Main|DBH | ナノ

MAIN


16

 目を覚ましたコナーはベッドの中で寝返りを打ったが、もうあの強烈な頭痛は襲ってこなかった。どうやら解熱剤が効いているらしい。だが吐き気は依然として続いていたので、彼は水を飲むと再び身体をシーツの中へ埋めた。そして部屋のいたるところにナマエの美しい鱗が散っているのを見た。彼は目の奥が熱くなるのを感じ、胸を締め付けられるような感覚に襲われたが、それは病のせいではなく、ナマエへの申し訳なさと愛によるものだった。
 ナマエが必死に這ってここまで携帯端末を取りに来たのだということが、その鱗の跡で分かった。ドアの開け放たれた戸口の向こうに覗く、キッチンの辺りが特に輝いて見えるのは、彼女が水のないそこへ留まり続けたせいで生体部品の崩落が激しくなったためだろう。もしかすると、ナマエはなんとかしてコナーをベッドへ運ぼうとしたのかもしれない。彼女の健気さが愛おしく、同時に辛かった。
 家の中は静まり返っていた。物音のひとつでも立てれば、コナーが目を覚ましてしまうとナマエが思っているに違いなかったが、その静けさがコナーには少し寂しかった。それが心細い、という感情なのだということに気が付くのには時間がかかった。
 彼は長らく独りでいて、それに馴れていたから、こんな感情を覚えるのは久々のことだった。幼少期に置き去りにしてきたその感情を、今ようやく取り戻すことができたように思われた。彼は心細いことをしばらく楽しみ、再び眠った。

 鍵とドアの開く音にコナーがまどろみから意識を引き上げると、日が沈んだ後の薄暗い室内に見慣れた相棒の姿があった。その頭が寝室の様子を伺うように動いたので、コナーは身体をもたげて自分が目覚めていることを伝える。カチ、と壁面のスイッチを操作する音が響いて、室内の明かりが付いた。
「起きて大丈夫なのか?」
「ええ、おかげさまで随分良くなりました。迷惑をかけてしまって、すみません」
「こういう時は大人しく感謝しとけ。謝るんじゃなく」
「……ありがとうございます、ハンク」
「よし」
 満足げにハンクは頷き、パウチタイプのゼリー飲料をコナーへ手渡した。コナーはそれをありがたく受け取り、そのプラスチック製の小さなキャップを捻りながら、ひとつ頼み事をした。

 ハンクは中々浴室から戻ってこなかったが、寝室まで微かに彼の声が聞こえてくるので、コナーには二人がなにかを話していることだけは分かった。ハンクが何を言ったのか、おもちゃのアヒルの鳴き声が鋭く響く。コナーは微笑ましい気持ちになった。それは僕にしか通用しないんだよ、と憤慨しているらしいナマエへ心の中で呟く。再び寝室へ現れたハンクは、困惑した表情で、片手に一輪の花を持っていた。
「ナマエの様子はどうでしたか」
「……これを貰った」
「彼女、あなたに感謝してるんですよ」
 そう言ってコナーが微笑んで見せれば、ハンクはもう一度花へ視線を向け、苦笑の混じった笑みを返した。
「お前を心配してたよ」
「尾はどうなってましたか」
「まあ、あんまりいい状態ではなかったな」
「……そうですか」
 一転して表情を曇らせるコナーに、ハンクも真剣な顔つきを見せる。
「彼女は、あの店から連れてきたやつか」
 コナーは視線をシーツの上へ彷徨わせた。短い沈黙があり、「ええ」と同じく短い返事があった。ハンクは頬を掻いた。
「そんなとこだろうとは思ってたが……どうして俺に話さなかった。一応、相棒だろう、俺たちは」
「怒られるかと」
 珍しくしょげた様子でぽつりとそうこぼすコナーが、ハンクには年相応の青年らしく見えた。
「お前が自我のないアンドロイドを盗んで閉じ込めてるなら怒ったが……」
 ハンクは浴室の方をちらりと見やり、続ける。
「どうやら、違うみたいだしな」
「僕がそんなことをするように見えますか」
「悪かったよ」
「……どうしますか、僕を」
 不名誉な誤解に一瞬だけ気色ばんだコナーだったが、またすぐに悄然とした表情に戻ってしまった。ハンクは長く息をついた。
「別に……お前をどこぞに突き出すつもりはねえよ。俺たちは元々グレーな警官だったろ」
 サイバーライフに忍び込んだあの革命の夜のことを思い出しながらハンクがそう言えば、コナーはようやく肩の力を抜いたようだった。
「彼女を誘拐したことを、後悔してはいません」
「誘拐か。……双方同意の上での、な。それをなんて言うか知ってるか?」
 唐突に出されたその問いかけにコナーが首を傾げると、ハンクは口角をにっと持ち上げて見せた。
「駆け落ちっつうんだよ」
 コナーは頬を赤らめる。それへハンクも微笑みを浮かべたが、ややあってから険しい顔をコナーへ向けた。
「俺がお前より先にくたばったら……まあ多分そうなるとは思うが」
 かなり突然に切り出されたその話題にコナーは面食らった表情を覗かせ、戸惑ったように言葉を返した。
「何十年後の話ですか、それは」
 わざと茶化すようにコナーがそう言っても、ハンクは硬い表情を崩さない。
「そん時はお前がスモウを引き取ってくれるって話だったな」
「ええ」
「じゃあお前はどうなんだ。俺が死んで、お前も死んで、そしたら彼女はどうするつもりだ?あのままあの浴槽で一生を過ごさせるつもりか?」
「そんなことは……」
 それは、ノースに言われてからコナーがずっと目を逸らしてきた問題だった。続けるべき言葉を見つけられないコナーに、ハンクは顔をずいと近づけて、低い声で釘を刺した。
「彼女はお前の“魚”じゃねえんだぞ」


 ハンクが帰ってすぐ、コナーはナマエの元へ赴いた。ナマエは浴槽の底に身を横たえていたようだったが、コナーが浴室へ足を踏み入れると同時に、ばさりと水の中から上半身を起こした。大丈夫なの?という問いかけを表わす身振りが洪水のようにコナーを襲う。LEDのリングを赤くさせたナマエを安心させるべく、コナーは笑みを浮かべて浴槽脇に膝をついた。
「心配させたね」
 ナマエは肯定も否定もしなかったが、代わりにその瞳がどんどん潤んでいき、最後には透明な水滴が頬を伝った。コナーは慌てて親指でそれを拭う。
「すまない」
 謝るコナーの頬を、ナマエは優しく撫でる。彼がそうしたように。声を持たぬ彼女にはこれが精一杯の慰めの言葉代わりだった。それにナマエの深い愛情を感じとったコナーは、体調が悪いことなど忘れて今すぐ浴槽に入って彼女を抱き締めたくなったが、傷付いた尾びれを前に、その欲求は消えていった。
「ナマエ……」
 気落ちした声で彼女の名を呟けば、コナーの視線で彼が何を言わんとしているのかを理解したらしいナマエは、尾びれを背中に回して隠そうとした。
 エメラルドグリーンの美しい鱗は半分ほど剥がれ落ち、下の淡いピンク色の人工皮膚が露わになってしまっている。その相反する色の対比が、ますます傷の生々しさを浮きだたせていた。それは、アンドロイドに痛覚はないことを知っていても、思わず目を逸らしたくなるような光景だった。コナーはまた謝罪の言葉を口にしようとし、しかしそれよりも早くナマエがその唇を自分の唇で塞いでしまった。
 コナーは目を閉じてナマエの甘くて優しい温もりを唇と心の両方でゆっくりと味わい――決断した。


[ 118/123 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -