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20

 リビングのテーブルを占拠している花たちは、コナーが水を替えるのを放棄したために枯れ果てていたが、彼はそれをどうしても捨てられなかった。それらが視界に入る度に心が傷付くのが分かっているのに、それを捨ててしまえば、もう二度とナマエが帰ってこなくなるような気がして、コナーは花たちに触れることすらできなかった。
 窓の桟へ積もった埃に、ナマエの指の跡が残っていた。その側にあるアヒルへ用のあったコナーは偶然それを見つけ、また喉奥までせり上がってきた悲しみを無理矢理飲み込んだ。彼はその跡を消さないようにしながら、アヒルを手に取った。
 君はナマエが何を思っていたのか知っているんだろう、とコナーはアヒルへ問いかけた。君はナマエの一番のお気に入りだったんだから。アヒルは返す。ならどうして置いていったのだろう?もしかすると、取りに帰ってくるかもしれない!ナマエが僕を捨てるはずがないんだから。彼女は僕を愛していた。
 コナーはアヒルを押しつぶした。アヒルが本当に発したのは、があ、という鳴き声だけだった。

 浴室に留まることは、コナーにとって苦痛でしかなかった。浴室のあちこちからふいに出てくるエメラルドグリーンの鱗は、彼を幸福だった頃の思い出で殴りつけた。
 その床へ置かれた観葉植物の蕾は、寒さのためか開きそうになかった。それがいつかは咲いてほしいという気持ちと、ナマエとそれを見られぬなら枯れてしまえばいいという相反する思いを、コナーは抱えていた。だが結局いつかは枯れてしまうのだろうという自棄的な気持ちが、どちらの思いの上にも暗い影を落としてもいた。
 シャワーを浴びながら身体を伝う水滴を肌で感じると、そこに紛れて、ナマエの指の感触までもをいつもコナーは思い出してしまうのだった。どんな風にナマエが彼へ触れ、慰め、癒したのかを。彼のために温められたあの手を。
 そして、冬の寒さがどんなに厳しくとも、コナーは浴槽に湯を張らなかった。浴槽へ横たわったが最後、ナマエと共にここで過ごしたあのひと時を思い出してしまうからだ。彼女の腕の中で眠ったこと、あの途方もない安堵感、愛情、安らぎ、喜び。それは失われ、もう二度と戻らない。
 こんな風に奪い去ってしまうのなら、最初から愛などくれなければよかったのに、とコナーは思う。愛は二人で作り上げたものであり、その片割れが去った今、愛の半分はむしり取られ、傷付いていた。それは依然として癒える気配を見せなかったが、それは当然とも言えた。コナーを癒すことができるのはナマエだけなのだから。

 
 そんな日々を過ごすコナーを、ハンクが家へ誘った。クリスマスまであと数日といったところで、素直でない彼の相棒は、ぶっきらぼうに言った。
「クリスマスはどう過ごすんだ」
「多分仕事ですよ。去年も、その前も、そうだったじゃないですか」
「実家には帰らないのか?」
「帰ったところでなにもありませんしね」
「じゃあ俺の家に来ないか。つっても大層なものはねえが……スモウならいるぞ」
「どうせ仕事ですよ」
「仕事の後の話だよ。クリスマスにも残業するつもりか?」
 去年のコナーとハンクは、周囲がクリスマスに浮かれているのを尻目に仕事をこなしていた。だが今年はいったいどういう風の吹き回しだろう、とコナーは思い、ややあってから、ハンクが馴れないながらも自分を励まそうとしているのだということに気が付く。コナーは久しく浮かべていなかった微笑みを唇にぎこちなくも湛え、ハンクへ頷いて見せた。その反応に、ハンクはほっとしたようだった。

 そしてクリスマス当日、署からそのまま向かったハンクの家にはツリーなどなく、もちろんイルミネーションの類いもなく、出てきた夕食は冷凍のピザとビールだった。だがそれに、コナーは不思議な安堵感を覚えた。しばらくは、きらびやかで明るい雰囲気に接したくないというコナーの心の内を、まるでハンクは知っているかのようだった。
 二人はソファに座って温め直されたピザを食べながら、映画専門チャンネルが延々と流しているクリスマスムービーを途中から観た。スモウがやって来てひとしきりピザを欲しがったあと、それが貰えないことを知ると、コナーの膝を枕にして寝始める。犬へ若干の苦手意識を抱えるコナーが戸惑い、動けずにいるのを見て、ハンクは笑った。
「お前に懐いてるんだよ」
「懐かれても……犬は苦手です」
「なんでだよ。かわいいじゃねえか」
「簡単に懐くでしょう。こうやって、僕みたいな奴にも。それが信用できないんですよ」
 コナーの膝の上に完全に落ち着いてしまった様子のスモウが、ぴすぴすと鼻を鳴らす。
「こいつらには、懐かれるべき価値のあるやつが分かるんだよ」
「僕は……」
 皿を置くべき場所をスモウに占拠され、手を彷徨わせながら口ごもるコナーに、ハンクは、素直に好意を受け取れないやつは悲惨だな、と思った。
「お前は人から好かれた時にもいちいちその理由を探してんのか?」
「なにも理由なく他人を好きになるものですか?」
「お前自身はどうなんだ」
 コナーの瞳に悲しみがさっと影を落とすのを見て、ハンクはまずいことを聞いちまったなと内心で焦った。だが、それは一瞬のことで、再びハンクと視線を合わせたコナーの瞳にはなんの感情の色も浮かんでいなかった。
「これからは、もうそんなことはないでしょうね」
 それはかなりネガティブな言葉のようにも取ることができたが、一応は未来を見ている言葉ではあった。“これからは”か、とハンクは声に出さず繰り返した。こいつのこれからは長い。歩みを止めなければ、再び誰かからの愛を得られることもあるだろう。あるいは誰かを愛することもできるようになるだろう。
 だから、辛くても今は歩くのを止めないでくれよ、とハンクは思う。彼はコナーを過去の自分のように、そして息子のようにも思っていた。

 泊まるかと尋ねてくるハンクへ首を横に振り、コナーは飾り付けられた木々の下を家へ向かって足早に歩いていた。誰もが連れ合いと歩く道を独りで行きながら、彼は地面へ、踏み荒らされた雪たちが茶色い地面へ視線を注ぎ続けていた。顔を上げて、街中を彩るイルミネーションを見てしまえば、悲しみに打ちのめされることが分かっているからだ。ナマエに見せたかったな、と思ってしまうからだ。
 それとも、彼女は別の場所でこれを見ているのだろうか。そんなことをふと思い、コナーは足を止めた。その狭い視界に、白いものが舞う。先ほどまで止んでいた雪がまた降り始めたのだ。思わず天を仰いだ彼の肌に繊細な結晶が触れ、溶けていく。冷たい水滴が頬をなぞり、落ちていく。
 しだいにそれへぬるいものが混ざっていくのを感じながら、コナーは思う。
 皆が知っている物語の終わりはこうだ――そして、人魚姫は泡になって消えてしまいました。だが、終わらなかった物語はどうなるのだろう。残されてしまった登場人物にどう振舞えというのか。


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