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短編|冬来たりなば春遠からじ

*『雪と銃』の続きです。




 ナマエにショートメールを送る。座標を表わす数字に、短い言葉を添えて。
 それに返事が与えられることはない。だがナマエは指定された場所に必ず来る。いくら時間が掛かろうと、いくら障害が多かろうと、彼女は必ず来る。
 コナーはそれを信じている。
 彼が“枝”を付けたナマエの携帯端末は、まるで鈴の付いた首輪を嵌めた猫のように、彼女の居場所をコナーへ明らかにする。
 ナマエもそれを分かっているはずなのに、携帯端末を手放さない。その理由をコナーは知っている。
 コナーは彼女の愛の存在を信じている。
 ……だが、彼女が懐に忍ばせている冷たい鉄の塊が、その思いを時折脅かす。彼女はそれもまた、手放さない。

 ナマエは自身の携帯端末が短く震え、彼からのメッセージを受信したことを伝えてくる瞬間を心待ちにしている。だから彼女はどんな時も携帯端末を肌身離さず持ち続けている。
 あの雪の日、あんな風に別れたにも関わらず、コナーは再びナマエへ連絡を取ってきた。「また会えませんか」と、短いからこそ彼の本心を表わしている文面を見て、ナマエはそれに応えざるを得なかった。彼を愛していることに気が付いてしまったから。
 二度目の再会は誰にも邪魔されることはなかった。郊外の暗い裏路地で、ナマエはコナーから愛の言葉と口付けを受け取った。
 それ以来、二人は人目を忍んで会い続けている。
 彼が送ってきた座標に着いたとしても、共有できる時間は限られていた。時には、人混みのなかでそっと抱擁を交わすしかないことだってある。群れから抜け出した一匹として存在できる時間はあまりにも短い。
 そう、片方は人類に反旗を翻した変異体であり、もう片方はそれを捕らえなければならないはずの警察官で、二人はお互い、自分自身の立場と生命を危険に晒して逢瀬を重ねていた。会う度に、これが最後かもしれないと思う。次は永遠に訪れないかもしれないと。
 だから、何か一つは相手のことを覚えて別れたいと願う。重ねた唇の柔らかさ、回した腕で測る身体の厚み、額を押し当てた胸元の奥で響く鼓動の間隔。どれか、ひとつでも。


 その夜の二人は、廃墟の窓際に並んで腰掛けていた。かろうじて残る窓ガラスとお互いの肩に身体を預けながら、無言で指を絡ませ合っていた。依然として降り続く雪が、外界の音を二人の側へ寄せ付けない。
 二人には愛の言葉を繰り返す必要などなかった。お互いの表情と視線の動きだけで、相手が何を伝えたいのか分かるからだ。苦難に満ちた現状を再び確認し合う必要など既に無く、そこから切り離されたシェルターのようなここには“今”しかなかった。
 ナマエは、コナーの指紋のない滑らかな指先が自分の指先を撫でていく感触を味わっていた。彼の指が、彼女の人差し指に最近できた小さな火傷の跡を見つけ、そこを何度もなぞっていく。
「どうしたんですか、これ」
「たいしたことじゃないの。話すほどのことじゃ……」
「でも僕は聞きたい。あなたにあったどんな些細なことでも僕は知りたい」
「ただ火傷を――撃ったばかりの空薬莢を触っちゃって……それだけ」
「他に怪我は、しませんでしたか」
「大丈夫。ありがとう」
「次に会う時にはきっと、この傷は治っているんでしょうね」
 コナーのその呟きの後には短い沈黙があり、ため息を零すようにして彼は言葉を続けた。
「離れていると、僕の知らないことばかり増えていく」
「仕方ないよ」
 ナマエの諦めに満ちた返事に、コナーは視線を落とした。
「あなたと会う度に、何か変化を見つけてしまうんです。新しいなにかを。以前記憶したあなたと、今日のあなたは異なっていて、次会う時のあなたも、きっとどこかが違う」
 ナマエは、生きている限り、変わっていくことは止められないと彼に伝えたかった。だがそれは彼の苦悩を深めるだけだろうし、機械と人の差異を更に浮き彫りにするだけで、結局のところ、彼女は黙ったまま彼が話すに任せた。
「記憶の中のあなたと現実の中のあなたは違う。どんなに正確に記憶したとしても、現実のあなたは変化していく」
 上手い慰めの言葉を見つけることのできなかったナマエは、ただ、コナーを抱きしめた。両腕をその背へ回し、頬と頬を寄せ合う。コナーもそれに応えてナマエを腕のなかに納めた。
「僕はあなたの側にいたい。一緒に変わっていきたい」
 耳元でそう呟くように漏らされた弱々しい声に、ナマエは胸が痛むのを感じた。そしてナイフの一振りのような言葉を彼に突き刺さなければならないことを辛く思った。
「それは無理よ」
 現実はいつも二人の上に影を落とし、二人の間に割り込み、未来をかき消していた。ナマエは繰り返す。現実を言葉にして。
「一緒にはいられない」
「どうしてそう思うんですか」
 消極的であっても肯定が返ってくると思っていたナマエは、予想外の疑問の言葉に少しばかり戸惑った。
「だって、誰もそんなことを許さないでしょう」
「誰も?“あなたは”どうなんですか、ナマエ」
「私は……」
 現実と理想の二択を突きつけられ言葉を詰まらせるナマエに、抱擁を緩めたコナーは視線を合わせる。
「あなたは僕と一緒にはいられない、そう思っているんじゃないですか?」
「そんなこと……」
 ナマエの言葉を遮って、コナーは彼女の上着の中に手を差し入れた。彼の突然の行動にナマエは身体を強ばらせ、その目的のある手が求めるものに思い当たって、ひどい罪悪感と恐怖を覚えた。
 コナーがナマエの上着の内ポケットから取り出したのは彼女の拳銃で、思わずナマエは目を逸らした。コナーは彼女の体温で生暖かいそれの薬室に初弾が込められていることを確認し、そのままその銃口を彼女に突きつけた。
「あなたは僕を信頼していない」
 ナマエはコナーと会う時、いつもどこかに拳銃を忍ばせていた。そしてコナーもそれを知っていて、彼女の不信がそのような形をとっているのだろうと思っていた。
 コナーは銃の先で、ナマエの身体をなぞった。臍から鳩尾を経て心臓の上で止まったそれへ、ナマエは視線を落とせなかった。冷たい怒りを帯びたコナーの瞳が一瞬かち合った彼女の瞳を捕らえ、再び目を逸らすことを許さなかったからだ。
「いつか僕を裏切るつもりですか?それとも、僕が裏切ると思っているんですか」
「違う……」
 ナマエは自分の喉が引きつるのを感じていた。彼が本当に引き金を引くつもりではないことは分かっていたが、それでも言葉を間違えれば、この関係が終わってしまうことは明らかで、彼女はそちらを恐れた。
「始めは、そう、あなたを捕まえないといけないと思ってた。でもあなたが私を愛してくれてることを知って――私もあなたを愛してるのに、そんなことできるわけがない」
「ではなぜ」
「愛してるから」
 言葉とは裏腹に、ナマエはコナーの視線から逃れ、冷たく汚れた床へ顔を背けた。
「愛してるから――いつか終わらせたかった」
「何を、ですか。この関係をですか」
「そうとも言えるし、違うとも言える。私はいつか……コナー、あなたに……」
 ナマエの声は震えていた。そして彼女は同じく震える手で銃身を掴み、コナーへ向き直った。
「……殺してもらいたいと、思ってた」
 コナーは人間のように息を飲んだ。
「そんなこと、僕にはできない。あなたを、僕が……」
「でもそうすれば、私はあなたの記憶の中に残ることができる。離ればなれになったり、あなたを置いていくようなこともなくなる。あなたに置いていかれることも。思い出になってしまえば、さっきあなたが望んだとおり、変わらないまま、永遠に、あなたの記憶に残っていられるの。そして私も――あなたを瞳に映したまま、最期を迎えられる」
「僕は嫌だ」
 縋るように言葉を並べるナマエに、ばっさりとコナーは言い放った。
「僕は、あなたと一緒に変わっていきたいと言ったんです。僕はデータのあなたじゃなく、現実のあなたを愛している。例えそれが変わりゆくものでも」
 コナーは銃からナマエの白く強ばった手を優しく引きはがすと、それを傍らに置き、もう一度彼女を愛情深く抱き締めた。ナマエは泣き始め、顔をコナーの胸元に埋めると、涙に濡れた声で謝罪の言葉を繰り返した。
 銃口はもう、二人の世界の外側を向いている。だが、目に見えぬ弾丸は確かに放たれ、二人のその膠着した“今”を打ち砕いていった。

「僕は愚かだ。あなたを疑うなんて」
 ナマエが心の内に抱えていたのは不信ではなく、より重い愛だった。彼女は愛で自分自身を追い詰めていた。死という、最大にして不可逆的な変化で人生を終わらせることを渇望してしまうほど。
 それに逃げ道を与えられるのはコナーだけだった。「ナマエ」とコナーは優しく彼女の名を囁いた。
「僕になにか下さるのでしたら、命ではなく、未来を下さい」
「あげる。なんでも。あなたが望むもの全て」
「じゃあ、勇気も貰いましょう。死ぬ勇気ではなく、生きる勇気です」
 コナーの胸元から顔を上げたナマエに、コナーはいたずらっぽく口角を上げて見せ、ウインクをした。そんな励ましを受け取ったナマエは思い出す。例え自分の何もかもが変わってしまっても、コナーを愛していることだけは変わらないのだということを。
 ナマエは涙を拭い、同じ様に笑みを返す。
「変わるのが――怖かった。今を変えてしまえば、何かを失ってしまう気がして。ずっと同じところに留まっていたかった。……でも、変わらないものだってきっとある」
「ええ。それに、変わってしまっても、消えてしまうわけじゃない」
「ずっと?」
「永遠に」

 二人がもたれかかる窓の向こうでは雪の最後のひとひらが舞うところだった。目覚めつつある街の音が彼らに旅立つ時が来たのだと伝えている。
 雪はもう、降らないだろう。


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