査補佐官としての能力は私も評価してる。だから、私以外の人が相棒になればもっとその能力を――」
「僕は、あなた以外の相棒なんか欲しくない」
 ナマエの言葉に被せるようにしてコナーが言い切ると、彼女は困ったように目を伏せた。
「私はあなたになにもしてあげられない」
「僕はなにもいらない。僕は、ただ……」
 コナーは続けるべき言葉を見つけることができなかった。彼は自分がナマエに何を求めているのか理解できていなかった。視線を落とす彼に、ナマエは優しく別れの声をかける。
「さよなら、コナー」
「ええ。また明日」
 返事はなく、翻され、遠ざかっていく背中をコナーは黙って見つめた。奇妙な胸騒ぎをその機械の胸に抱きながら。








 人間に扮したその変異体は、明るさを失いつつある夕暮れの光の中に恋人の姿を見つけて、緊張に強ばらせていた表情を和らげた。恋人の方もそんな彼に気が付いたようで、花が綻ぶような笑みを浮かべる。雪が溶けてぬかるんだ道を物ともせずに駆けてくる恋人に少しばかりハラハラとしながらも、彼は彼女が好きにするにまかせ、そのまま一直線に飛び込んできたその身体を胸で受け止めた。
 そして、ナマエとコナーは歩道の真ん中で抱擁を交わした。
「そのうち転びますよ」
「コナーが支えてくれるもの」
「僕がいなかったら?」
「これからはそんなことないでしょ」
「その通りです」
 苦笑しつつもそう返し、コナーはナマエをもう一度強く抱きしめる。昨晩会ったばかりだというのに耳元で「会いたかったです」などというコナーに、今度はナマエが苦笑を漏らした。
 帰路を急ぐ人々はそんな、よくいるカップルに注意を払いもしない。抱擁を解いた二人は手を繋ぎ、“普通の人間”に紛れることに徹した。
「それで、どこへ行くの?」
「しばらく歩きましょう。尾行が付いているといけない」
 慎重なコナーの発言に、申し訳なさを覚えたナマエは目を伏せる。ジェリコへ加わった後の彼が初めて接触を図ってきたあの夜、自分がFBIに尾行されていたことを彼女は決して忘れてはいなかった。
「ナマエ」
 恋人が落ち込んでしまったことを察したコナーは優しく彼女の名を呼び、顔を上げるように促す。
「あれは僕にも非がありました。あなたにどうしても会いたくて、偵察を怠ってしまった」
 コナーと視線を合わせたナマエは未だ眉尻を下げたままではあったが、彼の慰めに応えて微笑を浮かべた。それにコナーも笑みを返し、言葉を続ける。
「ジェリコに加わったことを後悔はしていませんが、あなたに会えないのは辛かった。あなたの元を訪ねて、そのまま連れ去ることができたらと何度思ったことか」
「いつも、そんなこと思ってたの?気が付かなかった」
「あの夜も不粋な彼らが邪魔をしなければ、僕はあのままあなたを攫っていったでしょう」
「ドラマチックね。攫われるのも楽しかったかも」
「あの時の僕に、今の光景を見せたいものですよ」
「こうなると思ってなかった?」
「そうですね、あの時はまだ」
 そんな他愛もない話をできることが、二人には嬉しかった。いつもは僅かな時間を貪るようにして、直接的な行為でお互いの存在と愛を確認するしかなかったから、こうしてゆっくりと言葉を交わし、薄いベールを捲るようにして相手の感情を探すことには尊さすら覚えた。
 そしてこれからはずっとこうしていられるのだという希望と喜びが、二人の足取りをより軽いものへと変える。ナマエはコナーの腕へ自身の腕を絡めて寄りかかるように身体を預け、コナーも彼女の甘えるような重みを受け止めることを楽しんでいた。

 しかし、二人の願いに反して、そんな時間は終わりを告げる。
 道路脇に停められた車の横を通り過ぎながら、コナーはそのカーブミラーで自身の背後を確認した。彼は道すがらそうした確認を何度も行っていたのだが、途中から雑踏の中に現れ、そして彼らがいくら道を変えようと消えることのない人影が一つあることに気が付く。コナーがその人影にスキャンをかけようと試みると、相手は巧妙に人間や建物の影に顔を隠し、しかし一定の距離を保ちながら歩み続ける。その意図も明らかな足取りに、コナーは緊張と警戒に身を固めた。組んでいた彼の腕が急に強張ったことに気が付いたナマエは足を止めようとしたが、コナーに歩き続けるよう促され、少し早足になる。
「どうしたの」
「つけられています」
「……私が――」
「いいえ、あなたをつけて来たようではないようです。急に現れた」
 小声で言葉を交わした二人は、道を変え、より複雑なルートを歩き始めた。追跡者を撒くためのルートだ。
「顔は見た?」
「だめです、見ることができない。僕たちが気付いているのを知っているのかもしれません」
 コナーの言葉には焦りがあった。それに当てられたナマエの心にも、不安が雲のように広がって行く。ようやくここまで来られたのに――と思うのはどちらも同じだった。
 しばらく二人は無言で歩いた。先ほどまでの柔らかな雰囲気に取って代わって、今や冷たい恐怖が二人の間を満たしている。それを感じて身震いをしたナマエは温もりを求めてコナーの手を握り、コナーはそれを握り返した。
「大丈夫ですよ」
「……うん」
 その言葉とは裏腹に、角を曲がる度、乗り物を変える度に、コナーの表情は険しいものへと変わっていった。周囲は暗くなり始めており、ナマエは腕時計が知らせる時刻と、チケットに刻まれていた時刻が近付いていくことに焦燥感を覚える。
「先回りされている――僕らの行く先を知っているのか」
 そう呟かれた言葉にも、コナーの焦りが滲み出ていた。
 コナーは考える。構築したルートは完璧なはずなのに、なぜ先回りされるのか、なぜ行く先が分かるのか、なぜ。そして気が付く。自分の他にもう一人、同じデータを持ち、同じ処理能力で、同じ結論を導き出せる者がいることに。
 足を止めたコナーは冷静さを取り戻していた。彼は固い覚悟を持って、振り返る。
「どうやら、決着をつける時が来たようです」


 コナーは先を行くもう一人の同型機の背を、嫉妬に満ちた目で見つめた。そしてその隣に佇むナマエに、裏切られたような感覚を覚える。……家に帰ると、言ったじゃないか。彼は胸の内でそう呟いた。
 署でナマエを見送った彼は、不穏な予感に導かれるようにしてここまでたどり着いたのだった。いや、機械が予感など感じるはずがない。予感には必ず原因があるものだ。人間はそれに気が付かずに、第六感などで片付けてしまうが、機械の彼はそう感じる具体的な原因をデータの中に求めることができた。
 視覚ログを辿れば、ナマエの胸ポケットの中にちらりと見えた紙切れの文字が、上手く処理されず、言わば未処理のデータとしてエラーを返しているのが分かった。つまり人間のように言うのならば、彼の心のどこかに、気掛かりな違和感として残り続けていた。
 紙質と文字から推測するに、その紙切れはチケットのようだった。交通機関の。
 なぜ彼女がそんなものを持っているのか。
 認めたくなくとも、それは、彼女が旅立つことを表わしていた。彼の手の届かぬ、どこかに。彼以外の、誰かと。
 だから彼は、それを阻止することに決めた。たとえどんなことが起ころうと、どんな犠牲を払おうと、構わなかった。
 彼の追うコナーが突然足を止め、振り返る。そんな想定外の行動に虚を突かれた彼は、身を隠すのを忘れ、その視線を真っ直ぐに受け取ってしまった。彼を見据えるブラウンの瞳には、決意があった。着いてこい、という言葉は無線で投げかけられたのではなく、瞳に込められたメッセージで、彼はそんな風に意志を伝えてくる相手に驚き、それを理解することのできる自分にも驚いた。
 当たり前だろう、同型機なのだから。そう彼は自分に言い聞かせたが、人気のない路地裏に消えた二人を追う足はどこか重く感じられた。


