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21(END)
降り続く雪がその肩に薄く積もり始めていた。厚いコートに阻まれた体温はそれを溶かさず、微動だにしない彼の上からそれが払われることはなかった。
コナーは玄関の前に立っていた。彼は家に入りたくなかった。自分の孤独を再確認したくなかった。暗い窓が、すでに収束済みの現実を伝えてきている。
ナマエはいない、とコナーは心の内で呟いた。これからも、いない。
人魚姫は王子に捨てられ泡になって消えたが、僕はどうやって消えたものだろうか、とコナーは自虐気味に笑った。
寒さも感じずに立ち尽くしたまま、コナーはしばらく、どこかの戸口の前で歌っているらしい聖歌隊の声に耳を澄ませた。綺麗に重なる幼い子どもたちの高い声、それに混ざる、誰かが雪の上を歩く音。その誰かは走り、雪に足を滑らせ、歩くことにしたようだ。規則正しい足音がコナーに近付く。
そして、俯いた彼の視界に、二つのつま先が現れて立ち止まった。その靴に、コナーは見覚えがあった。彼が選び、手ずから彼女に履かせた靴。彼女が歩くのを楽しめるようにと悩み抜いた末に買った靴だ。だから、それを履いているのは……。
顔を上げたコナーの前には、ナマエが立っていた。目があった彼女は、少し申し訳なさそうに眉尻を下げている。しかし唇は柔らかな曲線を描いていた。それが動いて言葉を作る。
「コナー」
今までコナーが心の中だけで聴いていた声が、現実の空気を揺らし、彼の耳をくすぐった。コナーが何も答えられないでいると、ナマエは困ったように目を瞬いた。彼女の唇がまた声と言葉を紡ぎ出す。
「帰るの、遅くなってごめん」
コナーはよろよろとナマエへ近付き、その身体を抱き締めた。それが本当に実体を持つ存在なのかを確かめるかのように。自分の幻覚などでは決してないことを確認するかのように。
ナマエは本物で、確かに存在していた。彼女はコナーの身体に腕を回して優しく包み込み、耐えきれずにコナーが泣き始めると、宥めるかのようにその背を撫でた。
しばらくコナーはナマエを腕の中に閉じ込めたままじっとしていたが、ゆっくりと心の中に沈み込んでいった実感がようやくその底に辿り着いたので、少し身体を離して、彼女と視線を合わせた。
「どこに、行ってたんだ?」
「ジェリコに。私ずっと声が欲しかったの、あなたに、言いたいことがあって」
どうやらナマエはジェリコで音声モジュールとそれ関係のプログラムをインストールしてきたらしい。
コナーは一歩引いて、ナマエから完全に身体を離した。自分を支える脚を、意思を伝える方法を得たナマエはそこにコナーと対等な存在、独立した存在として立っていた。今、二人は改めて異なる存在として相手を認めた。そして、ナマエは口を開いた。
「コナー、私、あなたを愛してる」
喜びと安堵の混ざったものが、身構えていたコナーを包み、その意識を遠くへ運び去った。返事もせずにぼんやりと立ち尽くすコナーへ不安を覚えたのか、ナマエは自分の喉を両手でさする。
「えっと、私、言葉間違えてた?愛してる、でいいんだよね?離れたくない、の方がふさわしかった?ずっと一緒にいたい、とか……」
急に強い力で抱き締められて、ナマエは口を閉じた。彼女を腕のなかに納めたコナーは、涙に揺らぐ声で言葉を返した。
「僕も君を愛している。離したくないし、一生君の側にいたい」
ナマエは愛しいコナーの胸元へ額を寄せ、彼のために調節を重ねた声で再び囁いた。
「愛してる」
その声は、どこかあの女性シンガーのものと似ているように思われた。コナーはそれを紡ぎ出す唇を己の唇で塞ぎ、愛の伝え方が言葉だけではないことを伝えた。そんなことはもう、二人とも既に知っていたけれど。
ナマエは深い紺色のジーンズと白いセーターを身に纏っていた。長い抱擁と口付けが一段落ついたコナーは、その姿をまじまじと眺める。
「君は……パンツスタイルが好きだったんだな」
少しの苦笑と共にコナーがそう言えば、ナマエは優しい微笑みを返す。
「これはノースがくれたの。ワンピースは汚れちゃって……ごめんなさい。ジェリコが思ったよりも遠くて」
でも、とナマエは明るい表情で続ける。
「あなたがくれた靴のおかげで、帰って来られた」
「……やっぱり、お家が一番って?」
そう唱えて踵を打ち鳴らす彼女を思い浮かべながらコナーが言葉を返すと、ナマエは微笑みを深めた。
「やっぱり、コナーが一番って」
ナマエへの愛おしさを押さえきれなくなったコナーは、再び彼女の身体へ腕を回した。
「君が帰ってきてくれて嬉しい」
コナーの肩に積もった雪を、ナマエは丁寧に払い落とす。
「あなたが待っていてくれて嬉しい」
「僕はいつまでも待つよ」
「もうあなたを独りにはしない。孤独の辛さは、私も知ってるもの」
そうして二人は以前交わした約束を果たすべく、夜の街へ繰り出した。
雪の降る中、ツリーの上で巨大な星が暗い空を背景に煌々と輝いている。何重にも巻かれた電飾は上から下へと色が流れるようなグラデーションを作り出し、見る者の目を楽しませていた。通り過ぎるドローンが陽気なクリスマスソングを流す。
ナマエと手を繋いでツリーを見上げたコナーは人生で初めて、クリスマスを楽しいと感じた。そしてその傍らで生まれて初めてのクリスマスなるものを楽しむナマエは、来年はもっと楽しいクリスマスになるだろうと確信していて、その先も、それ以外の日だって楽しくなるのだということを信じていた。
だってナマエにはコナーがいて、コナーにはナマエがいるのだから。
「そして、二人はいつまでも幸せに……」
コナーがそう呟くと、隣のナマエが顔を上げて、なあに?と問いかけるような視線を送り、しかし今の自分には声があることを思い出して、「どうしたの?」と言った。
その声は言葉とは相反して明るく弾んでしまっていて、ナマエは苦笑し、より落ち着いた調子で言い直す。
「どうしたの?コナー」
ナマエがそう名を呼ぶ度に、コナーの胸は高鳴り、温かな液体が染み入るかのように喜びが心へ行き渡っていく。コナーは電飾の光を反射してきらめくナマエの瞳を眺めながら答えた。
「物語の終わり方について考えていたんだ」
「物語?」
「人魚姫のね」
ナマエのLEDがくるりと回り、どうやら彼女はその一瞬で人魚姫の物語を読み終えたようだった。ナマエは悲しげに微笑んだ。
「私が泡になって消えたと思ったの?」
その口調と表情に、自身の信頼不足を責められているような気持ちになったコナーは、「まあね」と言葉を濁す。ナマエはそんな彼の腕をとって抱きしめた。
「王子は人魚姫を選んだのに?それも、姫ですらない、ただの人魚を」
「僕も王子じゃない。だから、この物語の終わりはこうなんだよ――そして、二人はいつまでも幸せに暮らしました」
コナーは微笑み、ナマエも微笑みを返した。二人はお互いに相手が何を考えているのか、心で分かっていた。だから、何の合図も言葉も、目配せすらも交わさないまま、二人は自然と引き寄せられるかのように唇を重ねた。
そして、二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ。
La Fin.
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