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19
寝返りを打ったコナーは、目を閉じたままナマエの身体を探した。今日も休みだから、クリスマスマーケットに行ったら楽しいだろうな、とコナーは考えた。クリスマスツリーを買うのもいいかもしれない。今までそんなものを買ったことも飾ったこともなかったが、きっとナマエは喜ぶだろう。どんなオーナメント買おうか、きらきらしたモールと光る電飾なら、ナマエはどちらが好きだろう。いや、どちらも飾ってしまえばいい。ナマエが喜ぶものなら、いくらあってもいい。
しかし、伸ばした手が何にも触れないことに疑問を覚えたコナーは、その楽しい空想を切り上げて目を開く。ベッドの中に、ナマエはいなかった。
この時点でのコナーは、そのことにあまり焦りを覚えなかった。多分浴槽へ戻ったのだろうと彼は軽く考えていた。馴染みのないベッドでは居心地が悪かったのかもしれない、と。彼は浴室へ向かって歩きながら服を身につけた。
だが、覗き込んだそこにもナマエの姿を見つけることができず、コナーは心臓へ氷の刃を突き刺されたかのような冷たさと衝撃、そして恐怖を覚えた。
コナーは頭の中が真っ白になっていくのを感じながら、部屋中を探し回った。少ない数の部屋を見て回るのには数分も掛からなかった。
ナマエはどこにもいなかった。
心臓が嫌な感じに跳ね回るのを押さえつけながら、コナーはドアを蹴破る勢いで開け、外へまろび出た。呼吸の仕方が分からなくなるようなパニックに襲われつつも、コナーはナマエの名を呼び、通りを駆ける。道行く人々が彼を好奇の目で見つめたが、彼にはそんなことに構っている余裕などなかった。つい昨日、二人で身を寄せ合って歩いた道を、独りで走る。ナマエはきっと好奇心に導かれて家を出てしまったのだと自分に言い聞かせながら。
荒い息を一旦整えるために立ち止まったコナーは、ナマエが心惹かれそうなものを思い浮かべる。彼女がショーウィンドウを覗き込み、楽しげに歩く様を思い浮かべる。そして、その背が遠ざかっていくところまでをも想像してしまう。自由になった彼女が、一度も振り返らずに、コナーを置いていくところを。
「……僕を独りにしないでくれ」
彼の呟きを拾うものは誰もいなかった。
コナーは淡い、そして打ち砕かれることなど既に分かっている希望を、しかし捨てきれずに胸へ抱いて帰宅した。既に日は沈み、街中を走り回ったせいで足が痛んだ。飲まず食わずで一日を過ごしたというのに、コナーは空腹や喉の渇きを少しも感じなかった。
慌てて出てきたせいで、コナーはドアに鍵をかけていなかった。手の中で軽やかに回るドアノブに、希望が膨らむ。ナマエはもしかしたら家へ戻ってきているかもしれないという希望が。
家の中は暗く、静まりかえっていた。だが、胸の中で勝手に大きくなっていく希望が、彼の足を止めさせない。コナーは無理矢理生き返らされた死者のようにふらふらと浴室へと歩いていった。途中、窓の側に置かれた黄色いアヒルのおもちゃと目が合う。ナマエが良くも悪くも気に入っていたらしいアヒルが、黒くて小さな瞳でコナーを見つめていた。
コナーが薄々勘付いていた通り、浴室は彼が出て行った時のまま、空だった。彼はゆっくりと崩れ落ちてその場に膝をつき、そのまま這うようにして浴槽へたどり着いた。
浴槽の縁に腰掛けたコナーはそこでナマエと過ごした日々を思い返し、本当は嫌だったのか?と胸の内でナマエへ問いかける。結局君は僕に自分自身を捧げていただけなのか?僕が愛だと思っていたものは全て錯覚だったのか?今は空っぽの浴槽の中でナマエが笑っていたのを覚えている。眉間に皺を寄せて、手に持ったアヒルを鳴かせていた姿も、物憂げに月明かりに照らされていた姿も、コナーに水をかけてはしゃいでいた姿も、全部覚えている。なのに、君はこの思い出たちと一緒に僕を置き去りにするつもりなのか?
また独りになってしまった、とコナーは思い、ふと壁面の音楽プレイヤーに目を留める。そして彼はそれに救いを求めて、聞き慣れたあの女性シンガーの曲を再生した。柔らかで穏やかなピアノの音に、歌手の細い声が重なる。
だが、その曲はもう、彼の孤独を癒やしてはくれなくなっていた。
ナマエの温かな手と慰めが恋しくて、コナーは泣いた。
翌日コナーは、ナマエを探したいという気持ちと、ナマエに捨てられたのだという現実に、今にも引き裂かれそうなまま、寝不足の身体で出勤した。
ハンクはそれを一目見るなり、年の功とでも言うべき洞察力で、コナーが心の一部を喪失してしまったことを察した。
「……大丈夫か?」
その問いかけに返ってきたのは、微かな頷きだけだった。虚空を見つめるコナーのその様子に、ハンクは彼の抉り取られた心がまだ血を流しているのを知った。彼が涙を堪える代わりに。
そんな状態でも仕事にはきちんと取り組むコナーの姿は、逆に、見る者の哀愁を誘った。今ではすっかりコナーと打ち解けている同僚たちが彼の意気消沈した様子を心配して声を掛けたが、それにコナーが返したのは硬い表情と短い言葉だけだったので、皆早々に励ますのを諦めた。
仕事を済ませて帰宅したコナーは、家のドアを開けるのを戸惑った。ドアの向こうには確定していない未来があった。ナマエが帰ってきている未来と、いない未来。彼がドアを開けてしまえば、未来はどちらかに収束して現実となってしまう。雪の降る中、彼は一時間近くドアの前に立ち、そして開けた。待っていた現実は“いない”だった。
まるで昔へ戻ってしまったかのように、人を遠ざけ、仕事に没頭するコナーをハンクは心配した。コナーがそんな振る舞いを見せるようになってから数日が経ったが、未だコナーの瞳は暗く曇っており、彼の人魚の恋人が戻ってくることも、彼が失恋から回復する兆しも、しばらくは望めないようだった。
日に日にやつれていくコナーを危ぶんだハンクは、彼をランチへ誘った。コナーは嫌そうだったが、ハンクが無理矢理行きつけのバーガーショップの横に車を止め、頑として動かない様子を露わにして見せたので、渋々といった様子で車から降りてきた。
ハンクがいつものようにXLサイズのバーガーを食べる横で、コナーはドリンクだけを気乗りしなさそうに飲む。
「希望で自分を殴るのはよせ」
唐突にハンクがそう言うと、コナーは一瞬驚いた表情を覗かせたが、なにか心当たりがあるのか、口元に、痛々しく自虐に満ちた笑みを浮かべた。
「帰ってきてくれるんじゃないかと、そう思ってしまうんです」
「でも帰ってこない。それで、お前は傷付く。期待した分だけ傷は深くなる」
「分かってはいるんです」
「じゃあ止めろ」
「どうしてそんなことを言うんですか?どうしようと僕の自由だ」
「お前が自分を虐めんのを黙って見過ごせってか?せめて飯ぐらい食え」
「食欲が湧かないんです」
ハンクは長々としたため息をついた。
「昔の自分を見てる気分だよ。嫌になる」
「じゃあ僕に関わらないで下さい」
「……だからこそ、お前が心配なんだよ。お前が昔の俺みたいに馬鹿なことをしでかさないか」
優しく、子供を諭すかのように言って聞かせるハンクに、コナーは俯く。彼は自分の幼稚な発言を少しばかり恥じた。
「ありがとうございます、心配してくださって」
「別に礼が欲しいわけじゃねえ。お前に立ち直ってほしいんだ。必要なら、カウンセラーを紹介してやるから」
「もう少しだけ……」
ぽつりとコナーは呟いた。
「もう少しだけ、希望を持っていたいんです。それに裏切られることになっても、僕は彼女を待っていたい」
弱々しくそう零すコナーに駄目だと告げることは、水に沈みかけている人間からそのしがみつくべきものを奪い去る行為のように思われた。ハンクはどう返すかしばし悩み、まだ手を付けていなかったセットメニューのポテトをコナーへ差し出した。
「分かったから、食え」
コナーはそのポテトを一本手に取ると、黙ったまま食べ始めた。
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