 街灯の光も届かぬビル群の狭間で彼らは対峙した。コナーが進み出ると、もう一対のコナーは銃を構え、庇うかのように背後へナマエを隠す。
「動くな」
 銃口を向けられたコナーは、わざとらしく、ゆっくりと手を挙げた。
「ミョウジ刑事の前で、僕を撃てるのか?」
「僕は撃つ。僕たちの未来の為ならな」
 その言葉に、コナーはふいと視線をずらし、向かい合うコナーの後ろから不安げに様子を伺うナマエへそれを定めた。
「ミョウジ刑事。なぜ彼と一緒にいるのですか」
「彼女に話しかけるな」
「待って、コナー」
 自ら歩み出たナマエは傍らのコナーの腕に手を添え、今にも引き金を引きそうな彼を制した。
「……RK800。どうしてつけて来たの」
 ナマエはその呼び名を変えることで、自身の恋人と相棒とをはっきりと区別し、かつそれを露にしてみせた。RK800は表情を歪める。
「あなたが、僕の忠告を無視するからです」
「忠告には感謝してる。でも、私の個人的なことに干渉してこないで」
「これが個人的なことであったとしても、僕には、あなたを止める義務がある」
「どうして?」
「彼が変異体で、テロリストだからです。人類の敵だ」
「でも、私の敵じゃない」
「……そうですね。僕の敵だ」
「なら、私もあなたの敵ということになるわね」
「…………どうしてなんですか」
 そう呟いて俯くコナーのこんなにも悲痛な声を、ナマエは今まで聞いたことがなかった。思わず同情心が芽生えそうになる彼女を、その恋人であるコナーが制する。
「ナマエ、話しても無駄ですよ」
 言外に、彼は言っていた。彼なんかに構わないで欲しい、と。恋人からのそんな訴えかけにナマエは頷きを返し、決意を新たにして口を開く。
「RK800、あなたが私に何を求めているのか分からないし、私はあなたに何もあげられない」
 コナーは顔を上げてナマエを見た。ナマエはその縋るような視線に応じながらも、言葉を止めない。
「私はね、彼を選んだの。彼が何をしようが、人類の敵だろうが、関係ない。だって彼を愛してるから」
「……僕のことは、愛せませんか。僕だって……!僕だって、コナーだ……」
「……ごめんね」
 その言葉によって突き放されたコナーは、ただ呆然と立ち尽くした。赤い壁が現れて、彼に二つの選択肢を突き付ける向こうで、彼を無力化できたと思ったらしい、彼の分身たるコナーが、ナマエの腕を取って歩き出す。
 二人の背が遠ざかる。ナマエは振り返りもしない。
 彼は選択した。


 傍らのコナーが突然身を翻したのでナマエは驚いた。だがそれに続く銃声が、その驚きを恐怖へと変える。
 撃ったのは、彼女の恋人だった。
 撃たれたのは、彼女の相棒だった。
 胸に穴を開けたコナーは、がっくりと膝をついた。何が起きたのか分からないとでも言いたげな驚愕の表情がゆっくりと薄れて行き、その下から覗いた感情が恐怖であること知ったナマエは、思わず駆け出していた。背後で彼女のコナーが咎めるように名を呼んだが、ナマエは足を止めることができなかった。
 膝をついたナマエは、死に行く機械の男を胸に抱いた。青い血が彼女の服を汚す。
「ナマエ、僕は……、ようやく、分かった」
 破損箇所から逆流するシリウムが、音声モジュールを侵し始めたのだろう、彼の声はノイズ混じりだった。彼が言葉を紡ぐ度に、そのノイズは激しくなっていく。
「僕はただ、あなたに行ってほしくなかっただけ、なんです。僕は、あなたと……一緒に……ただ、一緒に……」
 ナマエは彼と視線を合わせたまま、無言でいることを選んだ。これ以上、彼を傷付けたくなかった。


 やがて、シリウムの流出は止まった。完全に機能を停止したそのアンドロイドを地面へ横たえ、ナマエはゆっくりと立ち上がった。そのシャツは真っ青に染まっていた。彼女は隣に並んだ恋人に尋ねる。
「どうして、彼を撃ったの」
「彼が僕たちを通報しようとしたからですよ。僕にはそれが分かった」
 コナーはナマエのシャツを忌々しい気持ちで眺め、彼女の表情を見て、さらにその気持ちを深めた。
「なぜそんな顔をするんですか?ひとつの機械が壊れたに過ぎないんですよ」
「…………そうね」
 しかし、ナマエは心の中で思う。でも、彼は泣いていた。彼は泣いていたのだ……。




 デトロイト、冬。彼らに春はこない。





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